見出し画像

海と波/文学とは何か。

言葉の虚しさが嘆かれて久しい。古今東西どの文学においても、近代へと年代をくだって行くにつれて文学者たちは言葉を芸術にとっての桎梏としてとらえるようになり、筆舌に尽くし難い情調やパノラマを前に言葉の虚しさ、言葉の非力さをひしひしと感じずにはいないように思われる。

「どんな罪ゆえ、どんな過ちゆえに、私は今の非力に陥ったのか。獣は悲嘆にむせび、病人は絶望し、死人は悪い夢を見るという君たちよ、私の堕落と眠りを語ってくれないか。私には、始終「父(パーテル) よ」や「アヴェ・マリア」を唱えている乞食とたがわず、自分の考えが説明できない。もう話せないのだ!」

アルチュール・ランボー『地獄の季節 Une saison en enfer』

時あたかも1973年、ランボーが詩ふくめ文学から逃亡する前夜の一節である。アウシュビッツを冴やかに証言した『これが人間か』を処女作とするレーヴィも、そのカタストロフの禍々しさを言葉でえぐり切れないことへの呻吟から自らで死を選ぶという顛末を辿った。

レーヴィもランボーもたまたま同じフランス文学の系譜にあたるが、言葉によって自らの体験、見えたもの、聴こえたものを語ることの不可能性は何も彼らに限らずあらゆる時代の文学者を等しく懊悩とさせてきたのだということを私たちは知っている。彼らにあっては、〈私〉にとって透明なのは〈私〉だけであって、読み手の他者性、言葉の他者性、もっと言ってしまえば他者の他者性を前に、ついに現実は「語りえぬもの」として構成されてしまう。ランボーの作品からは「現実を語ることの不可能性だけが語られている」かのような印象さえうける(1)。けれども、現実はほんとうに語りえぬものなのか。私は、少なくとも一度は、そしてマクロに見れば幾度にも渡って現実はつねにすでに語られていたのだと思っている。ランボーはたしかに永遠を語ったのだし(2)、セリーヌはたしかに戦闘の火聚を語ったのだ(3)。

人間という海から立ち顕れる波のようなものとして言葉があるのだと私は考えている。主体としての海があって、それが波を外化するのではない。海はただそこに広がっていて、そのゆらめきとして波は立ち顕れ、静かな連続性の中で姿をかえつつ前進し、白い泡沫として浜に砕けてはふたたび海へと返っていくだけである。束の間の姿しか持たない1つの波に囚われてそのゆらめきの連続性にあらがおうとする時、海と波はたがいに疎外され、しかし実際の波が海でなくなることはないのと同じように海という現実性reality(書き手という現実性・読み手という現実性)はとてつもない強度で回帰してくる。

現実を言葉にして紙の中に綴じこんでも、時間がたってからそれを見返してみると何かが足りないという思いを抱くことがある。そのたびに、私はふたたび机に向かって筆をとり、かつての現実に思いを馳せながらそれを語ろうと努める。そして実際に、現実は語られる。もちろん、こうした反復(語弊を招くことを恐れずに言えば推敲)はまた新たな不満と語りを誘起せずにはいないだろうけれども、それでいいのだ。現実はそのたび、つねにすでに語られているのだから。こうした不断の連続性、語られた現実と、そしてそれに満足することなく幾度となく現実を語り直さずにはいられない人間との間こそ、文学という芸術は沸き立って来るのだ。

NOTE
(1)モーリス・ブランショ「ランボーの眠り」『火の部分 La part du feu』収録 1949
(2)アルチュール・ランボー「永遠Éternité」『ランボオ詩集』収録 1937
(3)ルイ・セリーヌ『夜の果てへの旅Voyage au bout de la nuit』1932

サムネイル:菅かおる『Odette』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?