見出し画像

正論は、なぜ響かないの?


正しいことを言っているはずなのに、なぜ相手は耳を傾けてくれないのか。むしろ反発心を煽ってしまうこともある。この問いについて、かなり悩んだこともあった。

わたしなりの結論としては、正しさは相対的だから、また、感情を無視している場合が多いから、だ。しかし、正論を否定するものではなく共感や納得感を醸成することで正論が生きてくる。
正論だけでは響かない。これが本質だと考えた。以下、簡単に考察する。


まず、正論が響かない理由として考えられるのは、その正論が本当に「正しい」ものであるかどうかは、人によって異なるということだ。

絶対的な真実や正義というものは、実は非常に少ない。特に人間関係や感情が絡む問題においては、それぞれの立場や価値観によって「正しい」と思うことは変わってくる。自分にとっての正論が、相手にとっては正論ではない、ということは多々ある。

例えば、仕事で遅延している新入社員Aがいたとして、上司が期限モノの仕事の期限は当然順守すべきだ、というのは一見正論に思える。しかし、Aの仕事の知識が圧倒的に不足している状況やその上司の管理を検証しなければ、正論どころか不条理な部分も見えてくる。このように、正論かどうかは一概には判断できない。正しさは絶対的なものではなく、相対的なものであると言い換えても良いだろう。

また、正論が響かないもう一つの理由は、その伝え方にあると考えられる。正論をただ一方的に伝えるだけでは、相手の気持ちや状況を考慮していない独りよがりなアドバイスになってしまうことがある。相手側は「だるっ、うざっ」と思うほかないだろう。どんなに正しい内容であっても、相手の心に寄り添い、その人の立場に立って考えないと、心に響くものにはならない。

さらに、人間は論理的な生き物である一方で、感情に大きく左右される生き物でもある。正論が響かないとき、それは相手の感情に訴えかけることができていないからかもしれない。論理的に正しいからといって、感情を無視した言葉は、時に冷たく響き、相手の心を閉ざしてしまう。


では、どうすれば正論は人の心に響くのだろうか。その鍵は、「共感」と「納得」にあるとわたしは考える。

共感とは、相手の気持ちに寄り添い、理解しようとする姿勢だ。相手がどんな感情で、どんな思いでいるのかを想像し、受け入れる。正論を述べる前に、まずは共感を示すことで、相手の心をオープンな状態にすることができる。共感が先にこなければ、どんな正論も受け入れてもらえないだろう。

そして、納得とは、相手の価値観や考え方を尊重しながら、論理的に理解してもらうことだ。正論を押し付けるのではなく、相手の立場に立って、なぜそう考えるのかを説明する。その説明が、相手の価値観や経験と一致するとき、納得という形で受け入れてもらえるだろう。

共感と納得、この2つが揃ったとき、正論は初めて人の心に響くのではないだろうか。

例えば、期限モノの仕事の期限は当然順守すべきだ、という正論も、相手の状況や気持ちに共感しながら、「この業務は重すぎたね。期限に間に合わせるためにBさんをサポートに入れるから気軽に聞いてね」と伝えることで、相手の心に響くアドバイスになるだろう。さらに、仕事での期限に間に合わせるための手段について、相手の価値観や経験と関連付けて建設的に説明することで、納得という形で受け入れてもらえる可能性が高まる。

このように、正論を人の心に響かせるには、相手の立場や考え方を理解し、尊重する姿勢が不可欠なのだ。

しかし、共感と納得を促すコミュニケーションは、簡単なことではない。相手の気持ちを正確に理解し、適切な言葉で伝えるには、繊細な配慮と深い洞察力が必要となる。また、相手の価値観や経験を尊重しながら、論理的に説明するには、柔軟な思考と的確な表現力が求められる。

このコミュニケーションの難しさは、正論が数学の公式のように感じられてしまうことにも関係しているのかもしれない。数学の公式は、普遍的で絶対的なものとして存在し、そこに感情や価値観が介入する余地はない。

しかし、人間関係や感情が絡む問題においては、常に複数の答えが存在し、絶対的な正解はない。正論も、その時々の状況や関係性によって、正しさが変わってくる。文脈を捉える必要がある。

だからこそ、正論を扱うときは、相手の心に寄り添い、その人の中で「正しい」と思ってもらえるように、丁寧に共感し、納得を導き出すプロセスが必要なのだ。

このプロセスを省略して、ただ正論を述べるだけでは、相手の心に響かないどころか、反発心を煽ってしまう。正論は時に武器にもなる。相手の弱い部分を突いたり、傷つけたりするような使い方をすれば、相手は自分を守ろうと正論を受け付けなくなるだろう。


正論は、相手を思いやる心と、丁寧なコミュニケーションによってのみ、人の心に響くものなのだとおもう。

この結論にたどり着いたとき、わたしはある種の安堵感を覚えた。正論が響かないのは、自分の伝え方が下手だったからだと自己嫌悪に陥っていた時期もあった。
しかし、正論が響かないのは、むしろ当たり前のことで、そこには人間の複雑な心理やコミュニケーションの奥深さがあるのだと気づいた。

正論を人の心に響かせるには、共感と納得を促すというプロセスが必要で、それは簡単なことではない。だからこそ、相手の心を動かせたとき、深い信頼関係が築けたとき、大きな喜びと達成感を感じることができるのだろう。

「正論は人の心に響かない」。その事実、より深く、より優しく、人の心に届く言葉を探し求めるよう促しているのだとわたしはおもう。


追記
ブルーピリオドの中でわたしに響いた下記シーンにインスパイアされて書いたのだけど、書きたいことの半分もかけてない泣

このシーンはわたしには突き刺さった。実際に似たような体験をしている。良い人の仮面を被っていたわたしの醜さをえぐりだす。この主人公みたいに行動できなかったな。。。リスクを負わずにリターンだけを求めてるのと変わらない点に、醜さの本質があるのかな

主人公は、幼馴染のAが共に受けていた芸術大学の試験を棄権したということを知る。
そのAが気になり無意識的に電話をかける。
主人公がAに試験のことを聞くと、Aからそっけない返事が返ってくる。

主人公はAの様子がおかしいことを理解して、次のように言う。

主人公「何かしてほしいことないの?」 

A「じゃあ会いに来てよ」

主人公「いっ…今からはムリだけど…」

A「君は溺れている人がいたら救命道具は持ってきても海に飛び込むことはしない…(中略)…」

Aは続けます。

A「教えてやるよ。冷静なんだ君は。正しいよ。正しいから優秀なのさ。君はいつだって優秀だ。でもさ…っ

正しい場所からしか話せないならアタシがお前に話すことは何もないね…っ!!!」

と電話を切られてこのシーンは終了します。

主人公はモヤモヤします。翌日、主人公は友人Bから優等生だねと言われ、そのことをきっかけにAのことをBに相談します。Bは次のように伝えます。

「溺れてるときの息苦しさとか海の暗さは溺れた人同士でしか共有できへんやん。その人と話したかったら八虎も飛び込むしかないんやで」

ブルーピリオド(抜粋・加工)

なんだかんだで、昨日アニメをTIKTOKで知って、ネトフリで全話見てから、漫画既刊全部読破しちゃいました。
TIKTOK では一部分の切り取りなので名言というより迷言なのですが、「正しい場所から~」が響いて、ソースを確認してネトフリで見たら当たりだった感じです。著者の思考の深さと表現力の豊かさが際立つ名作でした(著者の意図も見え隠れするので好き嫌いはあると思いますが、漫画というより本として読みました)。


2024.6.22追記
・個別事情を想像しない正論は「虎の威を借りる狐」に似たイメージが浮かんできた。断片をみて決めつける不合理さが内在している上に、自分の言葉ではなく他人の言葉で語る違和感がある。
・そもそも「正論」が言葉として使われるシーンはネガティブな状況なので、正論が響かないのは当然だとも思える。

この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,942件

#今週の振り返り

7,692件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?