やがて失われてしまうとしても【連載小説】#2
弐
梅雨明け。
7月に入り、蝉の鳴き声が聞こえ始める。
窓から見上げると澄んだ青空が広がっている。
休み始めてから数日後、一度先生が訪ねてきた。
僕は顔を合わせたくなかったので部屋に籠っていた。
今学期は夏休みも近いので休むこととなったらしい。
学校に行かなくなったが、僕の生活はあまり変わらなかった。
朝はいつも通りに起きる。
勉強はしておきなさいと言われたので、受験用の問題集を解く。
お昼ご飯を食べる。
午後はお母さんと一緒に自転車で図書館に行く。
お母さんがこんなに本が好きだなんて知らなかった。
何冊か本を借りて、家でコーヒーを淹れて、夕食時まで読書を楽しむ。
時間がゆっくりと流れる。
最初は慣れなかったが、これはこれで悪くないかもと思い始めた。
他にも僕は昼間の世界を少しずつ知っていった。
管理人さん。
70歳を越えるおじいちゃんとおばあちゃん。
遊びに行くとお菓子をくれた。
孫が僕と同じくらいの年齢らしい。
ジジ。
よく遠くから唸り声が聞こえる。
他の猫と喧嘩しているのだろう。
縄張り争いかもしれない。
遠くにいても呼べば駆け寄ってくる。
戦利品なのか蝉を加えて見せ付けてくる。
家に持ち込もうとしてお母さんに怒られ、背を丸めてしょんぼりとしていた。
良かれと思ってなんだろうな。
僕はジジの頭を撫で褒めてあげた。
一度だけ学校の傍まで行ってみたことがある。
プールの時間だったのか、ワイワイと声が聞こえる。
僕がいなくても学校はいつも通りに動いていた。
アツシはちゃんと学校に来てるのかな。
時間が経ち、僕の気持ちも落ち着いてきていた。
書き置きを残そうかとも考えたけど、なんて書けばよいかわからなかった。
あまり目立つ行動はしない方がいいか。
他のみんなに見つかるのは避けたかった。
周りを気にしながら、自転車で通り過ぎた。
風邪でもないのに学校にいない。
不思議な感じだ。
僕は一足早い夏休みを過ごしていた。
「今度の週末、お父さんに会いに行こっか」
ある日の夕食時、お母さんが提案した。
山梨で単身赴任しているお父さん。
最近は仕事が忙しくてなかなか帰ってくる時間を取れないらしい。
「ジジはどうするの?」
「連れてくよー」
そう言ってお母さんはおでかけ用のカゴを出してきた。
お風呂と同じように身構えるジジ。
「嫌がってる?」
「慣れてもらわないとね」
カゴの中に爪とぎ用のマットを引き、少量のマタタビをまぶす。
ふんふんと匂いを嗅ぎおそるおそるマタタビを舐める。
やがてマットに背中をこすりつけ、かごに手足を絡ませ始める。
「マタタビすごいね」
「最初だけね。酔っぱらっちゃうからそれ以上あげないでね」
数日掛けて慣れてもらい、大人しくかごに収まってくれるようになったのだが、それはあくまでも家の中での話。
いざ外に出ると不安になったのか、電車の中では低くずっと唸り声をあげる。
様子を窺がおうと被せていたタオルをめくった途端に、さらにかごの中で暴れ始めてしまった。
「すみません、私、猫が苦手なんですが……」
後ろの席からクレームが入る。
ジジの座席も用意していたものの仕方がない。
新宿から山梨県の甲府まで、特急で約二時間弱。
お母さんは後ろの席の人に詫び、「出ようか」と促した。
デッキに着くと、お母さんは「ごめんね」と僕とジジに謝った。
「免許があれば車で行けるんだけど」
申し訳なさそうに俯く。
「大丈夫だよ」と答える。
ふごぅぅと低く唸り続けるジジに手を伸ばし、カタカタと揺れる電車の中、僕たちは残る時間をデッキで過ごした。
駅にはお父さんとおばあちゃんが車で迎えに来てくれていた。
お父さんの実家でもあるおばあちゃんの家は市街から車で15分ほど離れた場所にあり、周囲には緑が多く畑もたくさんある。
家には庭もあり、ちょっとした池もある。
「あまり遠くに行っちゃだめだよ」
かごを開きジジを外に出す。
「外に出して大丈夫?」
「ここは車も少ないし、猫は遠くまで出かけないから大丈夫でしょ」
お父さんの心配をよそに、ジジは新しい世界に興味津々で、そこら中の匂いを嗅いでまわっていた。
「スイカでも切ろうかね」
おばあちゃんが台所に向かう。
「あ、ユウ。先に手を洗ってきなさい。おじいちゃんにお線香もあげないとね」
おじいちゃんが亡くなって二年が経つ。
孤独になってしまわないようお父さんが転勤を申し出て、いまはお父さんと二人で暮らしているが、お母さんは少し不満を抱いているのを知っている。
「来年には戻って来れないの?」
夕食時にお母さんが尋ねる。
「秋までに施設化の手続きが終わると思うんだ。もう少しだよ」
今後おばあちゃんの家を県に提供し、福祉施設にする計画があるらしい。
まだまだおばあちゃんも60代。
大きな病気はしていないし、元気が有り余っている。
「みんなで助け合っていかんと」
「田舎はご近所付きあいが大事なんだよ」
そう言うお父さんはビールを何杯も飲んでいて既に赤くなっていた。
「今回はどれくらいいられるのけ?」
おばあちゃんに尋ねられ、一泊と答える。
「ほうけ、じゃあ次はお盆かねぇ」
お盆の時期には毎年親戚一同が集う。
花火大会に灯篭流し。
孫世代の中でも一大イベントだ。
おばあちゃんは背丈にあわせて繕い直した浴衣をみせてくれた。
帯のひらひらに興味を持ったのか、ジジが飛びついてくる。
「ジジちゃんの浴衣も作ろうかね」
おばあちゃんは終始ご機嫌だった。
その日の夜は、久しぶりに家族三人で川の字になって寝た。
ジジは相変わらず僕の膝元で丸くなっていた。
翌日、事故が起きた。
昼前に散歩に出かけたジジが、前脚を引きずりながら帰ってきたのだ。
慌てて動物病院に運ぶと、骨にヒビが入っていた。
ひっかき傷もあったことから、近くの猫と喧嘩したのではないかと言われた。
新参者のジジが古巣のネコと戦っている姿が目に浮かぶ。
結構気が荒いのだ。
添え木をして、3週間ほど安静にしていれば治るらしい。
みゃあみゃあと訴えるジジ。
脚に負担がかからないよう、横向きに寝かせて背中を撫でる。
その日の夜はお父さんが車で送ってくれることになった。
「仕事は大丈夫?」
お母さんが心配そうに尋ねる。
「往復五時間くらいたいしたことないよ。本当はもっと帰るべきだったんだ」
家に着く頃にはもう真夜中だった。
僕はかごの中で眠りにつくジジにおやすみを告げる。
お父さんにも「また来てね」と伝えると、「ここは俺の家だぞ」と苦笑された。
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