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『1Q84』から読み解く『スプートニクの恋人』


序論

1.捨てられた鍵の合い鍵を拾う

”「あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは、いうなれば聖域のようなところなのです」
 「聖域?」
 「大げさに聞こえるかもしれませんが、決して誇張ではありません。これからあなたが目になさるものは、そして手に触れることになるものは、神聖なものなのです。ほかにふさわしい表現はありません」”
(1Q84 BOOK2)

 これは『1Q84』の中盤、青豆が「さきがけ」のリーダーにストレッチを施行しにいく直前に、護衛の坊主頭と言葉を交わすシーンだ。
 『1Q84』では、このあとに続く青豆とリーダーの会話、および天吾とふかえりが一緒に書いた小説『空気さなぎ』を通して、ハルキワールドの聖域とでもいうべきものがはじめて明確に開示された。
 詳細は後述するが、「マザ」「ドウタ」「レシヴァ」「パシヴァ」「物語」「世界」「通路」などのキーワードと、それらの複雑な関係がそれにあたる。

 本稿は、それら『1Q84』の聖域から拾い集めたキーワードをもとに、同じく村上春樹の作品である『スプートニクの恋人』を読み解く試みである。

 一般に、読者に読み解きを要請する作品には、その作中に作品を読み解くために必要なキーワードなりキーセンテンスなりが隠されているものだけど、『スプートニクの恋人』にはそれがない。
 そのため、以前に『スプートニクの恋人』を読んだ私は、このさまざまな謎に満ちた作品は読み解かれることを求めていないのだと思った。ほかの村上春樹の作品たちと同様に謎を謎として内包したまま、その不思議な形状を崩さぬようそっと受け取るべき物語なのだと考えた。
 でも、それは間違っていた。
 『スプートニクの恋人』は、読み解かれることを強く求めている。
 そしてそれにもかかわらず、それを読み解くための鍵がその物語の中にないのだ。

 なぜ鍵がないのか?
 その原因は『スプートニクの恋人』の中に描かれている。
 ”にんじんはズボンのポケットに手を突っこみ、そこから鍵をひとつ取り出して、ぼくの方に差し出した。”
 ”ぼくはちょっと迷ったが、思い切って鍵を川の中に落とした。小さな水しぶきがあがった。それほど深い川ではなかったが、濁った水のせいで鍵のゆくえはわからなくなった。”
 ”「今更返しに行くわけにもいかないしな」とぼくはひとりごとのように言った、「それに合い鍵くらいきっとどこかにあるよ。なにしろ大事な保管庫だもの」”
 にんじんが「ぼく」に手渡したその鍵は、「ぼく」にとっても私たちにとっても、なくてはならない大事な鍵だった。しかし、それにもかかわらず「ぼく」はそれを思い切って川の中に落としてしまう。まるで今はまだその時ではないとでも言うように。
 あれから数十年、いつの間にかに時は満ち、気がつけば私たちの手には川に落としたはずの鍵が握られていた。「ぼく」の言うとおり、合い鍵はあったのだ。私たちが『1Q84』の深い森の奥で拾った、あのいくつものキーワードこそがその合い鍵だったのだ。

 合い鍵を鍵穴に差しこみ、開かずの扉を開くその前に、まずはその合い鍵の中身をざっと振り返ってみよう。

2.合い鍵としてのマザとドウタと諸概念

 本稿では『スプートニクの恋人』を読み解くための合い鍵として、『1Q84』に登場した以下のキーワードを使用する。

  • マザ:物語の作者、語り手。現実世界の住人。

  • ドウタ:作者(マザ)が語る物語の登場人物。物語世界の住人。書かれる登場人物。

  • 中心的ドウタ:物語の中心となる登場人物、いわゆる主人公のこと。(↔補助的ドウタ、脇役)

  • レシヴァ:物語の読者、聞き手。現実世界の住人。

  • パシヴァ:読者(レシヴァ)が感情移入する登場人物。物語世界の住人。読まれる登場人物。

  • 物語①(人としての物語):「人とは何か?」という問のひとつの答えとして、人とは「その人が歩んできた人生という物語」そのものだと言うことがある。人をそのような物語として捉えるとき、天吾は『天吾』という物語となり、青豆は『青豆』という物語となる。言うなれば、人はみな『自分』という物語のマザ(語り手)であり、ドウタ(登場人物)であり、そしてその物語そのものでもあるのだ。また自分の人生を振り返り、過去の自分自身に感情移入して当時を思い出すとき、人は『自分』という物語のレシヴァ(読者)となり、同時に思い出の中の自分はパシヴァ(登場人物)となる。とても多義的だ。ハルキワールドにおいては、この「人の物語的側面」がより具象的に現れる。たとえば「ぼくは彼女の身体のなかに深く入っていって彼女とひとつになった」というとき、それは「ぼくはレシヴァ(読者)として、『彼女』という物語の中に深く入りこみ、その中のパシヴァ(登場人物)としての彼女に(ぼく自身が彼女であると感じられるほどに)深く感情移入した」という状況を指す。

  • 物語②(世界としての物語):マザ(語り手)によって物語が語られるとき、そこに物語世界が生まれる。物語世界はその中のドウタ(登場人物)にとっての現実世界であり、また私たちが誰かの語る物語をほんとうのこととして受け入れるとき、その物語世界は私たちにとっても現実世界となる。どれが現実世界でどれが物語世界であるかはあくまで主観的な認識にすぎない。

  • 通路:物語を読むに際して、読者は物語の登場人物になりきり、その登場人物の視点から物語世界を見渡す。そのとき、読者と登場人物、レシヴァとパシヴァのあいだに渡されているつながりを通路と呼ぶ。私たち読者はレシヴァとパシヴァを結ぶこの通路を介して物語世界の中に入っていく。また、誰しも多かれ少なかれ、物語の登場人物に深く感情移入した結果、物語を読み終わったあともその登場人物が自分の中にいて自分に語りかけてくるように感じたり、あるいは自分がその登場人物になっているように思えたりすることがあるように、通路がかたく結ばれるとき、パシヴァが通路を逆方向に物語世界から現実世界へとたどってレシヴァの心に渡ることがある。ハルキワールドにおいては、より具象的にパシヴァが物語世界から現実世界へと出てきたり、レシヴァが現実世界から物語世界へ入っていったりもする。

 本稿では『1Q84』から借用した上記のキーワードに加えて、以下のキーワードを採用する。

  • 視点的ドウタ:一人称の物語において、その一人称「ぼく」「わたし」によって指し示される登場人物。一人称の物語において、その物語世界を開く視点の役割を果たす特別なドウタ。地の文では名を冠する必要がない、という意味で匿名であることが特権的に許されている。

 また、本稿では慣例にしたがって物語のタイトルに相当する語には『』の二重鉤括弧を付している。

『スプートニクの恋人』第一部

 上記の合い鍵を手に『スプートニクの恋人』をひもときはじめると、私たちはまず、そこに透かし絵のようにふたつの物語が重ね合わさっていることに気がつくことになる。
 ひとつめは合い鍵なしで素朴に読んだときに現れる物語で、二つめは合い鍵でこじ開けた扉の先にある物語だ。
 つまり、この『スプートニクの恋人』という小説は、ひとつのテクストに二つのストーリーラインが託された実に奇妙な物語なのだ。

 しかしそれは、合い鍵を使うとはじめの物語がまったくちがう物語に生まれ変わる、ということではない。
 二つめの物語(鍵の開いた物語)はひとつめの物語(鍵の閉じた物語)のうえに成り立っていて、その二つの物語はいわば二部作映画の第一部と第二部の関係にあるのだ。
 二部作映画の第二部だけを観てもストーリーを追うことができないのと同様に、この『スプートニクの恋人』もひとつめの物語を読まずに二つめの物語を理解することはできない。
 とは言っても、先述のとおり第一部の物語は鍵なしで素朴に読んだときに現れる物語なので、ここであらためて語るべきことはそう多くない。ただし、読み落としてはいけない(というか読み落とすと第二部につながらない)ポイントが三つほどあるので、ここではまずその三つのポイントを確認しながら、第一部のストーリーを概観してみよう。

 第一のポイントは、この物語が「ぼく」が過去を振り返りながら「ぼく」自身について語る自分語りの文体をとっているという点だ。
 より正確に言えば、『スプートニクの恋人』という物語が終わった時点にいる現在の「ぼく」がそこから過去を振り返るかたちで過去の「ぼく」を語っている、ということになる。

 その自分語りの文体で「ぼく」が語るのは、二重の片思いの物語だ。
 「ぼく」はすみれを愛していて、すみれはミュウを愛している。そしてミュウはだれも愛することができない。
 そういう一方通行の行き詰まった状態の中、すみれはミュウとともにヨーロッパへと旅立ち、すみれのいなくなった東京で「ぼく」はいささか奇妙な物思いにふける。

 ”ぼくは昔の日々のことをふと思い出した。ぼくの成長期(と呼ばれるべきもの)はいったいどこでいつ終わりを告げたのだろう? そもそもそれは終わったのだろうか? ついこのあいだまで、ぼくは間違いなく成熟への不完全な途上にいた。【中略】そしてぼくは今こうして、ひとつの閉じられたサーキットの中にいる。ぼくは同じところをぐるぐるとまわり続けている。どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。そうしないわけにはいかないのだ。そうでもしないことにはぼくはうまく生きていくことができないのだ。”

 「ぼく」が今いるここが”ひとつの閉じられたサーキット”であること。
 これが第二のポイントだ。

 そんな「ぼく」のもとに、ミュウから「一刻も早くここに来てほしい」という電話が入り、「ぼく」はギリシャの小さな島に渡る。そこですみれが煙のように消えたことを知らされ、懸命にその行方を追うが、結局すみれは見つからず、「ぼく」は失意のうちに東京に戻る。
 帰国後の「ぼく」は、すみれ不在の世界で、日が沈んだあとの淡く長い残照にも似た日々を送る。
 「ガールフレンド」の子供であり、受け持ちのクラスの生徒でもあるにんじんの万引きをきっかけにして「ガールフレンド」との関係を断ち、すみれとの思い出だけを胸に抱きながら、物語の終わりへと近づいていく。
 物語の終盤に、”ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。”から始まる一連の文章があり、その先で「ぼく」のもとにすみれから電話がかかってくる。
 すみれからの電話は唐突で、読む者にはそれが夢なのか現実なのか判然としない。すみれは本当に戻ってきたのだろうか? それともそれは「ぼく」の妄想にすぎないのだろうか?
 しかし、「ぼく」はすみれとの再会を確信して、物語は終わろうとする。

 その終わる直前に会話文ではなく地の文で、
”そうだね?”
”そのとおり。”
という自問自答のようなやりとりがあり、
”ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。ぼくらはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。”
という二文がある。
 これが第三のポイントだ。

 第一のポイントで述べたように、『スプートニクの恋人』第一部は、物語の終わった時点にいる現在の「ぼく」が語る過去の「ぼく」の物語だった。
 物語が終わろうとする今、過去の「ぼく」は現在の「ぼく」に次第に近づいていき、ついにはお互いの声が届くほどに接近する。
 ”そうだね?”という過去の「ぼく」の問に、”そのとおり。”と現在の「ぼく」が答える。
 そして、”ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。”と過去の「ぼく」が言う。
 この「ぼくら」とは、過去の「ぼく」と現在の「ぼく」のことだ。
 今日の私が一日後には明日の私になっているように、過去の「ぼく」と現在の「ぼく」は時間軸というひとつの線でたしかにつながっていて、物語が終わったところで、その線の長さはゼロになる。
 そのとき過去は現在に追いついて、過去の「ぼく」と現在の「ぼく」は重なり合ってひとつの「ぼく」となる。語られる「ぼく」は語る「ぼく」となり、「ぼく」は再び『スプートニクの恋人』を、「ぼく」がすみれを愛し、すみれがミュウを愛する物語を、語りはじめる。
 かくして、再び語られるその物語の中で「ぼく」とすみれの再会の約束は果たされるが、その一方で、ここにひとつのループができあがり、「ぼく」はその閉じられたサーキットの中をぐるぐるとまわり続けることになってしまうのだ。
 ”そしてぼくは今こうして、ひとつの閉じられたサーキットの中にいる。ぼくは同じところをぐるぐるとまわり続けている。どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。そうしないわけにはいかないのだ。そうでもしないことにはぼくはうまく生きていくことができないのだ。”と「ぼく」は言う。
 その終わりのない循環を残して、『スプートニクの恋人』第一部は音もなく幕を下ろす。

 では、私たちも「ぼく」とともに再び『スプートニクの恋人』のはじまりへ戻ろう。
 ただし今度はこの手に合い鍵を持って。
 閉じられたサーキットをぐるぐるとまわり続けるためではなく、新たな道を開くために。

 果たして、「ぼく」はこの『スプートニクの恋人』というひとつの閉じられたサーキットから脱出することができるのだろうか?
 それが第二部のテーマだ。

『スプートニクの恋人』第二部

・第二部を読み解くために、いちばん大事なこと

 私たちがいま足を踏み入れたこの『スプートニクの恋人』第二部はとても複雑な物語で、実を言えば合い鍵を持っているというだけではその全貌を知ることは到底できない。
 では、どうすればいいか?
 それは「ぼく」が北陸で出会った八つ年上の女性が教えてくれる。

 ”「うまいとか下手とか、器用だとか器用じゃないとか、そんなのはたいして重要じゃないのよ。わたしはそう思うわ。注意深くなる──それがいちばん大事なことよ。心を落ちつけて、いろんなものごとに注意深く耳を澄ませること」”

 彼女の言うとおり、この第二部では実にさまざまな些細な描写が、ささやくようなか細い声で、きわめて重要な真実を私たちに教えてくれる。
 私たちはそれらの声を聞きもらさないように、注意深く耳を澄ませながら歩を進めていかなくてはならない。

・第二部の構成

 『スプートニクの恋人』第二部は1~6章の前編、7~14章の中編、15,16章(+α)の後編の三編にわかれている。
 この前編、中編、後編はそれぞれ「道」の修練でいうところの守破離に対応している。
 前編・守の編では『スプートニクの恋人』の基本の型が示され、中編・破の編ではその型が破られ、そして後編・離の編では型が破られたその先で新たな道が生み出されるのだ。

1.前編ー守の編

1‐1.明示される基本の構造と愛のかたち

 『スプートニクの恋人』第一部は、現在の「ぼく」が語り手となって過去の「ぼく」を語る物語であったが、この第二部ではその語る「ぼく」と語られる「ぼく」の関係はマザ(語り手)とドウタ(登場人物)の文脈に回収されることになる。

 語り手の「ぼく」(マザ)が語るのは、語られる「ぼく」(ドウタ)の視点から見た物語ではあるが、周知のとおりその物語の主人公は「ぼく」ではない。「ぼく」の物語の中心にいるのは、すみれという職業的作家を志す22歳の風変わりな女の子で、「ぼく」はすみれを愛している。
 つまり「ぼく」(マザ)が語るのは、「ぼく」を視点的ドウタとし、すみれを中心的ドウタとする物語、『ぼくがすみれを愛する物語』なのだ。
 そしてそれは物語としての「ぼく」自身、すなわち『ぼく』という物語でもある。

 その「ぼく」の物語の中で、主人公であるすみれは「ぼく」を聞き手として、自分の物語(『すみれ』という物語)を語る。
 その物語の中心的ドウタもまたすみれ自身ではない。それは、すみれ(マザ)を語り手とし、すみれ(ドウタ)を視点的ドウタとして、ミュウを中心的ドウタとする物語であり、すなわち『すみれがミュウを愛する物語』だ。

 しかし、そのすみれの物語の主人公であるミュウは、自分自身についてはほとんど何も語らない。ミュウが語るのは、彼女が14年前に半分になってしまった、ということだけだ。

 半分。

 それが何を意味するのか、『1Q84』でふかえり(マザ)やふかえり(ドウタ)、つばさ(ドウタ)を目にしてきた私たちにはある程度まで理解することができる。
 今すみれとともにいるミュウはおそらく、ミュウ(マザ)かミュウ(ドウタ)のどちらか片方なのだ。
 しかし、だとしたら、いったいどっちなのだろう?
 その答えについてはこの章の最後であらためて考察してみよう。

 ここまでの構造を図1に示す。

図1(部分)
図1(全体)

 この図1は『スプートニクの恋人』の基本の構造を視覚的にわかりやすく示すだけではなく、「愛」とは何か、その定義についても私たちに教えてくれている。
 図1(全体)の円と中心の関係(『ぼく』という物語の円の中心には『すみれ』がいて、『すみれ』という物語の円の中心にはミュウがいる)と、前編に明示されている「愛」の関係(「ぼく」はすみれを愛し、すみれはミュウを愛している)を比較すると、それは明らかだ。

 この物語世界における「愛」とは、自らの物語の中心に自分ではない誰かを据える、その心のあり方、物語のあり方を意味しているのだ。

1‐2.数を数える効能と、暗示される基本の構造

 ミュウという謎は残るものの、前編に提示された構造はこれでおおまかに示すことができた、ように思われる。

 しかし、何かが私たちの心に引っかかる。
 何かが私たちの足を止める。
 そう、もうひとりの登場人物「ガールフレンド」だ。
 第一部をすでに読み終えた私たちは、前編では二度ほど言及されるにすぎないこの登場人物が、後編で物語の前面に踊りでてくることを知っている。
 その匿名の女性、「ガールフレンド」はこの第二部では層状の物語のどこにどのように位置しているのだろう?
 素直に考えるなら、彼女は補助的ドウタとして図1の第二層、「ぼく」(マザ)が語る『ぼくがすみれを愛する物語』の中に位置しているということになる。
 それで何も問題はないはずだ。

 しかし、それでもなお何かが私たちの足をとめる。
 私たちは空を見上げ、そのどこかにあるはずの人工衛星のことを思う。あるいは、地面を見下ろし、人工衛星を引力という絆でここにつなぎとめている地球のことを思う。
 人工衛星は地球を中心に回りながら、地球を観測しつづけて、有益な情報を地球に送り届けている。
 ちょうど、すみれがミュウをよく知ろうと努めて、ミュウのよき秘書となってミュウに仕えたように。
 ちょうど、「ぼく」がすみれの話に(それが深夜にかかってくる電話であろうと、週末ごとに持ちこまれるけっこうな量の原稿であろうと)熱心に耳を傾けて、よき友だちとなってその質問のひとつひとつにきちんと答えたように。

 ”「ドウタの面倒をよくみるように」とバリトンが言う。「キミのドウタなのだから」
 「マザの世話なしにドウタは完全ではない。長く生きることはむずかしくなる」と甲高い声が言う。”
(1Q84 BOOK2)

 そのリトル・ピープルの言いつけを守るように、マザたちは自分の分身である視点的ドウタを介して、中心的ドウタの面倒をよくみている。
 ミュウの面倒はすみれがみていて、すみれの面倒は「ぼく」がみている。
 では「ぼく」の面倒はどうなっているのだろう?
 ”でも彼女【すみれ】のとなりにはミュウがいる。ぼくには誰もいない。ぼくには──ぼくしかいない。いつもと同じように。”と「ぼく」は言う。

 でも、はたして本当にそうだろうか?
 本当に「ぼく」には誰もいないのだろうか?
 いや、そうではないだろう。

 ”ぼくが何を望んで、何を望んでいないかを、彼女【「ガールフレンド」】はよく知っていた。どこまで進んでよくて、どこで留まるべきかを心得ていた──ベッドの中でも、ベッドの外でも。彼女はぼくを、まるで飛行機のファーストクラスに乗ったような気分にさせてくれた。”

 そう、「ぼく」には「ガールフレンド」がいて、「ぼく」の面倒をよくみてくれているのだ。ミュウにすみれがいて、すみれに「ぼく」がいるのと同じように。
 この相似はいったい何を意味しているのだろう?

 私たちは北陸で出会った八つ年上の女性のアドバイスにしたがって、心を落ちつかせて、注意深く耳を澄ませようとする。
 しかしここでは、そのアドバイスはあまりに抽象的で、私たちは具体的にどうすればいいのかわからない。
 ”「でも注意深くなるためには、どうすればいいの? いざというときになって、さあ今ここで注意深くなろう、耳を澄ませようと思って、それで急にうまくできるものじゃないでしょう。もう少し具体的に言ってくれないかな。たとえば?」”
 
この前編で私たちと同じ疑問を抱いたすみれのこの問に、「ぼく」はこう答えている。
”「まずは気持ちを落ちつけるんだよ。たとえば――数を数えるとか」”

 数を数える●●●●●

 その「ぼく」のアドバイスにしたがって注意深く数を数えていくと、私たちはこの前編の一見本筋と関係のないところで、いくつかの人数に関して違和感のある描写に気がつくことになる。

”ぼくはすみれと「友だち」としてつきあっているあいだに、二人か三人の女性と交際した(数をよく覚えていないというのではない。数え方によって二人になったり、三人になったりするのだ)。一度か二度だけ寝た相手を加えれば、そのリストはもう少し長いものになる。”

②【遠足で奥多摩の山を下りる途中で】”男の子が二人、冗談半分のとっくみ合いの喧嘩を始め、倒れた拍子に石で頭を打った。軽い脳震盪を起こし、大量の鼻血を出した。大事にはいたらなかったけれど、その子の着ていたシャツは、なにかの虐殺のあとみたいに血だらけになった。”

”彼女【「ガールフレンド」】は夫と二人の子供と一緒にバリ島に休暇旅行に出かけて、戻ってきたばかりということで、とてもきれいに日焼けしていた。【中略】もしすみれという人間を知らなかったなら、ぼくは7歳年上の(そして息子がぼくの生徒である)彼女のことをある程度本気で好きになっていたかもしれない。”

 ①では交際した人数が数え方によって二人になったり三人なったりし、②では「男の子が二人」の主語ではじまる描写が、「そのうちの一人が」などの前置きもなくいつの間にか「その子の着ていたシャツは――」と一人分の描写に収れんし、③でも「ガールフレンド」の子供の人数を二人と明言しているにもかかわらず、やはり「そのうちの一人が」などのことわりもなく、「そして息子がぼくの生徒である」と一人分の説明しかなされない。

 そして、この三つの描写にはもうひとつの共通点がある。
 ①の「ぼくの交際した女性」には当然「ガールフレンド」が含まれていて、②の「ぼく」のクラスの男子生徒には「ガールフレンド」の息子が含まれていて、③はそのまま「ガールフレンド」の子供の話だ。
 つまり、この人数の奇妙なひずみはすべて「ガールフレンド」の周囲に生じているのだ。

 もちろん、これらの描写に無難な解釈を試みるという手もある。
 たとえば②と③については、「そのうちの一人が」を書き忘れたか、省略しただけと考えることもできるだろう。「男の子が二人、冗談半分のとっくみ合いの喧嘩を始め、そのうちの一人が倒れた拍子に石で頭を打った」だけかもしれないし、「ぼくは7歳年上の(そして息子の一人がぼくの生徒である)彼女のことをある程度本気で好きになっていたかもしれない」ということなのかもしれない。

 では①についてはどうだろう?
「交際した女性の人数が数え方によって二人になったり三人になったりする」を無難に解釈するなら、「交際」の定義によって数え方が変わると考えるしかないように思われる。例えば、一度か二度だけ寝た女性までカウントすれば三人で、カウントしなければ二人、というふうに。
 しかし、この解釈は次の一文が否定している。
 ”一度か二度だけ寝た相手を加えれば、そのリストはもう少し長いものになる。”
 つまり、人数の変化は「交際」の定義の違いによるものではないのだ。

 では、ほかにどんな理由があれば、数え方によって人数が変わるなんてことが起きるのだろうか?

 不可解な謎のようにも思える問ではあるが、実は私たちはその答えを、あるいは答えに近いものをすでに目の当たりにしている。
 図1をここに再掲しよう。ただし今度は、すみれの語る物語にときどき「あなた」や「K」という脇役(補助的ドウタ)として登場する「ぼく」も書き加えた図1’として。

図1’

 さて、この図のすみれから見て、「ぼく」はいったい何人いることになるだろう?
 ここが普通の世界や普通の物語であったなら、あるいは私たちが鍵を開ける前であったなら、答えは当然「ひとり」だったはずだ。
 でも、鍵はすでに開けられている。
 ここはひとりの人物がマザとドウタに分裂しうる世界であり、ときにはマザとドウタが顔をつきあわせて生活し、ときには交代交代に物語に登場したりする世界だ。
 その世界の中で、すみれの視点から「ぼく」の人数を数えると答えは必ずしも「ひとり」とはならない。すみれ(ドウタ)の視点から数えるなら「ぼく」はすみれ(ドウタ)と同じ世界にいるK(=「ぼく」)一人だけど、すみれ(マザ)の視点から数えると「ぼく」はすみれ(マザ)と同じ現実世界にいる「ぼく」と、すみれ(マザ)が語る物語世界にいるK(=「ぼく」)の二人がいることになる。
 つまり、すみれから見た「ぼく」は数え方によって一人になったり二人になったりするということだ。

 「交際した女性の人数が数え方によって二人になったり三人になったりする」という記述は、これと同じことが「ぼく」の視点から見た「ガールフレンド」にも起きていることを示唆している。
 図2に示すように「ガールフレンド」は、「ぼく」(マザ)と同じ世界にいる「ガールフレンド」と「ぼく」(ドウタ)と同じ世界にいる「ガールフレンド」の二人がいるということだ。

図2

 ミュウのそばにはすみれ(ドウタ)がいて、すみれ(マザ)のそばには「ぼく」(ドウタ)がいるように、「ぼく」(マザ)のそばには「ガールフレンド」がいる。

 すみれ(マザ)は自分の分身であるすみれ(ドウタ)を介してミュウの面倒をよくみて、「ぼく」(マザ)は「ぼく」(ドウタ)を介してすみれ(マザ)の面倒をよくみている。
 では、「ガールフレンド」を介して、「ぼく」(マザ)の面倒をよくみているのは誰だろうか?
 もちろん、「ガールフレンド」(マザ)だ。

 この結論が浮かび上がらせるのは、『スプートニクの恋人』の中では決して語られることのないもうひとつの層、もうひとつの世界――「ガールフレンド」(ドウタ)を視点的ドウタとして、「ぼく」(マザ)を中心的ドウタとする物語、すなわち『ガールフレンドがぼくを愛する物語』を語る「ガールフレンド」(マザ)がいる第0層の世界だ(図3)。

図3(一部)
図3(全体)

 つまり『スプートニクの恋人』という物語は、「ぼく」(マザ)が「ぼく」(ドウタ)を視点的ドウタとして物語を語る物語なのだが、ではその「ぼく」(マザ)を語っているのは誰か、この『スプートニクの恋人』自体のマザは誰かというと、「ガールフレンド」(マザ)ということになるのだ。

 以上が、この『スプートニクの恋人』第二部前編に明示・暗示されている基本の構造の全体像である。

1-3.層状に折り重なる世界とその高度について

 「ガールフレンド」の人数に関する違和感は、『スプートニクの恋人』の層状構造に隠されていた目に見えない層の存在とその真のマザを私たちに教えてくれた。
 では残りの二つ、②遠足で喧嘩した男子生徒の人数の変化と③「ガールフレンド」の子供の人数の変化は何を意味しているのだろう?
 この二つのエピソードを注意深く読んでいくと、それらに共通するひとつのキーワードが浮かびあがってくる。
 それが「高度」だ。
 ②のエピソードは奥多摩の山中での出来事であり、③のバリ島への休暇旅行には当然飛行機で出かけたはずで、いずれも高度の高い場所が関係しているのだ。

 高度。

 『スプートニクの恋人』の物語世界を高度に着目して見渡すと、「ぼく」、すみれ、ミュウ、そして「ガールフレンド」ら登場人物たちがたびたび高い所に登りたがったり、あるいは実際に高い所に登ってそこで奇妙な体験をしたり、意味深長なメッセージを受け取ったり発したりしていることに気がつく。

 「ぼく」は、小学校の遠足で奥多摩の山を登った際には例の男子生徒の二人(?)のトラブルに巻きこまれ、不思議な音楽に誘われてギリシャの小さな島の山頂に登った際には「ぼく」が「ぼく」ではなくなりかけていることに気づき、東京への帰途に立ち寄ったアクロポリスの丘の上では自分の人生の荒涼とした風景をはるか先まで見通すことができて、立川の喫茶店では自分のクラスの生徒であるにんじんに”「ぼくが今なにをいちばんやりたいか、わかるかい? それはね、ピラミッドみたいな高いところに登ることだ。そこのてっぺんに立って、世界をぐるりと見渡し、どんな景色が見えるのか、今となってはそこからいったいなにが失われてしまったか、自分の目で確かめてみたいんだ。」”と語る。

 すみれは、孤立した高い山のてっぺんにある小屋でひとりぼっちで三か月を過ごす話に強く心を惹かれ、ヨーロッパ行きの飛行機を降りてからは誰かの手でいったんばらばらの部品に分解されてそれから大急ぎで組み立てられたように感じ、ギリシャの小さな島では長いらせん階段をのぼった先で母親に――マザに――会う夢を見る。

 ミュウは子供の頃、韓国北部の山の中の小さな町で父親の銅像を見て、”この世界では目に見えるものがそのまま正しいわけじゃない”ことを悟り、また14年前には、頂上付近で停止した観覧車の中から双眼鏡越しにもうひとりの自分のとても自分とは思えない行為を目撃し、その結果半分になってしまう。

 「ガールフレンド」は(当然飛行機で)夫と例の二人のひとり息子●●●●●●●●と一緒にバリ島へ休暇旅行に出かける。

 なぜ高いところにはこのような不可思議な出来事とメッセージが溢れているのだろう?
 その理由は――少し奇妙なことを言うようだが――この『スプートニクの恋人』という層状に折り重なった物語世界においては、その世界での位置の高低、すなわち高度がそのまま図3に示した層状構造の上下を意味しているからだ。
 あられもない言い方をすれば、たとえば第二層のすみれ(マザ)が高い山を頂上まで登れば、そこで第一層の「ぼく」(マザ)に会うことができるし、さらに高い所に行ってそこから下を見渡せば、この物語のそのような層状構造そのものを俯瞰できる、ということだ。

 そのような層状の世界にあっては、第二層の「ガールフレンド」の息子が遠足で奥多摩の山をのぼって第一層に出れば、そこで第一層の「ガールフレンド」の息子に鉢合わせすることもありうるし、その二人が下山途中に層の境界線付近でとっくみ合いの喧嘩をすれば、足を滑らせた拍子に第一層の息子を第一層に残して、第二層の息子だけが第二層側に(すなわち「ぼく」の語る物語の側に)転んでしまうということもありうるのだ。

 また、第二層の「ガールフレンド」と夫とその息子がバリ島への飛行機に乗りこめば、その上空でふたたび第一層の息子と鉢合わせることもありうるだろう。

 マザのいる層を現実世界、ドウタのいる層を物語世界と捉えるなら、高いところにのぼるという行為は、物語世界から現実世界へ移動する行為だと言える。

 このように、『スプートニクの恋人』第二部における「高度」はその独特な仕方で先述した層状構造の存在を暗に示唆しているわけだけど、ミュウの14年前の観覧車での出来事を見てもわかるとおり、それは示唆の次元をはるかに超えてこの物語の本質に深く複雑に絡まっている。

 高度。

 今どの高さにいるのか?
 今どの物語の中にいるのか?
 私たちはその問を頭の片隅に置きながら、注意深く歩を進めていかなくてはならない。

1‐4.基本の構造の行き止まりとミュウという謎

 「ガールフレンド」は「ぼく」を中心にして自らの物語を語り、
 「ぼく」はすみれを中心にして自らの物語を語り、
 すみれはミュウを中心にして自らの物語を語る。

 これは、自らの物語の主人公になれなかった者たちが、愛する人をその主人公の位置に据えて、それでもなんとか物語を紡いでいこうとあがく物語だ。
 しかし、「ガールフレンド」は「ぼく」を愛していて、「ぼく」は「ガールフレンド」を愛していない。「ぼく」はすみれを愛していて、すみれは「ぼく」を愛していない。すみれはミュウを愛していて、ミュウは誰も愛することができない。
 ひとつひとつの物語ははじめから一方通行の行き止まりになっていて、それ以上前に進むことはできない。
 それゆえ、この層状構造の物語ははじめから構造的に下へ下へと層を重ねることでしか新たな展開を望めない仕組みになっていた。
 そして、すみれが愛したのがミュウであった時点で、下方向への進展も不可能になった。「ガールフレンド」→「ぼく」→すみれと続いてきた下方向への物語は、硬質の岩盤に行き当たった掘削機のようにミュウという謎に突きあたって、そこで止まる。

 ミュウ。

 ミュウはこの不可思議な『スプートニクの恋人』という物語世界にあって、もっともミステリアスな人物だ。
 日本生まれ日本育ちの韓国籍で、元ピアニストで貿易会社の経営者であり、ワインの輸入や音楽関係の企画とアレンジメントを個人的に手掛けている。
 すみれに<記号>と<象徴>の違いを問い、すみれを自分のアシスタントに勧誘する。
 すみれがミュウのことをたずねると言葉巧みにかわして、自分自身について語ることを避ける。
 ピアノのためにあらゆることを犠牲にしてきたのだと言い、しかしある時期を境にぴたりとピアノをやめてしまっている。

 そんなミュウについてまわる様々な謎の中でもひときわ異彩を放っているのが、”「今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ」”という彼女の言葉だ。

 しかし『1Q84』の深い森を抜けた私たちになら、その謎の意味を二択にまで絞りこむことができる。
 『1Q84』ではふかえりが空気さなぎによってマザとドウタに分かたれていた。
 おそらくそれに近いことが、14年前のミュウの身に起きたのだろう。

 では、すみれとともにいるこのミュウはどっちなのだろう?
 マザなのだろうか? それともドウタなのだろうか?

 仮にマザだとすると、ミュウはドウタを失っているため、脱走当時のふかえりのように自分の物語を語ることができないはずだ。
 そして、実際にミュウはほとんど自分のことを語ろうとしない。
 ”しかしミュウは自分自身について語るのをあまり好まないようだった。「わたしの身の上なんてどうでもいいじゃない」と彼女はにこやかに言った。「それよりもっとあなたの話を聞きたいの」”
 経歴や仕事の内容などの客観的事実を除けば、ミュウが切れ切れに語るのは、彼女が半分になった14年前よりさらに以前の、マザとドウタがまだ一緒だったころに紡がれた物語の内容ばかりだ。

 また、”おそらく彼女は、今自分が手にしているものを寸分の妥協もなく護りきろうと決意しているのだろう。峠の砦にこもったスパルタ人みたいに。”というミュウのその食事の仕方にも、これ以上新たに紡がれることのない限られた物語をかたくなに守ろうとする彼女の姿勢を見てとることができる。

 前編の様々な描写は、ミュウをマザとする仮定に整合するように思える。

 では逆に、ミュウがドウタだと仮定してみたらどうなるだろう?

 ミュウがマザなきドウタであるなら、彼女は物語の語り手ではなく、語られる側なので、自ら自分の物語を語ることはできない。
 そして、実際にミュウはほとんど自分のことを語ろうとしない。彼女が切れ切れに語るのは、彼女が半分になった14年前よりさらに以前の、マザとドウタがまだ一緒だったころに紡がれた物語の内容ばかりで、その食事の仕方にも、これ以上新たに紡がれることのない限られた物語をかたくなに守ろうとするミュウの姿勢を見てとることができる。
 前編の描写は、ミュウをドウタとする仮定に整合するように思える……。

 そう。ミュウがドウタだと仮定した場合でも前編の描写と整合してしまうのだ。

 ミュウがマザであってもドウタであっても、すみれとミュウの物語はこの前編に描かれたようなストーリーをたどることになる。
 この前編から私たちにわかるのは、ミュウは14年前にマザとドウタに分かれていて、今ここにいるのはそのいずれか半分だということだけであり、それ以上のことは杳として知れない。

 すみれが恋に落ちた相手が、半分のミュウだったこと。
 ”それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。” と「ぼく」は言う。
 「ぼく」の言うとおり、すみれが恋に落ちた相手がミュウであった時点で、物語は前にも下にも進むことができなくなり、そこで終わることを余儀なくされている。

 しかし、「ぼく」はそこに”(ほとんど)”といくばくかの保留の余地を残している。
 ほとんどすべてのものはここで終わる。
 しかし、ほんの少しだけ、なにか終わらないものがあるかもしれない。
 そのか細い道をたどるように、そこに一縷の望みを託すように、「ぼく」はここから物語を語りはじめる。

 ここから、すべてのものごとが始まっていく。

1-5.破綻の兆しと二通の手紙

 「ガールフレンド」が語る物語のその中で「ぼく」が語る物語の、さらにその中ですみれが物語を語る、というこの『スプートニクの恋人』の基本の構造は、しかし前編の終盤で早くも破綻をきたしはじめる。

 すみれがミュウとともにヨーロッパへ出張に行って、物語の中から姿をくらましてしまうのだ。
 ”彼女はぼくからものすごく遠く離れたところにいる。”と「ぼく」が言うとおり、すみれとミュウの行き先は『スプートニクの恋人』唯一の視点的ドウタである「ぼく」の目の届かない場所であり、それゆえ私たちレシヴァの目の届かない場所だ。
 その状況をミュウは”わたしは世界の端っこにいて、そこに静かに腰かけていて、誰にもわたしの姿は見えない。そんな気がしたわ。”と表現している。

 その世界の端っこのような場所から「ぼく」のもとに、すみれの書いた二通の手紙が届く。
 手紙にしたためられているのは、すみれ(マザ)が語るすみれ(ドウタ)の視点から見たミュウの物語であり、すなわち相変わらずの『すみれがミュウを愛する物語』で、それが「ぼく」の視点を通してこの『スプートニクの恋人』の中に描写されることで、図3の基本構造はかろうじて保たれる、ように思われる。

 しかし、すみれの軽妙な語り口とは裏腹に、一通めの手紙の序盤から不穏な空気がただよいはじめる。

 その手紙の中で、すみれは”自分が自分でないようななんだか不思議な気分を味わっています。”と言い、”ぐっすりと眠りこんでいるあいだに、誰かの手でいったんばらばらの部品に分解されて、それからまた大急ぎで組み立てられたみたいな感じ”が飛行機を降りてからずっと続いているのだと言う。
 『1Q84』でふかえりが空気さなぎを介してマザとドウタに分かれたように、すみれもまた空路という高高度を通過することで、マザとドウタの分離を体験したのだろう。
 そして、飛行機を降りた後も”どうリクツをつけても、ここにいるわたし【すみれ(マザ)】と、わたしの考えるわたし自身【すみれ(ドウタ)】とがひとつになじまないの”だと言い、また、すみれ(マザ)がわざわざ語るまでもなく、すみれ(ドウタ)は自らの力で動き出しているのだと言う。
 ”べつの言い方をすれ ば、「わたし【すみれ(マザ)】はじつのところ、べつにここにいなくてもよかったんだ」 ということです。”

 このマザとドウタの分離を証明するように、一通めの手紙には、手紙を書くすみれ(マザ)と手紙に書かれるすみれ(ドウタ)が節を隔てて別々に描写されている。

 ”わたしは今、ローマの路地の奥にある屋外カフェで、悪魔の汗みたいに濃いエスプレッソ・コーヒーをすすりながらこの手紙を書いているのですが”というときの、この手紙を書いている「わたし」がすみれ(マザ)で、”わたしたち はまず飛行機でミラノについて、街を見物し、それからブルーのアルファロメオを借りて高速道路を南に向かいました。”と手紙に書かれている「わたし」がすみれ(ドウタ)だ。

 飛行機でミラノに着いたすみれ(ドウタ)とミュウは、そこでドレスや靴や下着の買い物をし、トスカナのいくつかのワイナリーをまわって、フィレンツェのホテルではひとつの部屋に泊まり、そしてローマにたどりつく。
 途中、ミュウと同じ部屋に泊まったときには、彼女のほっそりとして滑らかな身体に抱かれるところを想像して危うくちがう場所に押し流されそうになったりもしたが(”彼女と同じ部屋にいて、ベッドの中でそんなみだらな想像をしていると、だんだん自分がちがう場所に押し流されていくような気がしました。”)、その危機もなんとか回避して、すみれ(ドウタ)は、ローマで手紙を書いているすみれ(マザ)へと着実に近づいていき、

 ”ミュウはローマにいる古いお友達に会いに出かけて、わたしは一人で少しだけホテルの近辺を散歩し、目についたカフェで休んで、こうしてあなたにせっせと手紙を書いています。”

 一通めの手紙のラストのこの箇所で、すみれ(ドウタ)はついにすみれ(マザ)の居場所にたどり着いて、ばらばらになっていたマザとドウタはここでようやくひとつになる。
 そのマザとドウタがひとつになった描写を受けて、”それでふと今気がついたのだけれど、あなたにこうして手紙を書いているうちに、最初に言った「ばらばらになったような変な気持ち」はいくぶん薄らいできたみたいです。”とすみれは言う。

 この一通めの手紙のラストは、先に述べた『スプートニクの恋人』第一部のラストによく似ている。
 第一部のラストでは、語られる「ぼく」が語る「ぼく」に追いついてひとつになり、再び『スプートニクの恋人』の物語を語り始めていた。
 しかし、そこで描かれていた光景と、今ここで描かれている光景には決定的な違いもある。
 語る「ぼく」と語られる「ぼく」、あるいはマザとドウタがひとつになる、その場所だ。
 第一部のラストで語られる「ぼく」と語る「ぼく」がひとつになるのは、物語が終わった時点での、すなわち物語世界の外側での出来事であり、それゆえそのシーンは物語の中には描かれていない。
 物語世界の外の現実世界でひとつになった語る「ぼく」と語られる「ぼく」は、その現実世界で新たな語る「ぼく」となって再び物語を語り始めていた。
 一方、この一通めの手紙では、先に引用したとおり、その手紙の中にマザとドウタがひとつになる瞬間が明確に描写されている。すみれ(マザ)とすみれ(ドウタ)は物語の中でひとつになっているのだ。
 物語世界の中でマザとドウタがひとつになった場合、そのすみれはいったいどうなるのだろう? すみれ(マザ)となって再び手紙を書き始めるのだろうか? それともすみれ(ドウタ)となるのだろうか?

 その答え合わせをするかのように、「ぼく」のもとにすみれから二通めの手紙が届く。
 その中に描かれているのは、ミュウとともにヴェネチア、ミラノ、パリにブルゴーニュを巡るすみれ(ドウタ)の様子だけで、手紙を書くすみれ(マザ)の姿はどこにも見当たらない。

 そう。現実世界で邂逅した語る「ぼく」と語られる「ぼく」が、現実世界の住人である語る「ぼく」になったように、物語世界で邂逅したすみれ(マザ)とすみれ(ドウタ)は物語世界の住人であるすみれ(ドウタ)になったのだ。

 かくして、「ぼく」の物語の中心的ドウタであったすみれ(マザ)は、「ぼく」の物語の中から完全にその姿を消し、そのすみれ(マザ)の語る物語の登場人物であるはずのミュウから、「ぼく」のもとにかかるはずのない電話がかかってきて『スプートニクの恋人』第二部前編は幕を下ろす。
 依るべき構造の破綻を予感しながら、私たちは中編、破の編の暗い迷宮へと足を踏み入れる。

2.中編ー破の編

2‐1.私たちはとんでもない思い違いをしているのかもしれない

 ミュウと電話がつながる直前に、”ちがった種類の空気をむりにこすり合わせるような激しい騒音”がひとしきり続く。
 その空気のメタファーは私たちに図3の層状に重なり合った物語世界を連想させる。
 「ぼく」は第二層の世界の住人で、ミュウは第三層の世界の住人だ。
 そのミュウから「ぼく」への電話は、私たちのもとに『シャーロック・ホームズの冒険』の主人公であるあの名探偵から電話がかかってくるのに等しい事態だ。
 電話がつながる直前の激しい騒音は、そのような異なる層の物語世界をむりやりつなげたことを示すメタファーであるかのように思われる。

 ミュウはギリシャの小さな島からかけたその電話で、一刻も早くここに来ることを「ぼく」に請う。電話を終えたあとで「ぼく」はミュウが口にした二つの事実をメモ用紙に書き出して、その重要な箇所に傍線を引く(本稿では傍点で代用)。

(1)すみれになにかが起こった。しかしなにが起こったのかはミュウにもわからない●●●●●
(2)ぼくは一刻も早くそこに行かなくてはならない。すみれもそれを求めていると(ミュウは)思っている●●●●●

 詳しくは「文書1」の項で述べるが、「わからない」は客観的事実に基づく論理的思考であり、自らの物語世界を持たない者(マザかドウタのいずれか半分である者)にも可能な言葉づかいだが、「思っている」はドウタの心を想像に基づいて代弁する物語的思考であり、自らの物語世界を持つ者(マザとドウタがひとつになっている者)にのみ可能な言葉づかいだ。
 ”それらの言葉は曖昧で非具体的で、両義的な謎に満ちていた。”と「ぼく」が言うとおり、もともと「マザとドウタのいずれか半分」という二択であったミュウの謎に、ここではさらに本当に「半分」なのか? それとも実は「ひとつ」なのか? という新たな二択が加わっている。
 ミュウという謎はさらに深まり、「ぼく」と私たちの行く手を惑わせる。

 「ぼく」は”「あなたはここに来られる?」”というミュウの言葉にしたがって、飛行機とフェリーを乗り継いでミュウの言う「ここ」へと渡る。
 ミュウが「ここ」と呼ぶ場所は、ミュウが住む世界、すなわち図4の一番下の層、すみれ(マザ)が語る『すみれがミュウを愛する物語』の中であるはずだ。

図4

 でも、何かがおかしい。

 そのギリシャの小さな島ではじめて目にするミュウの姿は、「ぼく」にどこか落ちつかない奇妙な印象を抱かせる。
 ”ミュウは美しい女性だった。ぼくがまず最初に受け入れたのはその明白で単純な事実だった。いや、あるいは本当はそれほど明白でも単純でもないのかもしれない。ぼくはなにかとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。ぼくはなにかの事情で、改変を許さない他人の夢の流れの中にただ呑み込まれてしまっていただけのことなのかもしれない。今となってみれば、そういう可能性もまったく否定することはできないような気もする。”
と「ぼく」(マザ)は語る。

 ”「急な階段とゆるい坂道があって、階段の方が距離としては近いの。そちらでいい?」”
 
港の裏手のタヴェルナでの夕食のあと、ミュウにそう言われて「ぼく」は狭い石の階段をのぼって丘の上のコテージに向かう。

 その改変を許さない他人の夢の流れの中かもしれない場所の、近道の急な階段をのぼった先で、ミュウは「ぼく」を聞き手としてミュウ自身の物語を語り始める。
 「私が私の物語を語る」、マザとドウタがひとつになってはじめて可能となるその御業を、マザであってもドウタであってもいずれか半分であるかぎり不可能なその奇跡を、半分であるはずのミュウは「ぼく」の前で惜しげもなく披露してみせる。
 ミュウが語るのは彼女が半分になった14年前以前の物語ではなく、ここ数日のできたてほかほかの物語で、しかもそれはミュウを視点的ドウタとし、すみれを中心的ドウタとする物語、すなわち『ミュウがすみれを愛する物語』だ。

 私たちは天井に立ち床を見上げているかのような、奇妙な錯覚に陥る。
 ここはほんとうに『すみれがミュウを愛する物語』の中なのだろうか?
 これは『すみれがミュウを愛する物語』のその中で、ミュウが『ミュウがすみれを愛する物語』を語っているというだけのことなのだろうか?
 しかし、あたりを見回しても、ミュウの面倒をみるべきすみれの姿は見当たらない。むしろ逆に、ミュウがすみれのために「ぼく」を呼び、警察を頼り、アテネの領事館を訪ねていて、まるでミュウがすみれの面倒をよくみているように見える。まるでここもまた『ミュウがすみれを愛する物語』のその中であるかのように。

 ここはいったいどこなのだろう?

 ”ぼくはなにかとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。”と「ぼく」は言う。
 たしかに私たちもまた、なにかとんでもない思い違いをしているのかもしれない。
 中編に入ったとたんに、まるで重要なエピソードをいくつも読み飛ばしてしまったみたいに景色は一変している。
 物語の階層を飛び越えて、ミュウから「ぼく」に電話がかかる。
 すみれは煙のように消えている。
 ミュウは「ぼく」に『ミュウがすみれを愛する物語』を語る。
 そのあまりの変わりように、前編で提示されたあの層状構造が今どうなっているのか、合い鍵を持つ私たちにもさっぱりわからない。
 どんな理由で、どんな原因で、どんな原理でそんなことが起きたのか、中編を隅から隅までさらっても、あるいは合い鍵を持って『スプートニクの恋人』を読み終えたとしても、それらの答えは与えられない。
 なぜなら、前編と中編を結び、それらの問に答えを与えるはずの『すみれがミュウを愛する物語』が前編の二通の手紙を最後にすっぱりと抜け落ちているからだ。
 私たちは知らぬ間に近道の急な階段をのぼってしまって、実際にいくつもの重要なエピソードを飛ばしてしまっていたのだ。
 その前編と中編の狭間ですみれがくぐり抜けた冒険譚は『スプートニクの恋人』の中に直接には描写されていない。しかし、そこにはいくつもの断片と痕跡が残されている。
 私たちに今求められているのは、語り手としてそれらを注意深く拾い集めて、ひとつながりの『すみれがミュウを愛する物語』として語り直すことだ。
 それらの断片と痕跡のいずれもに切れ味鋭いメタファーがところ狭しと仕掛けられ、深い暗示の網が幾重にも張り巡らされている。私たちはそのメタファーと暗示の迷宮を、注意深く耳を澄ませてひもといていかなくてはならない。
 さあ、今来たばかりの急な階段を引き返し、今度はすみれの足跡をたどってゆるい坂道を慎重に歩いてみよう。
 ちょうど、すみれがひとりの語り手としてミュウの14年前の出来事を語り直したように、あるいは『1Q84』の中で天吾がふかえりの小説『空気さなぎ』を書き直したように、中編のあちこちに散らばった断片を拾い集めて、ここにあったはずの『すみれがミュウを愛する物語』の続きを私たちの手で書き直してみよう。

 ここで本当は何が起きていたのかを知る、そのために。

2-2.すみれの冒険

 私たちが今から書き直すのは、すみれを視点的ドウタとするすみれの物語なので、そのことを明示するうえでも、(そしてなにより、この先で、一人称と三人称の差異が重要な意味を持つことになるため)ここでは括弧付き一人称「わたし」ですみれを記述する。

2-2-1.ミュウの観覧車の話と二つの物語の重ね合わせについて

 物語は二通めの手紙の最後に記された地、ブルゴーニュの村からはじまる。
 「ぼく」のもとに送られてきた二通の手紙には、すみれの物語のその中で、「わたし」(マザ)が「わたし」(ドウタ)とひとつになってミュウとともにヨーロッパを巡り、ブルゴーニュの村へと到る様子が描かれていた。
 その村で「わたし」はミュウから彼女の重大な秘密を聞き出す。
 それは、前編で”「今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。」”とミュウが語っていたその当の出来事であり、のちに文書2の中で『ミュウの観覧車の話』とタイトルをつけられることになるミュウの物語だ。

 その秘密を語るに際して、ミュウは「わたし」に奇妙な警告をあたえる。
 ”「わたしがもしここで箱のふたを開いてしまえば、あなたもまたこの話に含まれてしまうかもしれない」”とミュウは言う。
 「箱のふたを開いてしまえば」という言い回しは、私たちにパンドラの箱を連想させる。ひとたび箱のふたを開いてしまえば、そこから何が飛び出してくるか誰にもわからない、という意味合いで。
 しかし、ミュウが心配しているのは、箱の中から何が出てくるかではなく、その箱の中の物語に「わたし」が含まれてしまうことだ。
 そこにはパンドラの箱のニュアンスにうまくあてはまらないものがある。

 箱を開けて現れるのは、ミュウが25歳の夏に、スイスの国境付近の小さな町にひとりで滞在していたときの物語だ。
 その物語の中で、ミュウは遊園地の観覧車に閉じこめられて、そこから双眼鏡越しにもう一人の自分を――誰もいないはずの自室で、自分が不快に思っているはずのフェルディナンドと深く交わる自分の姿を――目撃する。
 そしてミュウは半分になる。マザとドウタの絆は断ち切られ、ミュウはこちら側のミュウとあちら側のミュウに分かれてしまう。
 では、今「わたし」とともにいるミュウ、観覧車に閉じこめられた方のミュウはどっちなのだろう? マザなのだろうか? それともドウタなのだろうか?

 前編では「わたし」の物語に登場するミュウがマザなのかドウタなのか一切見分けがつかなかった。なぜならミュウがマザであってもドウタであっても、まったく同じ物語を描くことができるからだ。

 しかし、『スプートニクの恋人』の基本構造を把握し、さらに『ミュウの観覧車の話』の箱のふたを開いた私たちにとって、その問に答えることはもはやさほど難しくない。
 『ミュウの観覧車の話』の中で、こちら側のミュウは観覧車に乗り、高所へとあがって、そこから双眼鏡越しにあちら側のミュウを目撃する。
 この『スプートニクの恋人』においては、マザの住む現実世界とドウタの住む物語世界は層状に重なっていて、その層の上下に地理的な高度が対応しているのだった。
 それゆえ、図5に示すように、下から上へとあがってもう一人の自分の姿を目撃できるのは下層・物語世界の住人であるドウタであり、目撃されるのは上層・現実世界の住人であるマザでなければならない。

図5

 さらに、こちら側のミュウの言葉と『1Q84』の記述を比較すれば、答えはより明確になるだろう。
 ”「わたしはこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。わたしの黒い髪と、わたしの性欲と生理と排卵と、そしておそらくは生きるための意志のようなものを持ったままね。」”とこちら側のミュウは言い、”「わたし●●●はニンシンしない。わたしにはセイリがないから」”(1Q84 BOOK2)とふかえり(ドウタ)は言う。
 ”「あなたが目にしているのは、かつてのわたしの影にすぎないの」”とこちら側のミュウは言い、”「ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。」”(1Q84 BOOK2)とテノールのリトル・ピープルは言う。

 かくして、「わたし」と私たちはこちら側のミュウがドウタであることを、物語の語り手ではなく、語られる登場人物であることを知る。
 箱が閉じたままであった前編でマザなのかドウタなのか不確定であったミュウの正体が、ここで箱を開けたことにより、ドウタであったことが確定する。
 では、このことをもって、前編に描かれていたミュウは、ミュウ(ドウタ)だったと言っていいのだろうか?

 ……いや、どうやらそうは問屋が卸さないようだ。

 ”「でもね、何かが奪い去られたというのではないのよ。それはまだ向こう側にきちんと存在しているはずなの。わたしにはそれがわかる。わたしたちは一枚の鏡によって隔てられているだけのことなの。」”とミュウは言い、「わたし」はこの『ミュウの観覧車の話』を聞き出したあとで、”わたしはミュウを愛している。いうまでもなくこちら側のミュウを愛している。でもそれと同じくらい、あちら側にいるはずのミュウのことをも愛している。わたしは強くそう感じる。それについて考えだすと、わたしはわたし自身が分割されていくような軋みを身の内に感じることになる。ミュウの分割が、わたしの分割として投影され、降りかかってくるみたいだ。とても切実に、選びようもなく”と感じる。

 なぜ「わたし」は会ったこともないはずのあちら側のミュウについて、「愛することができると思う」でも「愛することになると思う」でもなく、「愛している」と言えるのだろう?

 前編の箱が閉じられた状態でミュウがマザなのかドウタなのか確定できなかったのは、ミュウがマザであってもドウタであっても同じ●●物語になるからであった。
 そして、「わたし」はこちら側のミュウ(ドウタ)と同じ●●くらいあちら側のミュウ(マザ)を愛しているのだと言う。

 この『スプートニクの恋人』において、誰かを愛するということは、その誰かを中心として自らの物語を語るということだった。
 だとしたら、「わたし」はいつどこでミュウ(マザ)を中心として「わたし」の物語を語ったのだろう?

 このブルゴーニュの夜から数日後、「わたし」はギリシャの小さな島でミュウのために英字新聞のある記事を読み上げる。
 それはアパートの自室で亡くなった老婦人の話で、彼女の飼っていた猫たちがその密室の中で飢えに耐えかねてその飼い主の遺体を食べたという内容だ。

 その話が、なぜか今唐突に私たちの頭をよぎる。
 密室の中の猫? 死?
 箱が閉じられた前編では不確定で……。
 箱が開けられてはじめて確定する二択……。

 それらの一見関連のないエピソードと、そこに隠されたキーワードが、私たちにひとつの箱を思い起こさせる。
 哀れな一匹の猫が入れられていたあの箱を。

 ”「わたしがもしここで箱のふたを開いてしまえば、あなたもまたこの話に含まれてしまうかもしれない」”とミュウは言う。
 その「箱」の意味が、パンドラの箱ではなかったことを私たちは悟る。
 その「箱」の意味が、シュレディンガーの猫が入れられていたあの箱だったことを、ようやく理解する。

 シュレディンガーの猫……。

 量子力学によって記述されるミクロの世界には、相反する二つの(あるいはそれ以上の)状態が同時に共存する「状態の重ね合わせ」と呼ばれる現象がある。例えば、ひとつの原子が放射性崩壊を起こした状態と起こしていない状態とが重ね合わさっている、「放射性崩壊を起こした」かつ「放射性崩壊を起こしていない」としか言いようのない奇妙な状態がごく当たり前に存在するのだ。
 しかし、私がその奇妙な状態を実際に目の当たりにすることは決してない。なぜならこの状態の重ね合わせは、私が観測することによっていずれか片方に収束してしまうからだ。換言すれば、私が原子の状態を観測すれば、私は「放射性崩壊を起こした原子」か「放射性崩壊を起こしていない原子」いずれかの物語に含まれることになるということだ、いうなれば。
 シュレディンガーという物理学者はこのミクロの状態の重ね合わせを特殊な装置でマクロへと敷衍する「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験を提唱した。
 あるひとつの原子が放射性崩壊を起こすと内部に毒ガスが発生するというろくでもない箱を想定し、その中に不憫な一匹の猫を入れた場合、その猫の生と死がどのような状態になるかを考えたのだ。
 原子が放射性崩壊を起こした状態と起こしていない状態の重ね合わせは、毒ガスが発生した状態と発生していない状態の重ね合わせを引き起こし、そして猫が死んでいる状態と生きている状態の重ね合わせを引き起こす。
 換言すれば、原子の状態の分割が、猫の身にその命の状態の分割として降りかかる、ということになる。
 そして、この猫の生と死の重ね合わせは、私が箱のふたをあけてその中を観測することによって、いずれか片方に収束することになる。私が箱のふたを開いたなら、私は「猫が生きている物語」か「猫が死んでいる物語」のいずれかに含まれてしまう、ということだ。

 私は前編で、「ミュウはマザとドウタのどっちなのだろう?」という問をたてたが、その問が根本的に間違っていたのだ。
 前編は、ミュウ(マザ)の物語とミュウ(ドウタ)の物語という相反する二つの物語が重ね合わせになっている特殊な閉じた箱の物語だったのだ。
 「わたし」は『すみれがミュウを愛する物語』を語ることで、『すみれがミュウ(ドウタ)を愛する物語』を語ると同時に、『すみれがミュウ(マザ)を愛する物語』をも語っていたのだ。文字どおり、こちら側のミュウを愛していたのと同じ●●くらいあちら側のミュウも愛していたのだ。

 そして、あのブルゴーニュの夜に、「わたし」に懇願されてミュウはその箱のふたを開く。
 ”「わたしがもしここで箱のふたを開いてしまえば、あなたもまたこの話に含まれてしまうかもしれない」”とミュウは言う。
 箱のふたを開いて、その中身を「わたし」に観測されることで、マザとドウタの重ね合わせの状態にあったミュウは、ミュウ(ドウタ)へと収束する。
 言い換えれば、「わたし」は、重ね合わせの状態にあったミュウ(マザ)の物語とミュウ(ドウタ)の物語の二つの物語のうち、ミュウ(ドウタ)の物語へと含まれることになり、「わたし」の物語は『すみれがミュウ(ドウタ)を愛する物語』へと収束することなったのだ。

 では、もう一つの物語、『すみれがミュウ(マザ)を愛する物語』はどうなったのだろう?
 消えてなくなってしまったのだろうか?
 いや、そうではない。
 原子の状態の重ね合わせが、猫の生と死の重ね合わせを引き起こしたように、ミュウ(マザ)とミュウ(ドウタ)の重ね合わせは「箱のふたを開いたら『ミュウ(ドウタ)の観覧車の話』が出てきた物語」と「箱のふたを開いたら『ミュウ(マザ)の観覧車の話』が出てきた物語」の重ね合わせを引き起こす。そうして重ね合わさる二つの物語は来たるべき未来において互いに干渉しあうことになるのだ、量子力学においても、この『スプートニクの恋人』においても。

 ”しかし結局、彼女【ミュウ】は語り始める。少しずつ、ひとかけらずつ。そのうちあるものはすぐに動きだし、そのうちあるものはいつまでも留まり続ける。そこに様々な種類の落差が生じる。ある場合には、落差自体が意味を帯び始める。”と「わたし」は言う。
 ミュウが「わたし」に語った『ミュウの観覧車の話』には二種類の物語が描写されている。鏡のこちら側の『ミュウ(ドウタ)の観覧車の話』の物語と、鏡の向こう側に垣間見える『ミュウ(マザ)の観覧車の話』の物語だ。
 こちら側の物語では、ミュウ(ドウタ)はフェルディナンドにおびえ、観覧車からミュウ(マザ)を目撃し、あちら側の物語ではミュウ(マザ)がフェルディナンドと(あるいはフェルディナンドですらない誰かと)深く交わり、あらゆることをされる。
 そのうち”いつまでも留まり続ける”のは『ミュウ(マザ)の観覧車の話』だ。ミュウ(マザ)に関する描写は、フェルディナンドと交わっている途中で、唐突な空白に呑まれて停止しており、今のところそれ以上の動きは見られない。『ミュウ(マザ)の観覧車の話』の停止は必然的に、それに連なる『すみれがミュウ(マザ)を愛する物語』の停止を引き起こす。
 客待ちをするタクシーのように、ミュウ(マザ)の物語はその中に空席を抱えながら、このブルゴーニュの夜に留まり続ける。

 その一方で、『ミュウ(ドウタ)の観覧車の話』はすぐに動き出す。その物語の中心的ドウタであるミュウ(ドウタ)は、そのまま前編で描かれた『すみれがミュウ(ドウタ)を愛する物語』を経て、今「わたし」の目の前にいるミュウへと直結し、そして「わたし」とともにギリシャの小さな島を訪れることになる。

2-2-2.文書1、あるいは三人称すみれの誕生

 そのギリシャの島で「わたし」とミュウ(ドウタ)はしばし夢のような日々を送る。
 朝早く起きて山向こうのビーチで泳ぎ、食後に港のカフェで英字新聞を読んで、店で買い物をしたあとはコテージでそれぞれの時間を過ごす。
 そのひとりの時間に「わたし」は自分の部屋で書き物をする。
 パワーブックを開いてぱたぱたとキーボードを打ち、数日前にミュウが語った『ミュウの観覧車の話』をそこに再現していく。話は切れ切れで、筋と時間が絶え間なく錯綜しているせいで、その作業は簡単には終わらない。
 その文書を書き終えるよりも前の、滞在四日めの夜明け前に、「わたし」はある夢を見て目を覚まし、その夢の内容をパワーブックに記録する。こっちの作業は二時間もかからずに終わり、「わたし」はそれに「文書1」と名前をつけてフロッピーディスクに保存する。

 文書1。

 <人が撃たれたら、血は流れるものだ>、<すみれの夢>、<床屋はもう穴を掘らない>の三章からなるこの文書に書かれているのは、夢の内容だけではない。
 そこでは、マザとドウタの対話が語られ、物語的思考と論理的思考の対比が語られ、マザとドウタの衝突が語られ、夢と物語の関係が語られ、そして「わたし」の決意が語られている。
 それらをひとつひとつに読み解く過程から詳述すると、膨大な量の説明文が生み出されてしまうので、ここでは結論だけをなるべく簡潔に記述する。

人が撃たれたら、血は流れるものだ
・「わたし」(マザ)と「わたし」(ドウタ)
 私たちは「ぼく」宛ての二通の手紙の中で「わたし」(マザ)と「わたし」(ドウタ)がひとつになるさまを目の当たりにした。
 この第一章<人が撃たれたら、血は流れるものだ>をしたためているのは、その「わたし」(マザ)と「わたし」(ドウタ)の二人だ。ここではマザがドウタを語るのではなく、その二人が交互に筆をとって物語と論理とマザとドウタと夢の関係性を掘り下げていっている。
 冒頭ではまず「わたし」(マザ)が筆をとり、「わたし」にとっての考えることと文章を書くことの関係を語る。
 「わたし」が何かを考えるためにはその前段階として、それを文章に書くこと、物語世界に落としこむことが必要なのだと「わたし」は言う。
 その話が一段落ついたところで、「わたし」(マザ)は”私は日常的に文字のかたちで自己を認識する。”と、とりあえずのテーゼをまとめて、
 ”そうね?”と「わたし」(ドウタ)に問いかけて筆を置き、
 ”そのとおり!”と「わたし」(ドウタ)が筆をとって答える。

 「わたし」(ドウタ)は自分のことを「わたし」、「わたし」(マザ)のことを「あなた」と呼んで区別し、二人を指示するときは「わたしたち」という言葉を使う。
 一方、「わたし」(マザ)が「わたし」と言うと、それは必然的に「わたし」(ドウタ)を指示してしまうので、「わたし」(マザ)にはマザとドウタを区別して語ることはできない。
 「わたし」(ドウタ)はそのドウタにのみ可能な文体で、その文体をもってはじめて語ることが可能となるものごと――「わたし」(マザ)から「わたし」(ドウタ)が生み出されるそのメカニズムと、その結果として生じるマザとドウタの衝突のリスクについて語りはじめる。

・物語的思考と論理的思考
 この章では二種類のものの考え方について言及されている。
 ここではそのふたつを物語的思考と論理的思考と呼ぶことにしよう。

 論理的思考とは、現実世界での経験から客観的法則(知っていること)を抽出し、その法則群を世界の原理として自分の中に論理世界を組み上げて、その世界をもとにものを考える、という思考法であり、作中では「わたし」の父親や「ぼく」がこのタイプの思考をしている。
 例えば、三日前空が曇ったあとに雨が降り、一昨日空が曇ったあとに雨がふり、昨日空が曇ったあとに雨が降り、そして今、再び空が曇っているとしよう。私はこの三日間の経験から「空が曇ったら雨が降る」という法則を導き、それをもとに私の中に論理世界を組み上げる。その論理世界の空に現実世界と同様の雲を浮かべ、時計の針を未来へと進めると、「空が曇ったら雨が降る」の法則にしたがって論理世界に雨が降り始める。私はそのことをもって、「このあと雨が降る」と考える。というのが論理世界に基づく論理的思考だ。
 論理世界はそのような原理が規則的に配置された水晶のような結晶構造をなしている。
 原理(=「知っていること」)によってのみ構成される結晶構造の世界ではわかることはわかるし、わからないことはわからず、「~だと思う」というような曖昧な想像の介入する余地はない。

 しかし、「わたし」は”「知っていること」と「知らないこと」は、実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している”のだと言う。
 私たちは経験から法則を導く際に、常に帰納と呼ばれる推論方法を使っている。これは先に示した雨降りの例のように、複数の類似した経験からその共通項を法則として切り出す推論方法なのだが、その雨降りの例からもわかるとおり、帰納によって導かれた法則はどれひとつとして100%正しいと言いきることはできない。100回の曇り空から100回雨が降ったとしても、101回目は雨が降らないかもしれない。その可能性はどこまでいってもゼロにならないのだ。
 私たちは素朴に「空が曇ったら雨が降る」ことを知っていると思っているが、その裏には「そうでない」可能性が宿命的にわかちがたく存在していて、そうでなかった場合何が起きるのかを私たちはまったく知らない。101回目にはイワシとアジが降ってくるかもしれないし、ヒルが降ってくるかもしれない。
 ”理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。”と「わたし」は言う。

 ではなぜ帰納では100%正しい法則を導けないのだろう?
 私たちの経験は個別的要素と普遍的要素、あるいは主観的要素と客観的要素の二つの要素から構成されている。
 帰納とはその経験を構成するものの中から個別的要素(あるいは主観的要素)を切り落として、普遍的要素(あるいは客観的要素)だけを法則として取りだす作業なのだけど、結局のところ誰にも個別と普遍、主観と客観を正しく見分けることはできないのだ。
 ”いったい誰に、海と、海が反映させるものを見分けることができるだろう? あるいは雨降りと寂しさを見分けることができるだろう?”
 青空のもと幾度となく海の青さに目を奪われた人が、海とその青さを見分けることなく「海が青い」を法則として導いたとしても誰も彼を責めることはできないだろう。たとえ彼がいつか夕刻の赤い海や深夜の黒い海に出会い、手ひどい裏切りにあうことになったとしても。
 あるいはまた、今まで雨が降るたびに必ず寂しさを覚えてきた人が、雨降りとその寂しさを見分けることなく「雨降りは寂しい」の法則を導いていたとしても、それは帰納推論としては何ひとつ間違ってはいない。しかしそのうえでなお、次の雨降りは彼女にとって心楽しいものになるかもしれないのだ。

 ”そのようにしてわたしは、知と非知とをよりわけることをいさぎよく放棄する。それがわたしの出発点だ。”と「わたし」(ドウタ)は言う。
 「わたし」はそのようにして、「知っていること」のみから構成されるはずの論理世界の中に、「そうでない」可能性を、すなわち「そうでなかった場合に何が起こるかわからない」非知を持ちこむ。
 普遍的要素とともに個別的要素を持ちこみ、客観的要素とともに主観的要素を持ちこむ。
 その結果、それら無数の個別的要素と主観的要素が寄り集まって、その世界の中に世界を見つめる個別的・主観的な視点が、すなわち視点的ドウタが生まれることになる。
 あるいは、そのような世界の在り方が、個別的・主観的なものごとの担い手として、世界の内側に世界を開く視点的ドウタの存在を要請する。
 ”それがわたしの出発点だ。”
 そうして生まれたのがわたしなのだと「わたし」(ドウタ)は言う。
 だからこそ”わたしはその【知と非知のあいだの】ついたてをあっさりと取り払ってしまう”のだと「わたし」(ドウタ)は言う。
 ”だってわたしはそうしないわけにはいかないから。【中略】だってそれがわたしという人間なんだから。”

 そのような論理世界にあっては、時間の針を進めたときに何が起こるかは確定しない。すべてはこの現実世界と同じように曖昧で不確実で蓋然的なものになってしまう。
 それはもはや論理世界と呼べる代物ではなくなっている。
 では何か?
 かくして、ここに現実世界と同じように曖昧で不確実で蓋然的で、「わたし」を内包する世界、物語世界が開かれることになるのだ。

 そして、それが物語世界であり、思考が物語的思考であるなら、考えるべき答えはときとして、その物語のあり方にあらかじめ含まれることになる、「わたし」がここで唐突に語りだす『わたしとわたしの手の関節』の物語に象徴されるように。
 『わたしとわたしの手の関節』のテーマ(考える対象)は「わたし」と「わたしの手の関節」の関係だ。「わたしの手の関節」は「わたし」という主体の一部なのだろうか? それとも「わたし」とは別に「わたし」の外部に存在する客体なのだろうか?
 それを考えるために文章を書きはじめたとしても、”わたしはまず右手の五本の指のつけねをぽきぽきと鳴らし、それから左手の五本の指のつけねをぽきぽきと鳴らす。”という文体を採用した時点で、文体がそのテーマに答えてしまう。右手の関節を鳴らすとき、鳴らされる右手は客体として書かれているが、鳴らす左手は主体「わたし」に含まれていて、逆に左手の関節を鳴らすとき、左手は客体として書かれ、右手は主体の一部となっている。
 この答えがはじめから「わたし」の中にあったから「わたし」はこの文体を採用したのだろうか? それともこの文体を採用したことが答えをこのように限定したのだろうか? どっちが原因でどっちが結果なのか?
 ”というようなわけで、テーマと文体、主体と客体、原因と結果、わたしとわたしの手の関節、すべてはよりわけ不可能なものとして認識されることになる。”
 
この『スプートニクの恋人』という文章において「マザとドウタ」というテーマがこの文章の書かれ方とよりわけ不可能であるように、そしてまた「レシヴァとパシヴァ」というテーマが私たち読者の読み方とよりわけ不可能であるように、すべてはひとつながりのものとして認識されることになる。

・衝突
 「わたし」は「知っている(と思っている)こと(=帰納した法則)」と「知らないこと(=その法則の不確かさ)」をそのまま仲良く持ちこんで物語世界を作り上げている。その結果、物語世界はその不確かさにおいても現実世界に酷似することになり、「わたし」(ドウタ)もまたその不確かさのもとに動き始めることになる。
 ”しかしもう一度シャム双子のたとえを使わせていただくなら、彼女たち【マザとドウタ】は常に仲むつまじいわけではない。常に互いを理解しようと努めているわけではない。むしろ逆のケースが多い。右手は左手のやろうとしてることを知らず、左手は右手のやろうとしていることを知らない。そのようにしてわたしたちは混乱し、見失い……そして何かに衝突する。どすん。”
 この引用の後半を、比喩を解除して書き直すと次のようになる。
 「マザはドウタのやろうとしていることを知らず、ドウタはマザのやろうとしていることを知らない。そのようにしてマザとドウタは混乱し、マザはドウタを見失い……そしてドウタはマザに衝突する、どすん。」
 マザがドウタを語ることをやめたとき、ドウタは自らの意思で動き始め、ときとして知らず知らずにマザと乖離する道を歩み(マザとドウタの絆はねじれて絡まり、にじみ出た血がシミとなる)、そして”ろくでもなく罰当たりな「衝突コース」”に入る。その道の先で再びマザに出会うとき、「わたし」(ドウタ)にとって「わたし」(マザ)はもう「わたし」ではなくなっている。二人はひとつになれなくなっている。二人の邂逅は衝突となり(どすん)、マザとドウタの絆は断ち切られ、その断裂の痛みが血となって流れ落ちる。
 
 マザとドウタの乖離と衝突。
 私たちはその現場を二度目撃している。
 ひとつはもちろん『ミュウと観覧車の話』の中で。
 その物語の中で、ミュウ(ドウタ)がフェルディナンドに好ましい印象を抱けないあたりから、マザとドウタの乖離が始まっている。絡まりはじめた絆から血がにじみ、それは不吉なしみ●●となって物語のあちこちに広がっていく。
 ”不吉なしみは広がっていく。そして彼女はそのしみから目をそらせることができなくなる。”
 そして、あの夜の観覧車の中で双眼鏡越しに、ミュウ(ドウタ)はミュウ(マザ)に衝突する(どすん)。
 衝突はミュウ(ドウタ)の腕と顔に少なからぬ擦過傷を残す。それに伴う脳震盪の影響で瞳孔が正常に反応しない。流された血はブラウスを染める。しかし、”彼女がどのようにして傷を負うことになったのか、誰にもわからない。” 誰もマザとドウタが衝突したのだとは夢にも思わない。そもそもそのような概念さえ持ち合わせていないのだから。

 もうひとつは、「ぼく」宛ての一通めの手紙の中で。
 ホテルの予約の手違いで「わたし」(ドウタ)とミュウがひとつの部屋で一夜をともにしたときのことだ。
 ”彼女と同じ部屋にいて、ベッドの中でそんなみだらな想像をしていると、だんだん自分がちがう場所に押し流されていくような気がしました。たぶんそんな風にコウフンしたせいだと思うのだけれど、予定していたよりもずっと早くその夜に生理が始まってしまって、わたしはえらい目にあいました。”
 『ミュウ』という物語の魅力に惹かれて、「わたし」(ドウタ)は「わたし」(マザ)とはちがう場所に押し流されそうになる。マザとドウタはわずかに乖離し、二人をひとつにつないでいる絆が交紛(コウフン、もつれるの意)したせいで、その絆に小さな傷ができて、そこからにじみ出た血は「わたし」(ドウタ)の下着を赤く染める。
 その血は、物語が書かれた便せんのうえにもわずかに痕跡を残している。
 ”最後の一枚の隅には、なにかのしみのようなもの(コーヒー?)がついていた。”

 では、そのように自らの内に物語世界を抱えながら(「知っている(と思っている)こと」と「知らないこと」を仲良く同居させながら)衝突を回避するためにはいったいどのような対応策をとればいいのだろう?
 ”その対応策とは――そう、そのとおり――思考することだ。言い換えれば、自分をどこかにしっかりとつなぎ止めておくことだ。”
 衝突に対する対応策は、思考すること――物語を語ること、語り続けること――だと「わたし」(ドウタ)は言う。
 「わたし」(マザ)が物語を語り続けて、その中の「わたし」(ドウタ)を「わたし」(マザ)にしっかりとつなぎ止めておきさえすれば、マザはドウタを見失うこともなく、またドウタも道に迷わずにすむ。
 先の手紙の場面で、「わたし」(ドウタ)が『ミュウ』という物語に押し流されそうになりながらも、実際に押し流されてばらばらにならずにすんだのは、そこが「わたし」(マザ)が書く手紙の中であり、マザがドウタを見失うことなくきちんと語り続けていたからだろう。

・夢
 では、まじめに思考することもせず――物語を語ることもせず――しかも衝突(どすん!)を免れるためには、いったいどうすればいいのだろう?
 その問に、”夢を見ることだ。夢を見続けること。夢の世界に入っていって、そのまま出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと。”と「わたし」(ドウタ)は答える。
 では夢とはいったいなんだろう?
 夢と現実、あるいは夢と一般的な物語の違いは、その法則性の有無にある。
 私たちの生きる現実世界は無数の法則によって成り立っている。だからこそ私たちはさまざまな経験の中から法則を見分け、その法則をもとに論理世界または物語世界を作り上げて、ものごとを考えようとする。
 しかし、誰しもが身をもって知っているとおり、夢にはそのような法則性がない。夢の中ではいとも簡単に重力が失われ、事物は変容する。人が撃たれても血は流れない。
 夢に法則を見出すとすれば、それ全体をひとつの法則と見なすしかないだろう。それ以上細かく分割することのできない、全体でひとつの法則として。
 ”夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん●●●●、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。”と「わたし」は言う。
 つまり夢とは、この現実やあるいはマザが自らのドウタを語る人生の物語のように、過去から未来に向かって法則に縛られながら自分の手で順々に紡いでいく物語ではなく、始まりから終わりまで全部きちんとそろっている一塊の完成品、ひとつの法則として誰かから与えられる物語なのだ。
 自ら危険を冒して物語を紡ぐのではなく、与えられた物語の中でその文脈に沿って生きていけば、”衝突はほとんど起こらないし、もし仮におこってもそこには痛みはない。”と「わたし」(ドウタ)は言う。

 さて、ここまで触れてこなかったが、「わたし」の文体にはひとつ、面白い特徴がある。それは同じ言葉を二回唱えて自分の文体をコントロールする、というものだ。
 「わたし」(ドウタ)が”単純に、単純に。”と唱えるとものごとは単純に描写され、”正確、正確。”と唱えると記述はその正確性を増し、”混沌、混沌。”と唱えると混沌とした物語論が語られはじめ、また後のほうでは「わたし」(マザ)が”水晶、水晶。”と唱えると、話は水晶のように論理的に整理されていく。
 そして、ここで「わたし」(ドウタ)が”現実、現実。”と唱えると、筆は再び現実世界の住人である「わたし」(マザ)へと引き渡されて、「わたし」(マザ)は銃撃と流血について語りはじめる。

・銃撃と流血
 『ワイルド・パンチ』という映画の中で大量の流血の描写がなされたことへの批判を受けて、アーネスト・ボーグナインはこう答えている。
 ”「いいですか、レディー、人が撃たれたら血は流れるものなんです」”と。
 人が撃たれたら血が流れる。
 これはこの現実世界を構成する重要な因果法則のひとつだ。
 そこに「人が撃たれる」という原因があれば、必然的に「血が流れる」という結果がもたらされる。銃撃と流血。
 そして、その映画が制作されたヴェトナム戦争まっさかりの時代にあっては、人々は直接間接問わずさまざまなかたちで今よりもとても身近にその法則を理解していたことだろう。
 銃撃と流血。
 分かちがたくある原因と結果を、分かちがたい因果法則として受け入れること。物語世界においても人が撃たれたなら、厭うことなくきちんと血を流すこと。
 それが重要な法則であればあるほど、きちんと物語世界に反映させること。
 ”おそらくはそれが現実の根本にあるものだ。”
 おそらくはそれが、物語におけるリアリティの根本にあるもの、物語がレシヴァにとってのほんものとなるための礎となるものなのだ、と「わたし」(マザ)は言う。
 では、「わたし」にとってもっとも重要な法則とはなんだろう?
 この上なく分かちがたく、この上なく厄介な法則とはなんだろう?
 それは、「「わたし」は思考するに際して、物語世界を生み出し、「わたし」(ドウタ)を生み出す」という法則、そして「「わたし」(ドウタ)が生まれたなら、同時に衝突のリスクも発生する」という法則だ。
 物語世界をほんものにするためには、これらの法則をも物語の中に持ちこまなければならないのだと「わたし」(マザ)は言う。
 それはつまり、「わたし」(マザ)が思考するに際して物語を語って「わたし」(ドウタ)を生み出すのであれば、「わたし」(ドウタ)もまた思考するに際して物語を語って「わたし」(ドウタのドウタ)を生み出すのでなければならず、わたし(ドウタのドウタ)もまた思考するに際して物語を語って「わたし」(ドウタのドウタのドウタ)を生み出すのでなければならない、ということであり、そしてさらに、「わたし」(マザ)が衝突を回避するために物語を語り続けるのであれば、「わたし」(ドウタ)も「わたし」(ドウタのドウタ)も「わたし」(ドウタのドウタのドウタも)……も衝突を回避するために物語を語り続けなければならない、ということだ。
 
 こうして、私たちの目の前に再び層状の物語が姿を現す。
 いわば、層状の「わたし」の物語だ。
 『スプートニクの恋人』の層状の物語と大きくちがう点は、この物語が下方向にどこまで続くのか誰にもわからないというところだろう。
 『スプートニクの恋人』にはミュウというストッパーがあったが、この物語はそういうものが見当たらない。
 では、層状の「わたし」の物語は下方向にどこまでも続くのか、「わたし」は下方向にどこまでもこの物語を書き続けなければならないのか、思考し続けなければならないのかというと、論理的にはそうはならない。
 「わたし」(マザ)の現実世界は無数の法則によって成り立っている。「わたし」(マザ)はその現実世界を構成する無数の法則の一部を理解しし、その法則をもとに物語世界を生み出す。言い換えれば、現実世界を「理解」(知っている法則)と「非理解」(それ以外)により分けて、「理解」をもとに物語世界を生み出す。それと同様にして「わたし」(ドウタ)もまたその物語世界を構成する法則を「理解」と「非理解」により分けて、「理解」をもとに物語内物語世界を生み出す。そして「わたし」(ドウタのドウタ)もまた……。というふうに「わたし」(マザ)の現実世界を構成する法則群に対して、それを「理解」と「非理解」により分ける操作を延々と繰り返していったらどうなるだろう?
 層が下に行けば行くほど「非理解」により分けられた法則の累積はどんどん増えていく一方で、物語世界を構成する「理解」はどこまでもその数を減らしていき、ついにはたったひとつの「理解」で構成される物語世界が生み出されることになるだろう。膨大な累積的「非理解」の海に浮かぶ、唯一の「理解」からなる物語だ。そのときそこで語られる物語は、それ以上分割することのできない、それ全体でひとつの「理解」(法則)であるような物語、すなわち夢となって、層状の「わたし」の物語の下方向への進展はひとまず終わりを迎えることになる。
 そうして生まれるのは、境界線のない、何も見分ける必要のない『わたし』という物語であり、すなわちそれ以上視点的ドウタを生み出すことのない最後のドウタとしての「わたし」だ。
 ”だからこそ、わたしは文章を書いてきた。わたしは日常的に思考し、思考し続けることの延長にある名もなき領域で夢を受胎する――非理解という宇宙的な圧倒的な羊水の中に浮かぶ、理解という名の眼のない胎児。”
 「わたし」(マザ)は思考するために、かつ、思考することで生み出された「わたし」(ドウタ)たちに対する道義的責任(衝突を回避する責任)を果たすために物語を書いてきた。
 そのために、下方向に層状にどこまでも重なっていって、その延長線上で夢となって終わる物語を書こうとしてきたのだ。

 そして、「わたし」(マザ)は今ふたたび、ものを考えている。考えるために物語を語り、「わたし」(ドウタ)を語っている。
 しかし、”毎度お馴染みの薄暗い疑念”が、そうやって自分の頭で思考しようとする「わたし」(マザ)をとらえる。
 「わたし」は、すでに『ミュウ』という潤沢な物語がある場所に重い水桶でせっせと余計な物語を運んでいるのではあるまいか? 「わたし」が思考することも、その結果無数の「わたし」(ドウタ)たちが生み出されることもまったく用をなさない行為なのではあるまいか?
 「わたし」は自ら物語を語るこの努力を放棄して、「わたし」に与えられた『ミュウ』という物語の流れにただただ身を身をまかせ、ちがう場所へと押し流されて、『ミュウ』という夢を見続けるべきなのではないだろうか? 『ミュウ』という夢の世界に入っていって、そこで永遠に生きていくべきなのではないだろうか?
 そうすれば誰も衝突の心配なんてする必要もなくなる。
 ”衝突? 衝突って何のこと?”と「わたし」(マザ)は言う。

 ”わたしはミュウのお尻の線が大好きだし、彼女の雪のように真っ白な髪が好きだ。”
 その「わたし」の心の隙をつくようにして、あのフィレンツェの夜と同じように『ミュウ』という物語の魅惑的な奔流がふたたび「わたし」を襲い、今度は「わたし」(マザ)をちがう場所へと押し流そうとする。
 ”そこの中にある同じように真っ黒なT字形の陰毛を私はとどめようもなく想像する。”
 しかし、「わたし」(マザ)はその文脈を拒絶する。
 ”でもそんなことを考えるのはもうよそう。断固としてやめよう。”とわたし(マザ)は言う。
 すでに今ここにある『ミュウ』という絶対的な物語に対して、「わたし」(マザ)が自らの物語を語ることが有効であるかどうかは「わたし」にはわからない。なぜならそれは結局、”どこか別の場所にいる誰か別の人”、すなわち物語を読むレシヴァが決定すべきことだからだ。
 ”そしてわたしは今のところそんな人に対して麦茶一杯ほどの興味だって持てないのだ。”と「わたし」(マザ)は言い、
 ”そうね?”と「わたし」(ドウタ)に問いかけて、
 ”そのとおり”という返事を聞いて、「わたし」(ドウタ)がそこにちゃんといることを確認してから
 ”だったら前に進もう。”と再び筆をとる。
 そして「わたし」(マザ)は夢を語り始める。

すみれの夢
 ”(この部分は三人称で記述する。その方がより正確であるように感じられるから)”とあるとおり、この『すみれの夢』は「わたし」(ドウタ)の視点から語られる一人称の物語ではなく、俯瞰的視点から語られる三人称物語の形式をとっている。
 つまり、この『すみれの夢』という物語の中で語られているのは「わたし」(ドウタ)ではなくすみれ●●●三人称ドウタ●●●●●●)なのだ。

 ここまで「わたし」(マザ)と筆を交えてきた「わたし」(ドウタ)はここで、すみれ(三人称ドウタ)に姿を変えて『すみれの夢』の中へと入っていく。

 夢とは、それ以上分割することのできない、それ全体でひとつの法則であるような物語だった。
 それでは、ここで語られるすみれの夢は、それ全体でいったいどのような法則を体現しているのだろう?

 ”わたしは日常的に思考し、思考し続けることの延長にある名もなき領域で夢を受胎する”と「わたし」が言っていたように、「わたし」にとっての夢とは、「わたし」が物語を語り続けた末にたどりつくべきひとつの終着点だ。
 それゆえ、その「わたし」が見た夢であるこの『すみれの夢』もまた物語の終わりを表している――つまり、『すみれの夢』はそれ全体で、「マザ(作家)が物語を書き終えるとき、マザは物語世界とその中のドウタをあとに残して物語を離れる。そしてそのマザなき物語世界に今度はレシヴァ(読者)が訪れる」という、いわば「脱稿→出版」の法則を表しているのだ。

 その『すみれの夢』の中で、すみれは母親に会うために長いらせん階段を上っていく。それは層状の物語世界を上へ上へと貫く階段で、その頂上ですみれを待っているのは、物語内の母親ではなく、現実世界に属する、この物語のマザ(作者)だ。
 すみれは時間に追われながら階段を上る。マザが物語を書き終え、物語世界をあとにする、その終わりの時間が迫りつつあるのだ。”すみれの額から汗が吹き出した。”
 すみれが階段を上りきると同時にその残り時間が尽きて、マザはなにか言葉を残して物語の外へと消えてしまう。
 マザの言葉はごうごうという風音にかき消されてすみれの耳には届かない。しかし、それはそもそも言葉という形ですみれの耳に届くたぐいのものではない。マザの口からドウタに向けて言葉の形で発されるもの――すなわち物語は、すでに物語世界に形を変えて、あるいはすみれ自身に形を変えて、すみれのもとに届いている。
 マザはそうやって物語をドウタに託して物語を去り、物語は完成する。
 完成した物語はレシヴァ(読者)へと引き渡され、ドウタ(書かれる登場人物)はパシヴァ(読まれる登場人物)へとその役割を変える。
 単行本や文庫本、今なら電子書籍など物語へのアクセスの容易さを反映して、レシヴァたちは”誰にでもつくれる一人乗りの簡単な飛行機”で物語の外の上空から物語世界へとやってくる。
 すみれは、そのレシヴァたちに向かって、自分をここから助け出してくれるように頼む。
 ここは物語の終わりで、物語世界はここで終わる。
 登場人物であるすみれが世界の終わりに呑まれないための手立ては、パシヴァとしてレシヴァとひとつになって物語世界から現実世界へと出て行く(読者に深く感情移入されて、物語が終わったあともその読者の心に宿り続ける)ほかにない。
 そして、そのためには自分がこの物語において感情移入するべきパシヴァであることをレシヴァに伝えなければならない。
 しかし、ここは三人称の物語だ。
 一人称の物語であればレシヴァは誰に感情移入すればいいのか迷う必要はない。一人称の物語においては、レシヴァはまず「ぼく」「わたし」などの一人称で指し示される視点的ドウタに感情移入し、「ぼく」「わたし」になりきることで、その視点から物語世界を開き、その景色を見渡すことになるからだ。
 しかし、皆が等しく三人称ドウタである三人称の物語ではそうはいかない。
 三人称の物語においては、その登場人物の行動や内面がことさらに詳しく描写されることによって、つまりその人物が読者に向けて丸裸にされることによって感情移入するべき主人公であることが示される。
 自分がこの三人称の物語の主人公であることを示すべく、すみれはここでは役に立たない「わたし」という匿名的なガウンを脱ぎ捨てて裸のすみれを衆目に晒す。”ガウンの下にはなにもつけていなかった。”
 感情移入すべき主人公を特定できたレシヴァたちは今度はその姿をとんぼに変えて、その巨大な球形の目に物語世界をくまなく映しはじめる。そうして物語をすみずみまで読みこんだレシヴァたちの感想、評論、批評が、すさまじい羽音となって物語の空に鳴り響く中、”すみれはその場にしゃがみこみ、目を閉じ、耳を塞いだ。”
 しかし、本物のすみれを見つけ出し、すみれとパシヴァとレシヴァとして深くひとつになる読者はいまだ現れない。

 夢はそこで終わるが、『すみれの夢』の物語はもう少しだけ続く。
 すみれとなった「わたし」(ドウタ)は夢から目を覚ますことで、その三人称ドウタのままこちら側に戻ってきて、『すみれの夢』は幕を下ろす。
 ”すみれはべッドの中で枕を激しく噛み、ひとしきり泣いた。”

床屋はもう穴を掘らない
 そして、床屋はもう穴を掘らない。
 『すみれの夢』を語り終わった「わたし」(マザ)は、穴を掘って下の層の「わたし」(ドウタ)に筆を渡すことをやめて、ここからは「わたし」(マザ)ひとりで語り始める。
 
・「わたし」の決意
 この夢を見たあとで、「わたし」(マザ)はミュウに自分が何を求めているかをはっきりと示すことを決意する。
 「わたし」がミュウに求めているものとは何か?
 それは、性欲という言葉で言い表される内容と同じものだ。
 ”わたしはミュウを抱き、彼女に抱かれたいと思う。【中略】そのためにはわたしはミュウと交わらなくてはならない。彼女の身体の内側まで入ってしまわなくてはならないのだ。彼女にわたしの身体の内側にまで入ってもらいたいのだ。貪欲なぬめぬめとした二匹の蛇のように。”

 『スプートニクの恋人』ではしばしば愛と性欲が対として語られている。
”この女性【ミュウ】はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きではあるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性【「ガールフレンド」】に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。”というふうに。
 『スプートニクの恋人』において、誰かを愛することは、その誰かを中心的ドウタとして自らの物語を語ることを意味していた。
 では、その対として語られる性欲とはいったいなんだろう?

 性欲とはなにか?
 かつてこれと同じ疑問を呈した者がひとりだけいた。
 言うまでもなく、「わたし」本人であるすみれだ。
”「実をいうとね、わたしには性欲というものがよく理解できないの」”と「わたし」は言っていた。もうずいぶん遠い昔のことに思える。
 性欲という側面から『スプートニクの恋人』を見ると、ここまでの物語は、性欲を理解できなかった「わたし」が思い人を得て、次第に性欲への理解を深めていく物語として読むことができる。
 私たちも、その「わたし」の足跡をたどって、性欲の成りたちみたいなものを探ってみよう。

 「わたし」がはじめて自分の性欲について語るのは、禁煙しはじめの頃、「ぼく」に真夜中の電話をかけてきたときのことだ。
”「そしてわたしは強く彼女に抱きしめられたいと望む。すべてをまかせてしまいたいと思う。もしそれが性欲じゃないと言うのなら、わたしの血管を流れているのはトマト・ジュースよ」”と「わたし」は言う。
 「わたし」がミュウに対して抱く性欲は、三つの段階に分かれている。
 ここで「わたし」が語る性欲は、その三つのうちでもっともマイルドな性欲、いわば受動的な性欲だ。
 それは、「わたし」が『ミュウ』という物語のレシヴァ(読者)となって『ミュウ』という物語に深く没入し、その世界に強く包まれたい、そして、その物語の中のパシヴァ(登場人物)とひとつになって『ミュウ』という物語の文脈の流れにその身をまかせてしまいたいと望む欲求であり、簡潔にいえば『ミュウ』という物語を読みたい!という欲求だ。

 二つめの性欲もやはり「ぼく」に向かって語られる。
 それは、引っ越しを終えたばかりの「わたし」の新居で、奇しくも「ぼく」が「わたし」に対する激しい性欲に襲われているときのことだ。
 ”わたしはずっと自分の手の中にあるものだけで満足して生きてきたし、それ以上にとくになにかを求めなかった。でも今、このたった今、わたしはミュウがほしいの。とても強く。わたしは彼女を手に入れたい。自分のものにしたい。”と「わたし」は言う。
 一つめの性欲が受動的な性欲なら、この二つめの性欲はその受動的な性欲の先にある能動的な性欲といえるだろう。
 『1Q84』で、天吾がふかえりの小説『空気さなぎ』を書き直したときのことを思い出してみよう。
 ふかえりのそのたどたどしい言葉で書かれた物語に深く引きこまれた天吾は、その物語の主人公の少女(パシヴァ)のレシヴァとなって、少女の目から物語世界を見渡し、それを自分の言葉に置き換えていった。
 その書き直しをふかえり(パシヴァ)は”「ホンをいっしょにかいた」”(1Q84  BOOK1)と言っている。
 受動的な性欲が、「わたし」がレシヴァとなり『ミュウ』という物語の中に深く入りこんで、その中のパシヴァとひとつになりたいと望むことであるなら、能動的な性欲は、『ミュウ』という物語の中の登場人物と「わたし」がパシヴァとレシヴァとしてひとつになり、そのパシヴァの視点からその物語世界を自分の言葉に置き換えていきたいという欲求であり、簡潔にいえば、『ミュウ』という物語を自分のものとして書き直したい!という欲求だ。

 そして、三つめの性欲はここ、文書1の中で語られる。
 ”わたしはミュウを抱き、彼女に抱かれたいと思う。【中略】そのためにはわたしはミュウと交わらなくてはならない。彼女の身体の内側まで入ってしまわなくてはならないのだ。彼女にわたしの身体の内側にまで入ってもらいたいのだ。貪欲なぬめぬめとした二匹の蛇のように。”と「わたし」は言う。
 一つめの性欲と二つめの性欲はいずれも、「わたし」(レシヴァ)が『ミュウ』という物語に入りたい、あるいは入って書き直したいという一方向的な態度だった。
 しかし、この文書1のラストで語られる性欲はもはや一方向にとどまっていない。
 「わたし」は『ミュウ』という物語の中に入って物語を書き直してしまわなくてはならないし、ミュウに『わたし』という物語の中に入って物語を書き直してもらいたいと「わたし」は言う。
 そして、この双方向の性欲こそが「わたし」がミュウに求めているものに他ならない。
 物語の終わりの夢を見て、「わたし」はこの双方向の性欲をミュウに示すことを決意した。
 「わたし」はその理由として、”そんなことを続けていたら、わたしは間断なく失われていくことだろう。すべての夜明けとすべての夕暮れが、わたしをひとかけらひとかけら奪っていくことだろう。そしてそのうちわたしという存在は流れに削り尽くされ、「なんにもなし」になってしまうことだろう。”と言い、もしミュウがわたしを受け入れなかったら、”血は流されなくてはならない。”と言う。
 「わたし」の言いようは、片思いの告白を前にした者のそれにしては、どうにも物々しく切羽詰まったものに感じられる。
 私たちは何かを見落としいるのだろうか?
 それとも、恋愛とは当人とってはそれほど切実なものだというだけのことなのだろうか?
 いずれにせよ、ここではまだ答えは出ない。
 今は一旦問を保留して、「わたし」の物語のその痕跡をさらに追ってみよう。

 文書1の終盤、先の決意を語っている途中で、「わたし」(マザ)は”水晶、水晶。”と唱えて、文体をドウタを必要とする物語的文体からドウタ不要の論理的文体へと切り替えたのち、”血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない。”という自身の決意を語り、
 ”そうよね?”と、最後にすみれ(ドウタ)に声をかけて、
 ”そのとおり。”とすみれ(ドウタ)が答えて、二人はこの文章の中と外に別れる。

 「わたし」(マザ)はこの文章の外側で、”この文章は自分自身にあてたメッセージだ。”と言い、最後に”ブーメラン、ブーメラン。”と唱えて筆を置く。
 文書1は実際にブーメランとなり、すみれ(ドウタ)を乗せたまま虚空に向けて力いっぱい投じられる。
 「わたし」(マザ)は文書1をフロッピー・ディスクに保存してパワーブックを閉じる。空はすでに白み、新しい太陽が山の端からむっくりと顔を出し始めている。夜が明けていつもの一日が――小さな島での四日めが――始まろうとしている。

 ブーメランが弧を描いて戻ってくる前に「わたし」(マザ)にはやらなくてはならないことがあり、私たちには読み解かなくてはならない謎がある。
 「わたし」(マザ)と私たちは簡単な朝食を作りにキッチンへとむかう。

2‐2‐3.猫にまつわる三つのエピソード

 その四日めの朝、「わたし」とミュウはいつものようにビーチでひと泳ぎしたあとで、港のカフェで英字新聞を読み、その新聞の記事をきっかけにして、猫にまつわる三つのエピソードについて――あるいは生まれながらのドウタである猫たちの三つの運命について――語りあう。

 ”「そのときはただの害のない思い出話だと思っていたんだけど、あとになってみると、そこで話されたことのすべてに意味があるような気がしてきた。」”と後日、ミュウは「ぼく」に語っている。
 ミュウの勘が告げるとおり、この三つのエピソードにはいずれもにとても示唆的な意味がこめられている。

 ひとつめエピソードは「わたし」が読み上げた新聞の記事だ。
 その記事にはアパートの一室で命を落とし、その遺体を飼い猫に食べられた老婦人のことが書かれていた。
 「わたし」とミュウは、飼い主を食べてしまった猫たちのその後の運命を知りたがるが、新聞の記事はそのことについては何も教えてくれない。
 記事にあるのは客観的事実の羅列にすぎず、そこに物語はない。物語がないから、わかるものはわかるし、わからないものはわからない。ただそれだけだ。
 ではなぜここには猫たちの物語がないのだろう?
 その理由は、その物語世界を開く者が――視点的ドウタが――もういないからだ。
 生前の老婦人は、夫を亡くして以降11年という歳月をその二間のアパートで猫たちを友として静かに暮らしてきた。そこには猫たちを愛する老婦人の姿があり、その愛を語る老婦人の物語があったはずだ。老婦人自身を視点的ドウタとして、猫たちを中心的ドウタとする『老婦人が猫たちを愛する物語』という名の一人称の物語が。
 しかし、一人称の物語はその視点的ドウタの死とともに終わりを告げる。
 老婦人が死んだそのときに、『老婦人が猫たちを愛する物語』もまた終わってしまったのだ。
 飼い主の遺体を食べてしまった猫たちの消息が語られないのは、その物語世界を開いていた視点的ドウタである老婦人がもういないからに他ならない。
 マザが語ることをやめても、物語はときとしてそれ自体の力で前に進み続ける。しかし、視点的ドウタが死んでしまったなら、そうはいかない。「唐突な大きな転換」でも起きないかぎり、物語はそこで終わることになる。

 ひとつめのエピソードは、「一人称の物語は視点的ドウタの死とともに終わる」ということを私たちに教えてくれている。

 ふたつめのエピソードは、ミュウが中学生のときに聞かされたカトリック講和の、猫と無人島に流れ着く話だ。
 その島にいるのはあなたと一匹の猫だけで、手元には十日分の乾パンと水しかない。
 ”さて、みなさんはどうしますか? 苦しいのはお互い様だからといって、その乏しい食べ物を猫にもわけてやりますか?”とシスターは問う。
 正答は「いいえ」で、その理由は”みなさんは神に選ばれた尊い存在であり、猫はそうではないから”だと言う。

 その意味するところは、ひとつめのエピソードを踏まえれば明らかだろう。
 もしここが私と一匹の猫と無人島からなる物語世界であったなら、その物語は私の視点から語られる物語でなけれならず、私はこの物語世界を開いている視点的ドウタでなければならない。
 物語世界を開く視点的ドウタであること、それこそが”神に選ばれた尊い存在”であることの意味だ。
 猫は中心的ドウタかもしれないし、補助的ドウタかもしれないが、しかしいずれにせよ、私が死んでしまえば物語はそこで終わる。そしてそのような物語とともにあるドウタたちにとって、物語の終わり、世界の終わりこそがもっとも忌避すべき事態なのだ。その事態を避けるためには、なんとしてでも視点的ドウタを生き永らえさせなければならない。たとえ視点的ドウタが中心的ドウタを食べるはめになったとしても。
 ”「それって、最後には猫を食べちゃってもいいということよね?」”と「わたし」はミュウにたずねて、”「さあ、どうかしら。そこまでは言わなかったけれど」”とミュウは答える。

 二つめのエピソードは、「物語世界を護るために視点的ドウタはなんとしてでも生き延びなくてはいけない」ということを教えてくれる。

 三つめのエピソードは、「わたし」の奇妙な思い出だ。
 「わたし」が小学二年生の頃のある夕方、家で飼っていた子猫が「わたし」の見ている前で庭の松の木を駆けあがって、そのまま消えてしまう。
 「わたし」はその松の木を見るたびに、この悲しい記憶を思い出しては子猫のことを想い、その不在に胸を痛めてきた。

 このエピソードのポイントは二つある。
 ひとつは、なぜ子猫は物語の中から消えることができたのか? という点であり、もうひとつは消えた子猫のその行き先だ。

 では、ひとつめのポイントから考えてみよう。
 なぜ子猫は物語の中から消えることができたのか?
 ひとつの答えは、「子猫がこの物語の視点的ドウタではないから」だ。
 この思い出の物語は小学二年生くらいの「わたし」を視点的ドウタとし、子猫を中心的ドウタとする物語、つまり『わたしが子猫を愛する物語』だ。この物語の中から視点的ドウタである「わたし」が消えてしまったら、その時点でこの物語世界もテレビの電源を落とすように消えてしまうことになるが、視点的ドウタでさえなければ、たとえ中心的ドウタであっても物語の中から消えることは可能なのだ。
 では、もし仮に「わたし」が子猫のあとを追って松の木をよじ登り、そこから子猫と一緒にどこかの異世界へと渡っていったとしたら、「わたし」と子猫は無事物語の中から消えることができただろうか?
 いや、そうはならないだろう。
 視点的ドウタである「わたし」が子猫のあとを追って異世界へと渡ったなら、「わたし」とともに物語を語る視点もまた異世界へと移動し、その異世界を新たな舞台として、『わたしが子猫を愛する物語』の続きが語られるだけだ。その場合、「わたし」だけでなく、子猫もまた物語の中から消えそこなうことになる。

 子猫が物語の中から消えることができたのは、子猫が視点的ドウタではなく、かつ、視点的ドウタである「わたし」が子猫のあとを追わなかったから、ということになる。

 次に二つめのポイント、「消えた子猫の行き先」を検討してみよう。
 子猫は庭の大きな松の木の遥か上の枝までのぼり、そして二度と戻ってこなかった。そのことを「わたし」は”猫はそのまま消えてしまったの。まるで煙みたいに●●●●●●●●。”と表現している。
 「なんとかと煙は高い所へのぼる」ということわざにもあるとおり、煙は上へ上へとのぼっていく。子猫が大きな松の木の遥か上の枝までのぼり、そこからさらに煙のように上へ上へとのぼって消えたのだとしたら、その消えた先を追うことは、私たちにとってはさほど難しいことではない。
 語られる者・ドウタがいる層(物語世界)の上には、語る者・マザがいる層(現実世界)があるように、読まれる者・パシヴァがいる層(物語世界)の上には、読む者・レシヴァがいる層(現実世界)がある。そして、それが思い出の物語であるなら、思い出される者・パシヴァがいる層(物語世界)の上には、思い出す者・レシヴァがいる層(現実世界)がある。
 ”わたしは松の木を見るたびに、高い枝にしがみついたまま、固くなって死んでいる可哀想な子猫のことを想像した。”と言っているように、「わたし」は子猫がいなくなって以来、何度となくこの子猫の物語を思い出しては、その子猫に深く感情移入し、子猫の不在に胸を痛めてきた。
 別の言い方をすれば、「わたし」(レシヴァ)はその心に子猫を失った空白を抱えたまま、この物語の中の子猫(パシヴァ)にくりかえし深く感情移入して、幾度もレシヴァとパシヴァとしてひとつにつながってきた、ということだ。
 そして、そのレシヴァとパシヴァのつながりこそが子猫の脱出経路となる。
 思い出すたびに強くなっていく、そのレシヴァとパシヴァのつながりを通路として、(『1Q84』BOOK3のラストで天吾と青豆が私たちの心の空白に宿ったように)子猫は層の境を踏み越えて、子猫の不在を憂う「わたし」の心の空白に宿ったのだ。

 まとめると、
・子猫は松の木をのぼって煙のように上方向へ消えた。
・その消えた先は、子猫が消えたことに胸を痛める「わたし」の、その心の空白である。
 ということになる。
 因果関係が入り乱れていて、子猫がかなりアクロバティックな冒険をしている様子が見てとれる。

 三つめのエピソードが教えてくれるのは、「視点的ドウタでさえなければドウタは物語の中から消えることができる、ただし視点的ドウタがそのあとを追わなければ」ということと、「ドウタが物語の中から煙のように消える●●●●●●●●とき、そのドウタはパシヴァとなって現実世界のレシヴァの心に宿っている」ということだ。

 あとから来る者のために親切心に欠けるヒントを残して、「わたし」の冒険はいよいよ佳境へと入る。

2‐2‐4.そして「わたし」はすみれになる

 「わたし」とミュウは買い物をしてコテージに戻り、夕食の時間までそれぞれの時間を過ごす。
 ミュウは居間のソファでブラームスのバラードに耳を傾け、「わたし」は自分の部屋でパワーブックを開き『ミュウの観覧車の話』を仕上げにかかる。重ね合わせの状態あったミュウ(マザ|ドウタ)をミュウ(ドウタ)へと収束させたあの物語だ。
 その物語の箱をあけた結果、『すみれがミュウ(ドウタ)を愛する物語』はここまで進展し、『すみれがミュウ(マザ)を愛する物語』は今もあのブルゴーニュの夜に留まり続けている。

 執筆の途中で夕食の時間となり、「わたし」は一旦筆を置く。
 食後に滞在期間の話が出て、”「あと一週間くらいはここでのんびりしていたいけれど、それが限度ね」” ”「わたしとしてはいつまでもこうしていたいけれど」”とミュウが言う。

 ”「わたしとしても●●●●●●●もちろん」”と言って、「わたし」はにっこりと笑う。”「でも仕方ないわね。すてきなことはみんないつか終わるもの」”

 それが、すみれが「わたし●●●として●●●――視点的ドウタとして――ミュウの前に立つ最後のシーンとなる。

 「わたし」とミュウはいつものように、10時前にそれぞれの部屋に引きあげて、「わたし」は再びパワーブックを開く。およそ二時間ほどで『ミュウと観覧車の話』を書き上げる。
 その物語の最後に、「わたし」はひとつの疑問を記す。
 ”それから、疑問がひとつある。もし今ミュウがいるこちら側が、本来の実像の世界ではないのだとしたなら(つまりこちら側が向こう側だったとしたら)、そこにこうして同時的に密接に含まれ、存在しているこのわたしとは、いったいなにものなのだろう?”

 もし今「わたし」とともにいるミュウがマザではなく、そのミュウがいるこちら側が現実世界ではないのだとしたなら(つまりここにいるミュウがドウタで、こちら側が物語世界なのだとしたら)、そこにこうして同時的に密接に含まれ、存在しているこの「わたし」とはいったいなにものなのだろう?

 答えは明らかで、ミュウがドウタであり、ここが物語世界であるならば、この世界の住人である「わたし」もまたドウタでなければならない。
 「わたし」もそのことは問うまでもなく熟知している。
 「わたし」は、問を考えるためではなく、その答えをあらためて自覚するために、その疑問をここに記す。
 「わたし」もまたドウタなのだ。
 ”「でも仕方ないわね。すてきなことはみんないつか終わるもの」”とミュウに告げた「わたし」(マザ)もまた、いつ終わるとも知れぬ物語の、その物語の終わりを恐れるひとりのドウタなのだ。

 「わたし」はその文章に文書2と名前をつけてフロッピー・ディスクに保存し、そのとなりにある文書1のファイルを開く。
 そうして、ドウタとしての自覚を新たにした「わたし」の手の中に、あのブーメランがもどってくる。

 ”帰ってきたブーメランは、投げられたブーメランと同じものではない”

 文書1という文章は「わたし」が書いたブーメランとして投げられ、「わたし」の読むべき文章として帰ってくる。
 「わたし」(マザ)はひとりの読者として、レシヴァとして、いま文書1に目を落とす。

 ドウタとして物語の終わりを恐れる「わたし」(マザ)はその恐れゆえに、文書1の中に取り残されていたひとりのドウタに深く感情移入することになる。『すみれの夢』の中で、物語の終わりの場所ににひとりうずくまる三人称ドウタのすみれに、深く感情移入する。
 文書1を書き上げたときに二手に分かれた「わたし」(マザ)とすみれ(三人称ドウタ)はここでレシヴァとパシヴァとしてひとつにつながる。
 そのつながりを通路として、すみれはこちら側に渡り、「わたし」の心にすみれが宿る。
 そして、「わたし」は、この上なく危険な賭けに出る。
 「わたし」はすみれになる。
 視点的ドウタであった「わたし」は視点的ドウタであることをやめ、三人称ドウタのすみれとなるのだ。
 視点的ドウタを失った一人称の物語がどうなるかは、老婦人と猫のエピソードが教えてくれていた。

 そう、視点的ドウタを失った物語はそこで終わるのだ。

 「わたし」がすみれへと変わりゆくそのそばから、『すみれがミュウを愛する物語』はその中心であるミュウへと向けて急速に収縮していく。虚無の闇が音もなく世界をその辺縁から呑みこんでいく。
 夜の暗い海が消え、港が消え、寝静まった町が消える。海岸に打ち寄せる穏やかな波が消え、港や町に居つく猫や犬たちが消え、そこにあった人々の営みが消え、小さな島が消える。
 ”あたりは息苦しいまでの沈黙に包まれていた。人の声もなく、吠える犬もいない。寄せる波も、吹く風もない。”
 虚無は、丘の上のコテージにも忍びこみ、かつて視点的ドウタであったものの輪郭を闇に溶かし、そして、その中心にいるミュウへとその手を伸ばす。
 目と鼻の先に迫った消滅の危機に際し、心臓の鼓動が警鐘を鳴らしてミュウを揺さぶり起こす。ミュウは何が起きているのかわからぬままに、かつて視点的ドウタであったそのもの●●●●の気配におびえながら、消え残った窓のカーテンを数センチ引いて、月光を部屋の中に招き入れる。
 消えゆく物語の外に広がる虚無の闇、その一番高いところに浮かぶ月。
 その誰かの俯瞰視点のメタファーとしての月光が、今まさに閉じようとしていた物語世界を押しとどめて、かろうじて残されたコテージ一軒分の物語は視点的ドウタを欠いたまま、あたかも三人称の物語であるかのように進みはじめる。
 輪郭を失い、半ば闇に溶けていたそのもの●●●●は、視点的ドウタがわりの月の明かりに晒されて、少しずつすみれとしての輪郭を取り戻し、マザがわりのミュウによく面倒をみられて少しずつすみれとしての意識を取り戻していく。
 しかし、そのすみれの様子はこれまでの「わたし」とは明らかに違い、彼女の旧里キュウリである『すみれの夢』の文脈を色濃く引きずっている。
 ミュウの見つけたすみれは、あの夢のラストですみれがしゃがみこんで目を閉じ耳を塞いでいたように、今も頭を脚のあいだに入れて丸まっていて、あの夢から覚めたあとベッドの中で枕を激しく噛んでいたように、今もその口にハンドタオルを強く噛みしめている。あの夢の中で長い階段をのぼって噴き出した汗のせいで、前髪は濡れて額に張りつき、あの夢の中ではガウンの下になにもつけていなかったように、ここでもパジャマの下には下着をつけていない。
 意識を回復したすみれは”「ごめんなさい。たまにこうなることがあるの」”とミュウに言う。その声は、通り過ぎていく飛行士たちに大きな声で助けを求めたあとのようにかすれている。

 ……たまにこうなることがある?
 私たちはすみれの言葉に小首をかしげる。
 「こうなる」とはどうなることだろう?
 正体を失ってハンドタオルを噛みしめてうずくまることだろうか?
 いや、それらはすべて「わたし」とすみれがレシヴァとパシヴァとしてひとつになった結果だった。
 つまり「こうなる」とは「レシヴァとしてパシヴァとひとつなる」ことであり、すみれは「たまに物語の登場人物に深く感情移入しすぎて、その登場人物を心に宿し、その登場人物となって行動してしまうことがあるの」と言っているのだ。
 その言葉で、私たちはようやく「ぼく」の勘違いに気がつく。
 ”どうしたらケルアックの小説の登場人物のみたいにワイルドでクールで過剰になれるだろうと、すみれは真剣に思い悩んでいた。両手をポケットにつっこみ、髪をわざとくしゃくしゃにして、視力はとくに悪くなかったのにディジー・ガレスピーみたいなセルロイドの黒縁の眼鏡をかけ、むなしく空をにらんでいた。だいたいいつも古着屋で買ってきたようなぶかぶかのツィードのジャケットを着て、ごついワークブーツを履いていた。もし顔のどこかに髭をはやせるものなら、きっとはやしていたはずだ。”と「ぼく」は書いているが、そうではなかったのだ。
 すみれがケルアックのような登場人物になりたいと思っていたのではなく、すみれの心に宿ったケルアックの登場人物が普段どおり行動していただけのことだったのだ。彼はいつもどおりに両手をポケットにつっこみ、髪をくしゃくしゃにして、セルロイドの黒縁の眼鏡をかけ、ぶかぶかのツィードのジャケットを着て、ごついワークブーツを履き、むなしく空をにらんでいただけだったのだ、ただしすみれの身体で。
 そして、それゆえに、どうしてこの顔にはどこにも髭がはえないのだろう? と真剣に思い悩んでいたにちがいない。

 ミュウに介抱されてようやくひとりの三人称ドウタとして動けるようになったすみれは、文書1で「わたし」(マザ)が抱いた決意を実行に移す。自分の求めていることを、その性欲を、ミュウにはっきりと示そうとする。ひとりのレシヴァとして、『ミュウ』という物語世界に深く入りこもうとする。
 が、その試みは失敗に終わる。
 今すみれが身体を寄せているミュウは、マザとはぐれて半分になってしまったドウタであり、そこに『ミュウ』という物語世界は存在しない。ただ硬く乾いた論理世界があるだけだ。

 その失敗は、十分に予測されていたひとつの結論をすみれに示す。
 ここが層状に下へ下へと進み続けてきた物語の行き止まりであり、この物語はもはや前にも下にも進むことはできないのだというその結論を。

 ”もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?
 そうしたらわたしは事実をあらためて吞み込むしかないだろう。
 「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんです」”

 この『スプートニクの恋人』において、血はマザとドウタの絆が断たれるとき、その痛みのメタファーとして流れるのだった。
 そして、私たちはマザとドウタの絆が断たれるシーンとしての二つのパターンを目の当たりにしてきた。ひとつはもちろん「衝突」であり、もうひとつは「物語の終わり」だ。
 マザが物語を書き終えるとき、マザはドウタとの絆を断って、物語を離れなければならない。

「いいですか、レディー、もしあなたが物語を語り始めたなら、あなたはいつかその物語を語り終えなければならず、そのときあなたはその手でマザとドウタの絆を断ち切らなければならないのです。」

 すみれは、その事実をあらためて呑みこむ。
 進むことのできない物語は、そこで終わらせなければならない。
 すみれはここでこの物語を書き終えることを、決意する。

 ”それから長いあいだ、すみれは枕に顔を埋めて、まるで堰が切れたみたいに泣いていた。”

 すみれは、長いあいだ枕に顔を埋めて、涙を流しながら、その内なる物語世界で、三人称ドウタではなく、ひとりのマザとして、時間をかけて何かを紡ぎあげていく。
 そして、そのときが訪れる。
 すみれは自分の部屋に戻る直前に、身をかがめてミュウの頬に頬をつけて、その耳元で何かをささやく。言葉というかたちでミュウの耳に届くことのない何かを。
 ミュウはそれを”とても小さな声だったので、わたしには聞き取れなかった”と理解するが、私たちはそうではないことをすでに知っている。
 それは『すみれの夢』に登場した塔の上のマザがすみれにしたのと同じ仕草だ。
 マザの口から言葉として語られ、世界それ自体としてドウタに与えられるもの――すなわち物語を、物語を書き終えたマザが物語の中のドウタに託す、その仕草だ。
 すみれは書き上がった『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』をひそかにミュウに託し、部屋をあとにする。

2‐2‐5.唐突な大きな転換の意味とその実現

 ミュウに『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』を託したすみれは、自分の部屋に戻ってパワーブックを立ち上げ、数時間前に書き上げたばかりの文書2のファイルを開く。
 そこに記された『ミュウの観覧車の話』を読み、その物語に深く深く没入していく。
 ミュウに自分の性欲を示し、そのうえで受け入れられなかったすみれは、その物語の中で、自分の成しえなかったことを成している人物に、ミュウ(マザ)と深く交わるフェルディナンドに、深く感情移入していく。
 そのすみれ特有の深い感情移入によって、すみれとフェルディナンド、ひとつの物語世界ともうひとつの物語世界のあいだに渡り廊下みたいな一本の通路が渡される。すみれは、ありきたりの壁につけられたごく当たり前のドアを見つけ、そのノブを回し、薄いパジャマとビーチ・サンダルというかっこうで、こちら側からあちら側に通路を渡る。『すみれがミュウを愛する物語』を出て『ミュウの観覧車の話』の中へ入っていって、そこでフェルディナンドとレシヴァとパシヴァとしてほんとうに●●●●●ひとつになる。

 ミュウ(マザ)と深く交わるフェルディナンドについて、”そして最後にはそれはフェルディナンドですらなくなってしまう。”とミュウ(ドウタ)は言っていた。
 ”フェルディナンドですらなくなってしまう? わたしはミュウの顔を見つめる。フェルディナンドですらないとしたら、それはいったい誰になるの?
 わたしにはわからない。わたしには思い出せない。でもとにかくそれは最後にはフェルディナンドではなくなっている。あるいはそれは最初からフェルディナンドではなかったのかもしれない。”

 それはいつのまにかすみれになっている●●●●●●●●●●●●●●●●●●
 あるいはそれは最初からすみれだったのかもしれない●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

 『ミュウの観覧車の話』にはひとつの空白がある。
 ミュウ(マザ)が自分の身体のすべての部分を惜しげもなくフェルディナンドの前に開き、彼がその身体の隅から隅まで愛撫する、その先のミュウ(ドウタ)の記憶が途絶えている部分だ。ただ、その空白について記憶にはないけどわかっていることもある。
 ”彼は、そのフェルディナンドは、あっち側のわたしに対してあらゆることをした。”とミュウ(ドウタ)は言っていた。
 フェルディナンドは、いや、すみれは、ミュウ(マザ)に対してあらゆることをしたのだ。
 この物語世界において性欲とは、
1.レシヴァとして相手の物語に深く入りこむこと
2.そのうえで相手の物語を自分の物語として書き直すこと
3.相手にもレシヴァとして『自分』という物語に対して1、2を実行してもらうこと
を望むことだった。
 では、すみれはいったい何をしたのだろう?
 すみれはミュウ(マザ)に対してあらゆることをしたのだとミュウ(ドウタ)は言う。
 そのミュウ(ドウタ)の言葉どおり、上記の1,2,3のすべてを、いやそれ以上のことを、すみれはミュウ(マザ)に対してやってのけたのだ。

 すみれはレシヴァとして、ミュウ(マザ)の物語の奥深くに入りこみ、その物語を自分のものとして書き直すにとどまらず、そこに本来ありえない物語を書き加える。
 その観覧車の夜から14年後の未来の物語を、ついさっき書き上げたばかりの『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』を、ミュウ(マザ)の物語に書き加え、そのうえで、ミュウ(マザ)にレシヴァとしてその書き加えられた物語の中に入ってくることを、さらにはその物語をミュウ(マザ)の物語として書き直すことを求める。
 そして、ミュウ(ドウタ)の言葉を借りるなら”あちら側のわたしは自分が汚されていることに気がつきもしないみたい”に、ミュウ(マザ)はすみれの求めに応える。

 その結果、なにが起きるだろう?

 ミュウ(マザ)はレシヴァとして『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』に入りこみ、その物語の中心的ドウタであるミュウ(ドウタ)とパシヴァとレシヴァとしてひとつになって、ミュウ(ドウタ)の視点から『すみれがミュウを愛する物語』を自分の物語として書き直していく。

 そして、すべては転倒する。

 『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』において三人称の中心的ドウタであったミュウは一人称の視点的ドウタの「わたし」(ミュウ)となり、一人称の視点的ドウタであった「わたし」(すみれ)と三人称ドウタであったすみれはいずれも等しく三人称の中心的ドウタのすみれとなって、「わたし」(ミュウ)はすみれを中心とした物語を語り始める。

 そうして、人称のねじれは、ねじれた箇所をもとに戻すのではなく、ねじれる前の箇所までも一様に反転させることで解消されて、『すみれがミュウを愛する物語(人称のねじれあり)』は、ミュウ(ドウタ)を視点的ドウタとしてすみれを中心的ドウタとする『ミュウがすみれを愛する物語』として書き直されることになる。

 天動説が地動説に取って代わられるように、中心であったものは円周となり、円周であったものは中心となって、「ぼく」が夢見て叶うことのなかった”唐突な大きな転換”が、文字通りのコペルニクス的転回が、ここにもたらされるのだ。

2‐2‐6.ミュウ(マザ)の物語

 そして今、あのブルゴーニュの夜に留まり続けていたもうひとつの物語がようやく動き出す。
 客待ちをしていた座席にしかるべき客が乗りこみ、タクシーは客の指示どおりのルートに沿って音もなく走り抜けていく。
 『ミュウがすみれを愛する物語』を搭載したミュウ(マザ)の物語は、その真新しい物語のストーリーを丁寧になぞってギリシャの小さな島に渡り、そして、すみれが部屋を出て行ってから不思議なくらいぐっすりと眠りこんでしまったミュウ(ドウタ)のシーンにたどりつく。

 物語の内側ですみれから物語を託されたミュウ(ドウタ)と、物語の外側ですみれから物語を託されたミュウ(マザ)は、ここでこの託された物語を介して、マザとドウタの関係に限りなく近しいレシヴァとパシヴァとしてひとつになる。
 失われていたマザとドウタの絆が、ここにかりそめに結ばれる。
 マザとドウタ、ともに積もったばかりの雪のように真っ白だった髪は元の黒髪にもどり、ともに失われて久しい内なる物語世界が再びここに開かれる。
 翌朝目を覚ましたミュウは、その内なる物語世界の存在を示すように、そのできたてほやほやの想像力の翼をささやかに広げて見せる。
 ”朝の七時に目が覚めたとき、すみれの姿は家の中のどこにもなかった。たぶん朝早く目を覚まして(あるいはまったく眠らなかったのかもしれない●●●●●●けれど)、一人でビーチに出かけたのだろうとわたしは想像した●●●●。しばらく一人になりたいと言っていたから、置手紙の一枚もないというのはちょっと妙な気がしたけれど、でもまあ昨夜のことがあって気持ちが混乱しているのだろう●●●と。”(傍点引用者)

 そうして『ミュウがすみれを愛する物語』を介してひとつになったミュウ(マザ)とミュウ(ドウタ)は、すみれのいなくなったあとのこの物語世界で、すみれの残していったストーリーをたどって、K(「ぼく」)を電話でこの小さな島に呼ぶシーンへといたり、すみれの願いを叶えるべく、本来不可能な電話を試みる。

”ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる”

 『1Q84』の冒頭を飾るそのペーパームーンの歌詞にもあるとおり、物語はマザが語るだけでは、ドウタがそこにいるだけでは、本物にはならない。
 誰かがその物語に耳を傾けて、レシヴァとしてパシヴァとひとつになって、そこに生命の息吹を分け与えないことには、そこに世界は生まれない。

 ミュウは、このすみれが書き上げた物語を本物にするべく、この奇妙な物語を”深いところでそのまま受け入れることができる人”を、すなわち「ぼく」を、読者(レシヴァ)としてこの物語の中にいざなう。
 ミュウに導かれて『ミュウがすみれを愛する物語』の中に入った「ぼく」は、その物語の中にKという名で描写されている「ぼく」自身のレシヴァになって、この物語を今度はKの視点から書き直していく。
 つまり『スプートニクの恋人』の中編として記載されいている物語は、すみれが書き上げた『すみれがミュウを愛する物語』をミュウがミュウの視点から『ミュウがすみれを愛する物語』として書き直したものを、さらに「ぼく」がKの視点から書き直したものなのだ。

 私たちの追ってきたすみれの「わたし」は、いつしか一人称のバトンとなり、すみれからミュウへ受け継がれ、そして今、ミュウから「ぼく」へと引き渡された。
 私たちもそのバトンとともに、再び「ぼく」の物語の、ミュウからの電話のシーンへと戻るとしよう。

 「ぼく」の目を介して、すみれが書き上げた物語の続きをその終わりまで、読み進めてみよう。

2‐3.「ぼく」の冒険

2‐3‐1.深夜の電話、再び

 かくして、深夜の二時に「ぼく」の枕もとの電話が鳴る。
 それは先だって私が考えたような、物語の層の境を下から上へまたいでの電話ではなく、その境界を接してさえいないまったく別の物語からの電話だった。
 電話がつながる際に”ちがった種類の空気を無理にこすり合わせるような”――異なる二つの物語世界を無理につなぎ合わせるような――”激しい雑音がひとしきり”続く。
 そのかろうじてつながっているだけの、いつ切れるとも知れない不安定な電話口で、ミュウは早口に用件を告げて、一刻も早くここ●●に来るよう「ぼく」に請う。
 「ぼく」はその内容をメモ用紙にまとめる。
 ”(1)すみれになにかが起こった。しかしなにが起こったのかはミュウにもわからない●●●●●
 (2)ぼくは一刻も早くそこに行かなくてはならない。すみれもそれを求めていると(ミュウは)思っている●●●●●。”
 
先にも述べたとおり、「わからない」は知っていることはわかるし、知らないことはわからないという論理的思考に基づく、物語世界を持たぬ者(半分になってしまった者)にも可能な言葉遣いであり、「思っている」は知らないことを想像できる物語的思考に基づく、物語世界を持つ者にのみ可能な言葉遣いだ。
 
長い回り道をしてきた私たちは、ミュウが「思っている」と言うその背景を知っているが、「ぼく」には見当もつかない。
 マザかドウタいずれか半分であるはずのミュウの、その両義的な言葉遣いに「ぼく」は事態の異様を察する。ミュウを語るすみれの身に何か想像もつかないようなことが起きたことを悟り、ミュウの要請を即諾して、住み慣れた『ぼくがすみれを愛する物語』を離れて『ミュウがすみれを愛する物語』の中へと向かう。(図6)

図6

2‐3‐2.はりぼてに戻る世界と本物になる世界

 物語のリアリティは、私たちがその物語を夢中で読み、その物語世界に没頭しているときにこそ存分に発揮されるが、本を閉じて現実に引き戻されると、とたんにそのリアリティはなりをひそめ、物語の虚構性がそれに取って代わることになる。
 それは「ぼく」にしても同じことで、『ぼくがすみれを愛する物語』を離れる直前の空港で、「ぼく」は今まで現実だと信じていた世界のリアリティの喪失を体感する。
 「ぼく」は夢うつつのラウンジで”世界は現実性の核を喪失していた。色は不自然で、細部はぎこちなかった。背景ははりぼてで、星は銀紙でできていた”と感じ、”多くの旅行者が行き交う空港のざわめきの中にいると、ぼくとすみれが共有した世界はみすぼらしくて無力で、正確さを欠いたものに思えた”と言う。
 "It's Only a Paper Moon"の歌詞を逆にたどるように、世界はその虚構性をあらわにしていく。

 その無力感は「ぼく」が物語から物語へと移動するあいだ中、ずっと「ぼく」を捉えつづけて、「ぼく」がひとりのレシヴァとして新たな物語の中へ入るとともに薄らぎ消えていく。
 そして「ぼく」はすみれが書き上げ、ミュウが書き直した物語の中のひとりの登場人物Kとパシヴァとレシヴァとしてひとつになり、物語の深奥へと分け入っていく。

 「ぼく」はまず”ミュウは美しい女だった”という描写を明白で単純な事実として受け入れ、それを皮切りにミュウの語るすみれの物語と、ミュウをとりまくこの小さな島の世界を、この”改変を許さない他人の夢の流れ”を、少しずつ現実のものとして受け入れはじめる。

 ここは『スプートニクの恋人』という物語の中で、「ぼく」はただ一人の神に選ばれた尊い存在、すなわち視点的ドウタだ。
 「ぼく」が信じることで、すべては本物になっていく。

 ミュウは丘の上の小ぶりなコテージで、二人がこの島を訪れるに至った経緯を語り、島での二人の日常を語り、そして四日めの午後に交わされた猫にまつわる三つのエピソードを語る。
 その日の夜の叶わぬ密事を語り、すみれがいなくなったことを語り、そして、それから今に至るまでの捜索の推移を語る。
 つまり、「ぼく」とミュウが今まさにその真っただ中にいるこの『ミュウがすみれを愛する物語』の、ここまでのあらすじを「ぼく」に語る。
 ここから先は、ミュウ(マザ)もミュウ(ドウタ)も私たちも未読の領域だ。最悪の場合、物語は最後まで書かれることなく途中で投げ出されている可能性だってあるかもしれない。
 ここまでのあらすじを語り終えたあとで、ミュウはその不安を”「すみれが、つまり……どこかで自殺をしたとは考えられない?」”という言葉で表現して、それに「ぼく」はこう答える。
 ”「もちろん自殺をする可能性がまったくないとは言いきれません。でももしここですみれが自殺しようと決心したとしたら、必ずメッセージを残します。こんな風にすべてを放ったらかしにして、あなたに迷惑をかけるようなことはしません。彼女はあなたのことが好きなんだし、まずだいいちに、あとに残されるあなたの気持ちや立場のことを考えます」”
 つまり、すみれが自らの意思でこの物語の中から消えたのだとしたら、すみれはミュウへの愛とマザとしてのドウタに対する道義的責任の両方にもとづいて、ミュウのためにきちんと物語の続きを残していったはずだと「ぼく」は言い、”「ありがとう。それがいちばん聞きたかったことなの」”とミュウは安堵の表情をのぞかせる。

2‐3‐3.すみれの跡を追う「ぼく」とその影に潜むもの

 ミュウの話を聞いた翌朝から、「ぼく」は二つの作業を同時並行で遂行していく。
 ひとつはレシヴァとしての作業だ。
 「ぼく」は『ミュウがすみれを愛する物語』の登場人物のKとひとつになって、そこに描かれたとおりにすみれとミュウの足跡をたどってこの小さな島をめぐる。
 山向こうのビーチに行ってひと泳ぎし、ミュウとすみれがそうしたように裸のまま砂浜に寝ころぶ。
 太陽の熾烈な暑さを肌に感じながらコテージに戻り、そこですみれの残した二つの文書を見つけ、それから港に降りてカフェのテーブルで英字新聞を読む。
 『ミュウがすみれを愛する物語』の物語世界は、「ぼく」の視点から「ぼく」の言葉で書き直されることで「ぼく」にとっての現実世界に変わっていく。
 そうすることで、「ぼく」はすみれが書き上げた物語を、この『スプートニクの恋人』の中のほんとうのことにしていく。

 もうひとつは「ぼく」(マザ)の語るドウタとしての作業だ。
 「ぼく」はシャーロック・ホームズのように、その頭脳の屋根裏部屋ですみれの行方を懸命に追っていく。
 しかし、ここはもともとすみれの書き上げた物語の世界で、ここでは「ぼく」はその物語の中のKという登場人物だ。物語の中の登場人物が何かを自分の頭で考えたとしても、それは作者が「この登場人物ならこう考えるだろう」と考えた内容にすぎない。
 ”大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ。” ”でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい。” ”とくにホームグラウンドを遠く離れているときには。”と「ぼく」は言う。
 しかし厳密に言えば、ここはすみれの書き上げた『すみれがミュウを愛する物語』そのものではない。その物語をミュウがミュウの視点から書き直した物語を、さらに「ぼく」がKの視点から書き直しつつある物語世界だ。
 書き直しのたびに、視点的ドウタのバトンは移動し、そのたびに物語世界は違う視点から見つめられることになる。そのような視点の移動にともなって、物語の死角は死角でなくなり、もともと行間にあって描写されていなかったものが描写を要請するようになる。そこに、本来存在しないはずのものが入りこむ余地が生まれる。
 そのオリジナルの物語の行間を縫うようにして、「ぼく」は懸命に自分の頭で考えていく。

 「ぼく」は考える。
 「ぼく」はすみれの行方についてひとつのイメージを持っている。
 それは「すみれが深い井戸に落ちた」というイメージだ。
 「ぼく」は島の警察署で”「井戸はどうですか?」”と質問する。”「どこかに深い井戸があって、散歩をしているうちにそこに落ちたということは考えられませんか?」”

 この『スプートニクの恋人』においては、高いところへの移動はドウタの住み処からマザの住み処へ、つまり物語世界から現実世界への移動を意味していた。であれば、反対に低いところへの移動は、現実世界から物語世界へ、あるいは物語世界から物語内物語世界への移動を意味しているはずだ。
 つまり「ぼく」は、すみれが深い井戸のような通路をとおって『すみれがミュウを愛する物語』の中からなんらかの物語内物語へ移動したのではないかと考えているのだ。
 ミュウがしきりに「すみれは煙のように(上方向へ)消えた」とくりかえす中、「ぼく」はその反対に「すみれは深い井戸に(下方向に)落ちた」のではないかと言う。
 しかし、この島には井戸がない。

 その井戸のイメージを裏付けるように、すみれのフロッピー・ディスクから二つの文書が見つかる。文書1には『すみれの夢』が、文書2には『ミュウと観覧車の話』が書かれている。
 そのどちらも、「こちら側」と「あちら側」の関係をモチーフにしている。

 「ぼく」は考える。
 「ぼく」はひとつの仮説をたててみる。
 ”すみれはあちら側●●●●に行った”という仮説だ。
 こちら側のミュウに受け入れられなかったすみれは、あちら側のミュウに会いに行ったのだ、と「ぼく」は考える。
 あちら側のミュウがいる『ミュウの観覧車の話』の物語の中に入っていったのだ、と「ぼく」は考える。
 しかし”疑問がひとつある。大きな●●●疑問だ。どうやったらそこに行けるのだ?”
 ”論理的には簡単だ。”
 「ぼく」の視点から見れば、『ミュウの観覧車の話』は「ぼく」が今いるこの物語世界の中に描かれた物語内物語だ。そこに行くためには下方向に深く移動すればいい。山を登るのとは逆に、飛行機に乗るのとは逆に、観覧車に乗るのとは逆に、深い井戸のようなところに入っていけばいいのだ。
 ”しかしもちろん具体的に説明することはできない。”
 しかし、この島には井戸のひとつも存在しない。
 ”そしてぼくはまた振り出しに戻る。”

 「ぼく」は考える。
 ”東京のことを考えてみる。”
 ”日本を離れてからまだ二日もたっていないのに、それはまるで別世界のことのように感じられた。”
 ”遠く離れてみると、自分が職業的に誰かにものを教えているということが、とても奇妙で理屈の通らないことのように思えた。”
 もしここが、前編で提示された層状の物語の第二層、すみれの語る物語の中だとしたら、「ぼく」の東京での日々を描いた第一層の物語の内容は、高位の現実にあたるはずだ。しかし、今ここで東京での日々を思い出してみても、そこにはまったくリアリティが感じられない。
 その意味するところは、今「ぼく」がいるこの物語は、二日前まで「ぼく」がいた層状の物語とはまったく別の物語だということだ。
 それはつまり、「ぼく」は飛行機を乗り継ぎ、フェリーに乗ってこの島に渡ることで、層の上下移動ではなく、ひとつの物語から、まったく別のもうひとつの物語へ、横方向へ●●●●移動した、ということだ。

 「ぼく」は考える。
 ”引っ越しのときに彼女のとなりで経験した、激しい勃起のことを考える。それまで経験したことのないような強烈で固い勃起だった。まるでぼく自身が張り裂けてしまいそうなくらいだった。”
 あのとき、すみれに対して感じた、「ぼく」(ドウタ)を違う場所に押し流してしまいそうなくらい激しい性欲のことを考える。
 ”ぼくはあのとき、想像の中で【中略】彼女と交わっていたのだ。その感触は、ぼくの記憶の中では、別の女性との現実のセックスよりもはるかにリアルだった。”
 想像の中で、「ぼく」はレシヴァとして『すみれ』という物語に深く入りこみ、『すみれ』という物語を「ぼく」のものとして、「ぼく」の視点から書き直していた。
 あのとき、想像の中に押しとどめてほんとうのことにはしなかった、その『すみれ』という物語を書き直す感触が、しかしここでは現実の記憶よりもはるかにリアルなものとして感じられる。
 東京での現実はそのリアリティを失っているのに、東京で想像したことはむしろそのリアリティを増している。
 なぜだろう?
 「ぼく」は考える。
 ……もしかしたら、ぼくは今、現にレシヴァとして『すみれ』という物語に深く入りこみ、『すみれ』という物語をぼくのものとして、ぼくの視点から書き直しているのかもしれない、と「ぼく」は気づく。ここもまた、すみれの書いた物語の中なのかもしれない。
 この物語がすみれの書いたものだとしたら、この物語世界と『ミュウの観覧車の話』の物語世界は、物語と物語内物語という上下関係にあるのではなく、すみれの書いた二つの物語という横並びの関係にあるということになる。

 「ぼく」は考える。
 ”ぼくはもう一度〈仮説〉に立ち戻ってみる。”
 仮説:すみれはミュウ(マザ)のいるあちら側に行った。
 ”その仮説をもう一歩前に押し出してみる。すみれはどこかにうまく出口を見つけたのだ。” ”ありきたりの壁につけられた、ごく当たり前のドアだ。”
 この物語世界と『ミュウの観覧車の話』が横並びに存在する物語なら、あちら側にいくためには、長い階段も深い井戸も観覧車も必要ない。横方向に移動すればいいだけだ。
 どこかにうまく出口を見つけて、この物語世界を出て、通路を渡り、あちらの物語世界に入っていけばいいだけだ。
 ”そのドアの向こう側にどんな光景があったのかぼくには想像がつかない。でもドアは閉じられ、すみれはもう戻ってこない。”

 「ぼく」は考え続けた末に、私たちが知る事実とほとんど同じ答えにたどりつく。

 その思考は、雲をつかむみたいに曖昧で比喩的で非具体的だけど、その一方でよく研がれた刃のように鋭く、スリリングに私たちを惹きつける。
 しかし、「ぼく」も私たちもその思考に没頭しすぎるあまり、自分たちがオリジナルの物語の行間を押し広げすぎていることを、あるいはそのリスクを見落としてしまう。

 「ぼく」と私たちは、足元の長く伸びた影にひそむ小さな影法師たちに気づかぬまま、彼らを引き連れてこの『スプートニクの恋人』という物語の核心へと迫ってしまう。

2‐3‐4.終わるはずの場所で終わらない物語

 すみれの書き上げたストーリーに沿って、「ぼく」がミュウの語る物語に耳を傾け、その物語に登場する場所を「ぼく」自身の目で見て、足で歩き、肌で感じ、加えてすみれの残した二編の文書を「ぼく」が読むことで、すみれが「ぼく」をこの物語に招いた目的は十全に達成される。
 すみれの書き上げた物語は、「ぼく」に現実として深く受け入れられることで、本物になる。

 その言い表せぬ感謝を示すように、コテージに戻った「ぼく」を心安らかなひとときが出迎える。
 「ぼく」は冷蔵庫のありもので夕食をすませ、”それからヴェランダに座ってあてもない考えにふけった。あるいはまったく何も考えなかった。”
 「ぼく」は知と非知の同居するすみれの文体に身をゆだね、その抒情的な描写の自然な流れを堪能する。
 ”空の青が昨日と同じように一刻一刻その深みを増し、大きな円形の月が海の上に昇り、いくつかの星が空に孔を穿った。斜面を上ってくる風がハイビスカスの花を小さく揺らせた。突堤の先に立った無人灯台が古めかしい光を点滅させていた。人々がろばを引いて坂道をゆっくり下っていった。”
 そこにはすみれの描き出した美しい異国的な情景があり、すみれの用意したモーツァルトの歌曲集がある。
 ”ぼくは椅子に身を沈め、目を閉じ、すみれとその音楽を共有した。”

 すみれの書き上げたオリジナルの物語では、「ぼく」のこの小さな島での二日めの夜の描写はここで終わっている。
 すでに「ぼく」の責務は果たされ、すみれの謝意が示され、そして「ぼく」の目は閉じられた。
 あとは残りの日々のあらましと、「ぼく」とミュウの別れのシーンが語られれば物語は完結する。すみれにはこれ以上余計ななにかをこの物語に付け足す必然性がない。
 すでにとばりの降りた夜は、ただ静かにふけるだけでいい。

 しかし、この夜●●●はここでは終わらない。

 鳴るはずのない音楽が奏でられ、顔のない水夫が「ぼく」を眠りの海からゆっくりと引き上げる。
 『音楽のいざなう物語』がひそやかに語られ始める。

 「ぼく」はそれもまたすみれの用意したストーリーだと思いこんで、その流れに沿って歩き出す。
 山頂から聞こえる音楽をたどって、ドアの外に出て、坂道をのぼっていく。
 しかし何かがおかしい。
 「ぼく」がなにげなく自分の手のひらに目を落としたときに、それは露見する。
 ”ぼくの手はすでにぼくの手ではなく、ぼくの足はすでにぼくの足ではなかった。”

 すみれはK(「ぼく」)を『ぼく』という物語のままに自分の物語の中に描きこんでいた。すみれは「ぼく」の言葉をKの言葉として物語に書きこみ、「ぼく」はKの行動を「ぼく」の行動として受け入れた。その物語の中では、Kの手は「ぼく」の手であり、Kの足は「ぼく」の足だった。

 しかし今ここでは、ちがっている。
 ”青白い月の光をうけたぼくの身体は、まるで壁土でこしらえらえた土偶のように、生命のぬくもりを欠いていた。”
 ”ぼくの本物の生命はどこかで眠りこんでしまっていて、顔のない誰かがそれをかばんにつめて、今まさに持ち去ろうとしているのだ。”
 「ぼく」を「ぼく」たらしめている『ぼく』という物語は、この『音楽のいざなう物語』の中から締め出されていて、「ぼく」は今ここでは、物語世界の中に生きるひとりのドウタではなく、マザの思うがままに動かされる意志なき傀儡として描かれようとしている。
 「ぼく」は気がつかないうちにそのような物語の中に迷いこんでしまっていたのだろうか。
 いや、そうじゃない。熟練の狩人が巧みに迷彩をほどこした罠をしかけるように、誰かが今ここにこの『音楽のいざなう物語』を書き加えたのだ。

 すみれの書き上げた『すみれがミュウを愛する物語』を、ミュウが『ミュウがすみれを愛する物語』として書き直し、それをさらに「ぼく」が「ぼく」の視点から書き直す。
 その二度の書き直しを経て、オリジナルの物語の行間が、すみれが描写しなかった物語世界の死角があらわになり、月の光のもとに物語の空白として照らし出される。
 その物語の空白に、誰かが物語を与えたのだ。

 誰かがここで物語を書き換えようとしている。
 誰かがここで「ぼく」を書き換えようとしている。
 その誰かの目的のために、「ぼく」から『ぼく』という物語を奪い取り、「ぼく」の意志を奪い取り、「ぼく」を思うがままに動かそうとしている。
 ”誰かがぼくの細胞を並び替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。”
 誰かが「ぼく」にそのような物語を与えようとしている。
 ひとまとまりの、一から十まで決められた、改変を許さない物語を。
 それ全体でひとつの法則をなしていて、それ以上細かく分割することのできない物語を。
 すみれの言うところの「夢」を。

 しかし、いったい誰が?

 ”いくつかの鮮明なイメージが――イメージだけが――彼ら●●自身の暗い回廊を音もなく通りすぎていった。”
 ”ぼくが少しでもその姿を認めたそぶりを見せれば、彼ら●●はすぐになにかの意味を帯び始めるに違いない。
 ”ぼくはかたく心を閉ざし、彼ら●●の行列をやり過ごした。”
 と「ぼく」は言う。

 彼ら?

 ”わたしは既にあまりに多くの大事なものを明け渡してきた。わたしはこれ以上、彼ら●●に何も与えたくない。”
 とすみれは言う。

 ”「ねぇ、わたしの側には清算するべきものなんてもう何もないのよ。清算するのは彼ら●●であって、わたしじゃない」”
 ”彼ら●●はわたしにそれをわざと見せているのだ。彼ら●●は私が見ていることをちゃんと知っているのだ。”
(以上、傍点引用者)
 とミュウは言う。

 彼ら。彼ら。彼ら。

 冷たいものが私たちの背筋を伝う。

 『1Q84』の中で「さきがけ」のリーダーは、”「彼ら●●はこれまで様々な名前で呼ばれてきたし、おおかたの場合、どんな名前でも呼ばれなかった。彼らはただそこにいた●●●●●●●●●●。」”と言っていた。
 リーダーの言うとおり、『スプートニクの恋人』においても、彼らはどんな名前でも呼ばれていない。
 しかし、私たちはその名前を合い鍵のひとつとしてすでにこの手に持っている。
 そう、リトル・ピープルだ。

 もし、これが国語のテストであったなら、私は0点だろう。
 文法どおりに読めば、「ぼく」の言う「彼ら」は「いくつかの鮮明なイメージ」であり、すみれの言う「彼ら」は「すべての夜明けとすべての夕暮れ」で、ミュウの言う「彼ら」はもう一人のミュウとフェルディナンドのことだ。
 しかし、合い鍵を手にした今、私たちはそこに隠された本当の意味を読むことができる。
 彼らは代名詞とメタファーを隠れ蓑にしてこの『スプートニクの恋人』にも潜りこんでいたのだ。「顔のない誰か」として、あるいは単に「彼ら」として。

2‐3‐5.与えられた物語はときとして

 どうやら、私は大きな見落としをしていたらしい。
 『1Q84』ではあれほど異彩を放っていたリトル・ピープルの姿が『スプートニクの恋人』には、少なくとも表面的には、まったく描かれていなかった。
 そのため私は、ここにリトル・ピープルはいないのだと、これはマザとドウタ、レシヴァとパシヴァの物語なのだと思いこんでいた。
 しかし、彼らはいた。
 彼らはレトリックの影に隠れて、この物語のいたるところにひそみ、そして、空白に物語を紡いでいたのだ。

 彼らの存在が露見したことで、事態は一変する。
 私たちがたどってきたこの『スプートニクの恋人』第二部の長い道のりの、その意味が大きく組み変わることになる。
 彼らは空白に空気さなぎを、すなわち物語を紡ぐ者であり、物語の空白を抱えた者に物語を与える者だった。
 だとしたら私たちが、「ぼく」の、すみれの、ミュウの、あるいは「ガールフレンド」の物語として読み解いてきたもののうち、いくつかの物語は彼らによって与えられた物語だったのかもしれない。

 ではいったいどれが与えられた物語で、どれが自ら紡いだ物語なのだろう?
 その二つはどのようにして見分ければいいのだろう?

 その手掛かりとなるのが「選択」だ。
 与えられる物語は、それ全体でひとつのものとして与えられるという点で、すみれの言う夢と同じだ。
 夢がそれ全体でひとつの法則をなしていて、それ以上細かく分割できないように、与えられる物語もまたそれ全体でひとつの法則をなしていて、いかなる改変も許されていない。
 そのような物語にあっては、登場人物たちには与えられた文脈を外れて『分』の文脈にって行動する自由が与えられておらず、彼らは自分の意思で自分の行動を選択するということができない。
 「ぼく」の言葉を補完して言えば、”そこではぼくらは選択を可能にする【自由という】原理を与えられていない。あるいは【自由という】原理を成立させるための選択肢を与えらていない”ということになる。
 逆に言えば、選択肢の不在、選びようのなさが、与えられた物語の所在を私たちに教えてくれる、ということだ。

 では、その選択肢の不在を手掛かりにして、与えられた物語の所在を探ってみよう。

 ”わたしはやはりこの人【ミュウ】に恋をしているのだ、すみれはそう確信した。【中略】しかしその強い流れから身を引くことはもはやできそうにない。わたしには選択肢というものがひと切れも与えられていない●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●からだ。”

 ”でも今、このたった今、わたしはミュウがほしいの。とても強く。わたしは彼女を手に入れたい。自分のものにしたい。そうしないわけにはいかないのよ。選択肢というものはそこにはまったく存在しないの●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。どうしてこんなことになってしまったのか、自分でもわけがわからない。”

 ”「夫とはもう一年近くしてないの」と彼女【「ガールフレンド」】はぼくの腕の中で一度打ち明けるように言った。「あなたとしかしてない●●●●●●●●●●」”

 ”「あなたはすみれのことが好きだったんでしょう?」とミュウはぼくにたずねた。「つまり、女の人として」
 ぼくはパンにバターを塗りながら簡単にうなずいた。バターは冷たくて硬く、のばすのに時間がかかった。それから顔をあげてつけ加えた。「そういうのはおそらく、選びようのないことなんです●●●●●●●●●●●●●」”

 ”この女性【ミュウ】はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きであるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性【「ガールフレンド」】に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。とても入り組んでいる。まるで実存主義演劇の筋みたいだ。すべてのものごとはそこで行きどまりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶべき選択肢がない●●●●●●●●●●。”

 【ミュウは】早くここ【スイスの小さな町】を出たいと思う。でもどうしてかはわからないのだが、自分をうまくその町から引きはがすことができない●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。”(以上傍点引用者)

 これらの選択肢の不在が暗示するのは、「ぼく」にとって『すみれ』という存在が与えられた物語であること、すみれにとって『ミュウ』という存在が与えられた物語であること、ミュウにとってあの『ミュウと観覧車の話』が与えられた物語であるということ、そして「ガールフレンド」にとって『ぼく』という存在が与えられた物語であるということだ。

 つまり、前編で提示された『スプートニクの恋人』という物語の基本構造、あの重層構造そのものがリトル・ピープルによって与えられた物語だったのだ。

 ”「わたしがまだ若かったころは、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてきてくれた。そしていろんな話を聞かせてくれたわ。でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしに話しかけてこなくなった。【中略】ときどきね、自分の身体が向こう側まですっかり透けて見えるんじゃないかって気がすることがあるの」”
 『ガールフレンド』という物語を、向こう側まで透けて見えそうなほどに蝕む空白に、彼らは『ぼく』という物語を書き加え、
 ”そういうことを考えれば考えるほど、ぼくは自分自身について語ることを(もしそうする必要があるときでも)、保留したくなった。それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。”
 自分自身を語ることを恐れるあまり、自分の物語世界を語ることを避け、客観的事実に基づいて論理世界を作ることを選んだ「ぼく」の、その物語世界の欠落を空白として、彼らはそこに『すみれ』という物語を書き加え、
 ”ぼくは思うのだが彼はそのとき幼い娘の心に深く残るなにかを語るべきだったのだ。彼女が熱源にして、自らを温めていくことができる滋養にあふれた言葉を。【中略】すみれはまっ白なノートの1ページめを広げて待っていたのだ。でも残念ながら(というべきだろう、やはり)、すみれのハンサムな父親はそういうことのできる人ではなかった。”
 すみれの、母親の物語を欠いたその空白の1ページめに彼らは『ミュウ』という物語を書き加え、
 ”「でも今にして思えば、わたし【ミュウ】は自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった」”
 強くあろうとするあまり、ときには弱く、不運で、不健康でもある自分自身の一面を物語世界に持ちこまなかったことによって生じたその物語の空白に、彼らは『ミュウの観覧車の話』を書き加えたのだ。

 『ガールフレンド』というほとんど語られていない最も匿名的な物語を除いて、『スプートニクの恋人』のベースを構成する物語のすべてが彼らから与えられた物語だったのだ。

 しかし、与えられた物語は、ときとして自らの力で動き出す。
 その内なる原理にしたがい、自らの文脈に沿って、前に進みはじめる。

2‐3‐6.すみれの決意のほんとうの意味

 すみれがミュウを愛し、ミュウに性欲を感じ、ミュウと深く交わることを強く望んでいたことはわかっていたが、しかしそれにしても文書1に記された、そうしなければ”そのうちわたしという存在は流れに削り尽くされ、「なんにもなし」になってしまうことだろう。”という言葉の、存在の可不可に迫る緊迫感には、恋愛のそれを軽々と越えるものがあった。
 すみれがなぜそれほどまでに追いつめられていたのか。
 すみれはなぜミュウと交わらなくてはならなかったのか。
 すみれはなぜ『すみれがミュウを愛する物語』を完結させなければならなかったのか。
 そこでどれほど悲壮な決意を固めたのか。
 私はまったくわかっていなかった。
 すみれはミュウと交わるためにこの物語の中から消えたのではなかったのだ。そうではなくて、この物語の中から消えるために、ミュウと交わらなくてはならなかったのだ。
 リトル・ピープルの存在に気づいた今、それがようやく理解できる。

 すみれは、もともとは「ぼく」の空白に対して彼らが与えた物語にすぎなかった。

 はじめにあったのは、大きな空白を抱えた『ガールフレンド』の物語だろう。
 その『ガールフレンド』の空白を通路としてリトル・ピープルたちが現れて、その空白に『ぼく』を紡ぎ、さらにその『ぼく』の空白に『すみれ』という物語を紡ぐ。
 しかし、彼らが紡いだ『すみれ』という物語は、その中心を空白にしてあったにもかかわらず、彼らの意に反し、「物語を書くこと」をもうひとつの中心として自らの力で自らの物語を紡いで前に進み始める。すみれは「母親の思い出の欠落」と「物語を書くこと」の二点を中心とする人工衛星のような楕円軌道を描きながら、職業的作家となるべく悪戦苦闘して文章を書き連ねていく。
 しかし、彼らは彼らの物語が破られることを、まったく好まない。
 彼らはその対応策としてすみれの空っぽの方の中心に『ミュウ』という特殊な物語を与え、事態を一変させる。
 もともとの価値基準は大きく乱され、優先順位が組み替えられる。
 すみれの物語はミュウを中心に回り始める。
 もともと物語を書くことにほとんどすべて費やされていたすみれのリソースは、今度は愛するミュウを語ることに、ミュウの面倒をよくみることに回されることになる。
 すみれはミュウのことばかり語るようになって、”文章なんてただの一行も書けな”くなり、”文章を書くという行為そのものに、以前みたいにはっきりとした確信を持てな”くなる。
 『すみれ』という物語の描写は、そのほとんどが『すみれがミュウを愛する物語』に占められるようになり、すみれ本来の物語であるはずの『すみれが書くことを愛する物語』は次第に語られなくなっていく。
 ミュウという恩寵が与えられた分だけ、すみれ本来の物語はその代償として奪われていく。
 ”そんなことを続けていたら、わたしは間断なく失われていくことだろう。すべての夜明けとすべての夕暮れが、わたしをひとかけらひとかけら奪っていくことだろう。”
 ”わたしという存在は流れに削り尽くされ、「なんにもなし」になってしまうことだろう。”

 『すみれがミュウを愛する物語』はどこまでも広がり続けて、すみれ本来の『すみれが書くことを愛する物語』はますます辺縁へと押しやられ、石臼で挽きつぶされる椎の実のように次第に無に近づていく。

 ”わたしは既にあまりに多くの大事なものを明け渡してきた。わたしはこれ以上、彼らに何も与えたくない。”とすみれは言う。

 しかし、これ以上彼らに何も与えないためには、いったいどうすればいいのだろう?
 『ミュウ』がすみれの中心に与えられた物語であるがゆえに、すみれにはミュウを語ることをやめるという選択肢はない。
 『ミュウ』が中心にあるかぎり、すみれには『ミュウ』を中心に回り続けることしかできないのであれば、その『ミュウ』の物語をすみれの望む形に――すみれ本来の物語と共存できる形に――書き換えるしかない。
 「すみれはなぜミュウと交わろうとしたのか?」
 私たちはここにその答えを見つける。
 すみれは『ミュウ』という物語と「物語を書くこと」という二つの中心が共存できるように、『ミュウ』という物語を書き換えようとしたのだ。
 そのためにレシヴァとなって『ミュウ』という物語の奥深くに入りこもうとしたのだ。そこに、最後の望みを託して。

 しかし、その試みは失敗に終わる。
 そこには書き換えるべき『ミュウ』という物語がそもそも存在していない。
 すみれはその事実をあらためて呑みこむ。
 すみれ本来の物語と『すみれがミュウを愛する物語』とがともにあることができないことを、あらためて理解する。
 そして、自らの手で血を流す覚悟を決める。
 「しかし、これ以上彼らに何も与えないためには、いったいどうすればいいのだろう?」
 その問の答えとして、彼らに与えられた物語を自らの手で完結させることを、すみれは決める。
 たとえ与えられた物語であっても、いや、それが何もないところに与えられた物語であるからこそ、『ミュウ』はすみれにとって疑いようもなく大切な存在であり、『すみれがミュウを愛する物語』はいまや『すみれ』自身の大半を占めている。
 しかし、それにもかかわらず、すみれは「書くこと」を、自らの物語を自らの手で紡ぐことを選んだのだ。
 自分自身の大半を構成する物語を自分の手で終わらせる自殺に近しい行為を実行にうつし、すみれとミュウを結んでいたマザとドウタの絆を鋭利なナイフで躊躇なく断ち切ったのだ。

 これ以上彼らに何も与えないために、すみれは『すみれがミュウを愛する物語』を書き上げて、物語の中から消えた。
 しかしこれで、すみれは本当に彼らの手を逃れることができたのだろうか?
 残念ながら、そうではないようだ。
 彼らはとても長い腕を持っている。
 ”長くて力強い腕です”(1Q84 BOOK2)と牛河は言う。
 その腕が今、「ぼく」を欺いてすみれのたどったルートを追い、すみれの背中に迫る。

 私たちも見落としの収拾を終えて、問題のシーン、『音楽のいざなう物語』の中へと急ぎ戻ろう。

2‐3‐7.すみれをめぐる「ぼく」と彼らの攻防

 私たちは今ふたたび、「ぼく」とともに『音楽のいざなう物語』の一場面に立っている。
 ここは、ミュウと「ぼく」の二度の書き直しの末、月明かりと私たちの視線に晒されることとなったオリジナルの物語の死角だった場所で、この『音楽のいざなう物語』は彼らによってその死角に与えられた物語だ。
 彼らは、聞こえるはずのない音楽を鳴らして「ぼく」をその物語の中に誘いこみ、「ぼく」はそれをすみれの物語の一場面だと思いこんで、導かれるままにその足を進めてしまったのだった。

 昼間の「ぼく」の推理によってすみれの脱出経路を知った彼らは、ふたたびすみれを彼らの物語の中に捉えるべく、ここにこの『音楽のいざなう物語』を与えたのだ。すみれの書き上げた物語と『ミュウの観覧車の話』をつなぎ、視点的ドウタである「ぼく」をあちら側に渡すための通路としてのこの物語を。

 視点的ドウタである「ぼく」があちら側に渡れば、あちら側はもはやあちら側ではなくなる。
 もしそうなれば、『ミュウの観覧車の話』の物語世界は「ぼく」の視点から書き直されることでこの『スプートニクの恋人』の物語世界の一部となり、彼らの物語の一部となって、その長くて強い腕の中にすっぽりと収まることになるだろう。
 すみれはふたたび彼らの手中に落ちて、前編と中編の狭間で繰り広げられたあのアクロバティックな脱出劇は脱出でもなんでもなかったことになってしまうだろう。
 すみれの書き上げたはずの物語は、「ぼく」に最後まで読まれることなく、ほんとうのことになることなく未完に終わり、すみれは今度は『すみれがミュウ(マザ)を愛する物語』に深く囚われてしまうことだろう。

 一分の隙もない見事な企てだ。

 しかし、それが完璧な企てであるにもかかわらず、彼らの望みは成就しない。
 なぜなら、事態に気づいた「ぼく」がそこで何事かを成すからだ。
 「ぼく」には「ぼく」だからこそ成しえる御業があり、「ぼく」の抱える空白がゆえに身についてしまった哀しいごうがある。

 前編の5章で「ぼく」自身が語っているように、「ぼく」は自分自身を正しく語れないことを恐れるあまり、自分の内側にすみれのような物語世界を育むことを避けて、客観的事実からなる論理世界を煉瓦を積み上げるようにして築き上げてきた。
 あなたの語るあなたの物語を私が信じれば、あなたにとっての現実は私にとっても現実となり、私の物語世界とあなたの物語世界はひとつにつながることができるけど、客観的事実のみからなる論理世界は誰かの主観的な世界とそのようにつながることはできない。
 そのような論理的思考を身につけた必然的な帰結として、”ぼくは他人とのあいだに目に見えない境界線を引くようになった”――「ぼく」の論理世界と他人の世界は決してひとつにつながることなく、目に見えない境界線で区分けされることになった。「ぼく」は”人々の口にすることを鵜呑みにしないようになった”――「ぼく」は人々の語る物語を自分にとっての現実としてまるのまま受け入れることができなくなった。
 論理世界のそのような性質は決して長所といえるものではないが、しかしそれでも、それは子供の頃から「ぼく」にとっての大切な避難場所となっていた。「ぼく」はその論理世界の中に逃げこむことで、「ぼく」に害をなす物語を「ぼく」にとっての現実とすることなく、ただの物語として、一種のフィクションとして、非現実の区画に区分けすることができた。
 『すみれ』という物語を彼らから与えられることで、氷が熱源を中心に溶けて水に変わっていくように、「ぼく」の論理世界はすみれを中心にして物語世界へと変わっていったが、その変容は論理世界の全体にまでは及んでいない。『ぼく』という物語世界の奥深く、すみれの影響の届かぬところには依然として論理世界が存在していて、それはときとして、彼らに対抗するための手段として機能することになった。

 実を言えば私たちは前編で一度だけ、「ぼく」と彼らの攻防を、そして「ぼく」がその避難場所を行使するところをすでに目撃している。
 すみれの引越しが一段落して、「ぼく」とすみれ二人して壁にもたれて座っていたあの場面だ。
 それはすみれがミュウに強く惹かれるようになって「ぼく」から離れ始めた時期であり、すみれがミュウに連れられて「ぼく」の物語世界を遠く離れてヨーロッパへと旅立つ直前の時期だ。
 そのようなすみれの変化に破綻の兆しを感じとった彼らは、先手を打って「ぼく」を使って『すみれ』という物語を書き換えようとしていたのだ。
 彼らは、すみれをミュウに取られつつある「ぼく」に『ぼくがすみれと交わる物語』を与えて、「ぼく」をレシヴァとして『すみれ』の中に入りこませ、『すみれ』の物語を書き換えさせて、「ぼく」とすみれの離別を防ごうとする。
 しかし、「ぼく」はその与えられた物語を現実にしない。「ぼく」は内なる論理世界の暗闇に逃げこみ、その物語を鵜吞みにせず、一線を画したまま非現実の区画に押しとどめてしまう。その結果『ぼくがすみれと交わる物語』は「ぼく」の語る物語の中に描写されはしたが、「ぼく」の想像として処理されて、ほんとうのことにはならなかった。
 とはいえ、『ぼく』という物語に「ぼく」のものではない物語が書き加えられたという事実に変わりはない。
 帰り際、なにげなく目をやった等身大の鏡に映っていたのは”たしかにぼくの顔だったが、そこにあるのはぼくの表情ではなかった。”
 『ぼく』の文脈にそぐわないエピソードを書き加えられた「ぼく」の姿は、本来の「ぼく」とはどこか違うものになっている。

 「与えられた物語を拒絶する」
 ”ぼくが子供の頃から何度となく繰り返し、習熟している”その御業を「ぼく」は今ここで、今度はドウタではなくレシヴァとして行使する。
 「ぼく」は”意識の海の底”に――本来であればドウタの居場所でもなく、レシヴァの入りこめる隙間もない論理世界の寒々しい薄闇に――深く入りこみ、その”いつもの避難場所”に閉じこもる。

 彼らの与えようとする物語を、「ぼく」はレシヴァとして目もくれずに読み飛ばす。
 ”いくつかの鮮明なイメージが――イメージだけが――彼ら自身の暗い回廊を音もなく通りすぎて”いくが、”ぼくはそれらに目をやらないようにし”て、それらに”意味を帯び”させず、”時間性に付着”させない。
 目を閉じたままぱらぱらとめくられるページのように、数々のシーンが物語世界として開かれることなく、未読の領域から既読の領域へと流れ去っていく。

 ”時間が前後し、絡み合い、崩壊し、並べなおされた。世界は無限に広がり、同時に限定されていた。”
 彼らが「ぼく」に与えようとしている物語は、「ぼく」のまわりに手際よく展開されていた。
 相異なる二つの世界、相異なる二つの時間をつなぐ通路はすでに渡されて、ドアの隙間からあちら側の夏の音楽祭の音色が、こちら側に漏れ出ていた。
 「ぼく」がすみれのもとにたどりつくための道筋はたしかにそこに存在していた。あるいは、存在できるように準備されていた。
 しかし、「ぼく」がその道程を、その物語を、ほんとうのことにしなかったのだ。
 彼らがせっかく腕によりをかけて準備した物語は、誰にも読まれることなく終わりを迎える。
 彼らの目論見は惜しくも達成されず、すみれは間一髪、彼らの長い腕を逃れる。

 もし――、
 もし、この『スプートニクの恋人』という閉じられたサーキットの中に「ぼく」にとっての出口があったとしたら、それはここだっただろう。
 ここで「ぼく」が彼らの物語を拒絶せずに、この出口から『ミュウの観覧車の話』へと渡っていたら、物語はまったく違ったものになっていたはずだ。
 「ぼく」は視点的ドウタであるがゆえに物語の中から消えることはできなかっただろうが、少なくともそこはこの閉じられたサーキットの中ではなかったはずだ。そこには、すみれがいてミュウ(マザ)がいて「ぼく」がいる、そんな新たな輪が紡がれるたしかな可能性があったはずだ。
 しかし、「ぼく」はその展開を選ばなかった。
 ”結局のところ、そこから出ていくことをぼくはほんとうには求めなかったのだ。”
 「ぼく」は自らの手でその出口にかたく封をして、この閉じられたサーキットを、このひとつの密室を完全に閉じたのだ。
 すみれの願いを叶える、その引き換えとして。

2‐3‐8.月のロジックとレトリック

 そして、「ぼく」は目を開く。
 ”水面に浮かびあがり、目を開けて静かに息をついたとき、音楽はすでに止んでいた。人々はその謎めいた演奏を終えてしまったようだった。耳を澄ませた。なにも聞こえない。まったく●●●●なにも聞こえない。音楽も、人の声も、風のそよぎも。”

 視点的ドウタである「わたし」が三人称ドウタのすみれとなって、物語世界が閉じようとしたあの夜と同じように、ここには一切の音がない。

 ここは、どこだろう?

 ここはすみれの書き上げた物語の死角にあたる場所で、ついさっきまでその空白を埋めていた『音楽にいざなわれる物語』は現実になることなく終わってしまった。
 ここには、すみれの書き上げた物語も、彼らが与えた物語も存在しない。

 まるで地球を覆う空気の層がひとつ残らず剥ぎ取られてしまったみたいに、”空を見上げると、さっきよりもいくらか星の数が増えて”いて、まるで「ぼく」を覆う物語のヴェールがすべて剥ぎ取られてしまったみたいに、”空そのものがさっきとはちがったものに変わってしまっている”

 その、すみれの物語の中でもなければ、彼らの物語の中でもない、どの物語の中でもない場所で、「ぼく」は山頂に立ち空を見上げる。
 そこには月がある。
 すべての物語のヴェールが剥がされた状態で、「ぼく」はありのままの月を見る。

 月。
 高度が物語の階層のメタファーとしての意味を持つこの『スプートニクの恋人』の中にあって、もっとも高い高度にあり続ける衛星。
 『スプートニクの恋人』を織りなすいくつもの物語とそのマザたち、そのマザたちのマザ、語り手たちを語る者、グレートマザとでも呼ぶべき者を、「ぼく」は間近に見上げる。
 その”激しい歳月に肌を蝕まれた粗暴な岩球”を――執筆に明け暮れた歳月に表面を蝕まれた粗暴な眼球を、「ぼく」は今、見ている。
 その”生命の営みの温もりにむけて触手をのばす癌の盲目の細胞”を――自ら視点的ドウタとなって物語世界を開くことができぬがゆえに、それ自体の力で動き出す力強い物語のその真実の生命の炎を求めてやまぬ者を、私たちは今、目の当たりにしている。

 そして、月光。
 すべての物語世界を一様に照らし出す月の光。
 月の放つその光は、グレートマザがすべての物語に等しく投射するその独創的なロジックと巧妙なレトリックのメタファーだ。

 ここでいうロジックとは、本来別物であるはずのマザの世界とドウタの世界、レシヴァの世界とパシヴァの世界、現実世界と物語世界、あるいはひとつの物語世界ともうひとつの物語世界が高度や通路によって架橋され、ひとつにつながるという『スプートニクの恋人』(あるいはハルキワールド)特有の法則、いわば月のロジックを意味する。
 そのロジックはミュウ(マザ)の世界とミュウ(ドウタ)の世界をひとつにつなげることで、”ミュウに自らのもうひとつの姿を目撃させた。”
 そのロジックはすみれ(レシヴァ)の心の空白と子猫(パシヴァ)の物語世界をひとつにつなげることで、”すみれの猫をどこかに連れ去った。”
 そのロジックは『ミュウの観覧車の話』の世界とすみれの書き上げた物語の死角と『音楽のいざなう物語』の世界をひとつにつなげることで、”(おそらく)存在するはずのない音楽をかなで、ぼくをここに運んできた。”

 そして、ここでいうレトリックとは、その特殊な月のロジックの存在やそのロジックの結果として現れる様々な非現実的状況を巧妙にカモフラージュする独特のメタファーや言い回しなどの、いわば月のレトリックを意味している。
 ”月の光はそこにあるあらゆる音をゆがめ”――月のレトリックは登場人物たちが「マザ」「ドウタ」などの核心に言及するあらゆるセリフを抽象的で比喩的な言葉に書き換え――、”意味を洗い流し”――本来の意味をとらえにくくし――、”心のゆくえを惑わせていた”――私たちレシヴァが「ぼく」やすみれ、ミュウや「ガールフレンド」らパシヴァの本当の思いにたどりつくための道筋を迷宮のようにねじまげていた。

 月のロジックは、私たちが『スプートニクの恋人』第二部で見てきたような複雑な多物語世界を作り上げ、月のレトリックはそれをあたかも『スプートニクの恋人』第一部のような風変わりな単一物語世界であるかように偽装する。
 その結果、何が起きるだろう?

 ここに、もうひとつの密室が完成するのだ。

 先に述べた閉じられたサーキットとしての密室は、登場人物である「ぼく」にとっての密室だった。
 その密室の中で「ぼく」はドウタになりマザになりぐるぐると同じところを回り続けていて、そこから前に進むことができなくなっていた。

 その一方で、今ここでその姿を現したもうひとつの密室は、私たちレシヴァの侵入を阻む密室だ。
 月の巧妙なレトリックのもとに、この第二部の多物語世界が第一部の単一物語世界として偽装されることで、私たちレシヴァは『スプートニクの恋人』の本当の姿を見失わされていた。
 一枚の紙のうえに投射された三次元世界のその影を本物の世界だと思いこんでその上をいつまでも這い続ける蟻のように、私たちはいつまでたっても本物の世界に入りこめなくされていた。いつまでたっても本物の「ぼく」にも、本物のすみれにも、本物のミュウにも、本物の「ガールフレンド」にもたどりつけなくされていたのだ。

 月を間近に見上げたあとの眠れぬ未明に、ドウタの退室を禁じ、レシヴァの入室を禁じるこの二重の密室の中に閉じこめられて、「ぼく」は自分たちにやがて訪れるであろう最後の光景を想像する。
 ”閉めっきりになったアパートの一室で、死ぬほど腹を減らせている猫たちの姿をぼくは想像した。”
 ”そこでぼくは――本物のぼくは――死んでしまっていて、彼らは生きていた。”
 ”三匹のしなやかな体つきの猫たちが、割れた頭を取りかこんで、その中にたまったどろどろとした灰色のスープをすすっていた。彼らの赤く粗い舌先が、ぼくの意識のやわらかなひだをうまそうになめた。そのひとなめごとに、ぼくの意識は陽炎のように揺らぎ、薄れていった。”

 「ぼく」とともにこの密室に閉じこめられている”三匹のしなやかな体つきの猫たち”――「ぼく」のマザである「ガールフレンド」、「ぼく」のドウタであるすみれ、「ぼく」のドウタのドウタであるミュウ――はそれぞれに『スプートニクの恋人』唯一の視点的ドウタである「ぼく」からほんとうのことになるための養分を生きる糧として得ている。彼女たちは「ぼく」の視界に入りこみ「ぼく」の物語の中に描写されることで、その描写された分だけほんとうのことになる可能性を与えられている。
 では「ぼく」はどこからほんとうのことになるための「糧」を得ているのだろう?
 視点的ドウタである「ぼく」はパシヴァとしてレシヴァとひとつになることで、レシヴァ(読者)にとってのほんとうのことになるはずだった。「ぼく」は本来なら生きるための糧をレシヴァから得なければならないのだ。
 しかし、ここは月の巧妙なレトリックによって糊塗された堅牢な密室の中だ。レシヴァの侵入はかたく阻まれていて誰も”本物のぼく”にたどりつくことはできない。
 「ぼく」はその密室の行く末を想像する。
 その出ることも入ることも叶わぬ密室の中で、本物の「ぼく」は誰ともひとつになれないままやがて力尽きる。その「ぼく」の意識が陽炎のように薄れて消えるとき、その中に閉じこめられていた三匹のしなやかな体つきの猫たちもまた、この密室の世界とともに消えてなくなることだろう、と。

 もしここが鍵のない開かずの密室だったなら、その世界の終わりは実現していたかもしれない。
 長い時の中で、誰ひとりこの『スプートニクの恋人』の本当の姿に気づかぬままに、『スプートニクの恋人』という物語を誰も手に取らなくなる日が訪れたかもしれない。
 しかし、鍵はあった。
 合い鍵ではあるにせよ、鍵は鍵だ。
 それは第一部という密室の扉をこじ開け、私たちをこの第二部へといざなった。
 しかしその一方で、閉じられたサーキットとしての第一の密室は、今しがたその唯一の出口を「ぼく」自身の手によって封じられたばかりで、本物の「ぼく」は依然そこに囚われたままだ。
 私たちの持つこの合い鍵は、はたしてこの第一の密室を開くことができるのだろうか?
 それを知るためにも私たちは前に進まなくてはならない。
 本物の「ぼく」を追い、本物のすみれを追い、この物語のほんとうの結末を見届けなくてはならない。

2‐3‐9.『すみれがミュウを愛する物語』の終わり

 物語の死角で語られていた幕間劇が終わり、「ぼく」は再びすみれが書き上げた物語の本筋へと戻る。

 結局、すみれは見つからぬまま「ぼく」は東京への帰路につく。
 小さな島の港での別れ際、ミュウは「ぼく」の背中に手をまわして、とても自然に「ぼく」を抱擁する。
 ”その手のひらを通じて、ミュウはぼくになにかを伝えようとしていた。”
 ”でもそれは言葉というかたちをとらない何かだった。おそらくは言葉というかたちをとるべきでないなにかだった。”
 ”ミュウの小さな手のひらの感触が、まるで魂の影のように、ぼくの背中にいつまでも残っていた。”

 「ミュウの小さな手のひら」

 「ぼく」とミュウは月のレトリックにその音をゆがめられないように、その意味を洗い流されないように、言葉というかたちをとらずに”沈黙の中でいくつかのものごとを交換”して別れる。

 船は港を離れ、ミュウは突堤の先端に立って「ぼく」を見送る。
 ”身体にぴったりとあった白いワンピースを着て、風で飛ばないようにときどき片手で帽子を押さえながら、ギリシャの小さな島に立っている彼女の姿は、現実のものとは思えないくらいはかなく、端正だった。”
 ”時間はそこでいったん静止し、その光景はぼくの記憶の壁に鮮明に焼きつけられることになる。”

 フリーズフレームで終わる映画のラストシーンのように、物語は最後の美しいフレームで静止画となって、そこが終幕であることを「ぼく」に、私たちに教えてくれる。

 かくして、すみれの書き上げた『すみれがミュウを愛する物語』は終わりを告げ、「ぼく」は物語世界を離れる際に生じる例の現実感の喪失(”しばらく時間がたつと、ぼくがあとにしてきたなにもかもが、まるでそもそも最初から存在しなかったような気がしてきた。”)を感じながら、『ぼく』の物語へと――『ぼくがすみれを愛する物語』へと――戻る。

2‐4.『ぼくがすみれを愛する物語』の終わり

 帰路の途中、アテネのアクロポリスの丘にのぼった「ぼく」は、その高所から世界のありようを見渡して、そこでもうひとつの物語、『ぼくがすみれを愛する物語』が今まさに終わろうとしていることを理解する。
 
 「ぼく」を視点的ドウタとしすみれを中心的ドウタとする物語世界からすみれが失われた今、『ぼく』という物語はもはや『ぼくがすみれを愛する物語』のままではいられない。
 しかし、その『ぼくがすみれを愛する物語』の終わりの先に見えるのは、すみれを失った「ぼく」の孤独な物語でもなければ、別の誰かを中心に据えた新たな愛の物語でもない。
 『ぼくがすみれを愛する物語』の物語世界の果ての、その先に広がるのは、いかなる生命の気配もない荒涼とした論理世界の風景だ。
 ”そこにはぼくのための場所がある。ぼくの部屋があり、ぼくの机があり、ぼくの教室がある。静かな日々があり、読むべき小説があり、ときおりの情事がある。”
 今日と同じ明日があり、明日と同じ明後日があり、”限りなく続く日常”がある。
 そこには客観的事実としての法則があり、法則によって構成される水晶のような世界がある。
 「ぼく」はその法則の規則正しい結晶構造を通して、”自分の人生をはるか先まで見渡すことができ”る。

 その物語世界が終わり、論理世界が始まる光景を前にして、「ぼく」と私たちは”すみれがぼくにとってどれほど大事な、かけがえのない存在であったかということ”をあらためて理解する。
 すみれは『ぼく』という物語世界の中心をなしていただけでなく、『ぼく』という名の論理世界を物語世界たらしめていた存在でもあったのだ。
 ”ぼくは自分が話す以上に彼女の話に熱心に耳を傾けた。”
 すみれは「ぼく」に自分の話を語ることで、「ぼく」の「知っていること」のみからなる『ぼく』という論理世界に「知らないこと」を持ちこみ、
 ”彼女はぼくにいろんな質問をしたし、その質問の答えを求めた。答えが返ってこないと文句を言ったし、”
 すみれは自分が突然放りこまれた『ぼく』という世界のことを知りたがり、それが「ぼく」にもわからないこと、不確かなことであってもそれを語ることを、すなわち物語を語ることを「ぼく」に強く求め、
 ”その答えが実際に有効でないときには真剣に腹をたてた。”
 「ぼく」の「知っていること」が間違っていれば、それに対して真剣に腹をたてることで、その「知っていること」の裏には「知らないこと」がひそんでいること、その二つがわかちがたく存在していること、理解というものは誤解の総体に過ぎないことを、「ぼく」に強く突きつけた。
 そうして、客観的事実のみからなっていた「ぼく」の論理世界は、少しずつその客観性を揺るがされ、論理性に物語性を付与されていった。
 魔法使いの杖の一振りで、見渡すかぎりの雪原が同心円状に光あふれる花畑へと変わっていくみたいに、薄暗く冷たい論理世界はすみれを中心にして色あざやかな物語世界へと変わっていった。
 この『スプートニクの恋人』という物語を語っていたのは「ぼく」(マザ)であり、この物語世界を開闢していたのは「ぼく」(ドウタ)であったが、そもそもこの物語を可能にしていたのは、ほかの誰でもない、すみれだったのだ。
 ”すみれは彼女にしかできないやりかたで【『ぼく』という論理世界を物語世界に変えて】、”ぼくをこの【『スプートニクの恋人』という名の多物語】世界につなぎ止めていたのだ。”
 「ぼく」は物語世界となることで、『すみれ』という物語世界をも「ぼく」にとっての現実として受け入れることができるようになり、その結果”すみれと会って話しているとき、あるいは彼女の書いた文章を読んでいるとき、ぼくの意識は静かに拡大し、これまで見たこともない風景を目にすることができた。”
 すみれが『ぼく』という論理世界に灯した、物語という名のささやかな炎は、「ぼく」の世界にそれまで存在しなかった新しい色を与え、意味を与え、そして「ぼく」に他の誰かを愛することと、他の誰かの物語とひとつにつながることを教えてくれた。
 ”注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。”
 でも、「ぼく」はそうではなかった。
 ”ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎まで見失ってしまったのだ。”
 すみれが失われることで、魔法はとけて、物語の炎は消えてしまう。
 『ぼくがすみれを愛する物語』が終わり、物語としての『ぼく』が終わる。
 ”どこかで血が流されている。”
 
「ぼく」(マザ)と「ぼく」(ドウタ)の絆が今まさに断たれようとしている。
 ”誰かが、何かが、【レシヴァが】ぼくの中から立ち去っていく。顔を伏せ、言葉もなく。”
 ”ドアが開けられ、【レシヴァは物語世界をあとにして、】ドアが閉められる。”
 ”夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。”
 夜が明けたら、物語としての『ぼく』はもういない。「ぼく」の中には『ぼく』という物語ではなく、『ぼく』という論理が入っている。

 物語が今まさに、終わろうとしている。

 物語の火が消えゆく中、マザとドウタの絆が断ち切られるその間際に、「ぼく」(ドウタ)はアクロポリスの丘の高所からさらにその上に広がる薄暮の空に”人工衛星の光”を――「ぼく」(マザ)の姿を――探し求める。
 ”地平線はまだ薄光に縁どられてはいたが、葡萄酒のような深い色に染まった空には星がいくつか姿を見せていた。”
 それは、この『スプートニクの恋人』という閉じられたサーキットがひと回りするたびに、その時々の「ぼく」(ドウタ)が物語の終わるここで幾度となく見上げてきた空だ。
 それは、一周めの「ぼく」(マザ)が、すなわち「ぼく」(マザ)1号が、世界初の人工衛星であるスプートニク1号のように一人静かに横切った空であり、続いて一周めの「ぼく」(マザ)1号のドウタがその「ぼく」(マザ)1号とひとつになり、二周めの「ぼく」(マザ)2号(「ぼく」(マザ)1号+そのドウタ)となってスプートニク2号のように横切った空だ。
 そしてそれは「ぼく」(マザ)3号(「ぼく」(マザ)1号+そのドウタ+そのドウタのドウタ)や、「ぼく」(マザ)4号(「ぼく」(マザ)1号+そのドウタ+そのドウタのドウタ+そのドウタのドウタのドウタ)が横切った空でもある。
 このひとつの閉じられたサーキットが一周するごとに、そこに新たな「ぼく」(ドウタ)を加えて、「ぼく」(マザ)はこの空を横切ってきた。

 今のこの空がいったい何周めの空なのかは、もはや誰にもわからない。
 「ぼく」は眼を閉じ、耳を澄ませて、今この空にいるはずの「ぼく」(マザ)n号のことを思う。
 「ぼく」(マザ)n号=「ぼく」(マザ)1号+そのドウタ+そのドウタのドウタ+そのドウタのドウタのドウタ+……+そのドウタのドウタの……のドウタのことを、――すなわち”スプートニクの末裔たち”のことを「ぼく」は思う。

 ”どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。”
 どうしてそれら●●●ぼく●●たち●●はみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう、と「ぼく」は思う。
 ”これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、”――
 これだけ多くのレシヴァ(読者)がこの『スプートニクの恋人』を読んでいて、――
 ”それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、”――
 レシヴァ(読者)とパシヴァ(「ぼく」たち)、それぞれに相手とひとつになることを求めあっていて、――
 ”なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。”
 なのになぜ無数の「ぼく」たちは誰ひとりとして、どのレシヴァとも本当にひとつになることができずにいるのだろう。
 ”この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。”
 レシヴァたちは、そのような本物の「ぼく」とひとつになることができない寂しさ、本当の物語の中に入ることのできない侘しさを求めて『スプートニクの恋人』を読んでいるとでもいうのだろうか?
 と、「ぼく」は言う。

 もちろんそれは誤解というもので、私たちはそのような寂しさなどこれっぽっちも求めてはいない。
 だからこそ、私たちは合い鍵を手に本物の「ぼく」を追って、本当の物語をここまで読み解いてきたのだ。

 しかし、それにもかかわらず、『ぼく』という物語はここで終わってしまう。
 赤と青をひとつに混ぜ合わせた葡萄酒のような色あいの空は、やがて黒一色に変わり、そこにスプートニクの末裔たちがひとつになった「ぼく」(マザ)の白く小さな光を静かに浮かびあがらせていくはずだ。
 でも、そのときには「ぼく」はもう物語ではなくなっているだろう。
 「ぼく」はすみれという中心を失い、引力の絆を失った論理となって、真っ暗な宇宙の空間をひとりぼっちでただよいはじめているだろう。
 ”彼ら【「ぼく」たち】は孤独な金属の塊として【論理として】、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふと【すみれという物語に】めぐり会い、一時いっときの物語の夢を見て】すれ違い、そして永遠にわかれていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく。”
 最後に「ぼく」はそう言って、『ぼくがすみれを愛する物語』の幕が下りる。

3.後編ー離の編

3‐1.はじめの後編

3-1‐1.しかし物語は終わらない

 中編の終盤で『すみれがミュウを愛する物語』が終わり、『ぼくがすみれを愛する物語』が終わった。
 本来であれば、それで『ぼく』は論理世界へと還り、「ぼく」(マザ)は語ることをやめて、「ぼく」(マザ)を語り手とする『スプートニクの恋人』はそこで終わるはずだった。

 しかし、物語は終わらない。

 それらの物語の終わりを受けて、中編と後編のその狭間で、物語の終わりを快く思わない者たちが動き出していたのだ。
 自ら紡いだ物語を護ろうとするリトル・ピープルたちと、彼らに与えられた『ぼく』という物語を自分に残された唯一の物語として語り続けることを望む「ガールフレンド」だ。
 死者蘇生を試みる呪術師が死せる肉体に別の魂を吹きこもうとするように、彼女と彼らは『すみれ』という中心を失った『ぼく』の空白に『ガールフレンド』という物語を与えようと試みる。
 「ガールフレンド」は「ぼく」に電話をかけて(彼らは「ガールフレンド」に電話をかけさせて)、一度は終わった『ぼく』という物語を無理矢理に再始動させる。

 ここではないどこかで、「ガールフレンド」の日に焼けた長い指が電話機のプッシュボタンを順々に押して、後編、離の編の開幕を知らせる電話のベルが「ぼく」の部屋に鳴り響く。

3-1‐2.申し出は拒絶される

 「ガールフレンド」はその電話で「ぼく」に助けを求め、「ぼく」は彼女の指示にしたがって立川のスーパーマーケットの保安室へと向かう。
 しかし、そこで「ぼく」を待っていたのは、もはや”ベッドの中でも、ベッドの外でも” ”飛行機のファーストクラスに乗ったような気分にさせてくれた”あの「ガールフレンド」ではない。そこにいたのは問題を抱えた子供を持つひとりの母親であり、「ぼく」の助けを必要としているひとりの女性だった。
 もし話が彼女彼らの思惑どおりに、「ぼく」が「ガールフレンド」にしっかりと寄り添い、彼女の支えとなるような展開になっていれば、つまり、視点的ドウタである「ぼく」が「ガールフレンド」の面倒をよくみる展開になっていれば、「ガールフレンド」は『ぼく』の中心にあいた空白を埋める形で、みごと中心的ドウタの位置におさまっていたことだろう。
 そうなれば、『ぼく』という物語は『ぼくが「ガールフレンド」を愛する物語』となり、この『スプートニクの恋人』は「ガールフレンド」が『ガールフレンドが「ぼく」を愛する物語』を語り、「ぼく」が『ぼくが「ガールフレンド」を愛する物語』を語るという、この上なく安定した状態で前へと進み始めていたはずだ。

 しかしなぜか、その企ては失敗に終わる。
 そこが空白であるにもかかわらず、彼らはその空白に物語を紡ぐことができない。あのすみれの引越しの日や『音楽のいざなう物語』の夜のように「ぼく」が論理世界の避難場所に逃げこんだ様子もないのに、『ぼくが「ガールフレンド」を愛する物語』は始まって間もないうちにその命脈を絶たれてしまう。
 ”「ぼくらは会うのをやめた方がいいと思うんだ」とぼくは思いきって口に出した。”
 『ぼく』を物語として永らえさせてあげようという彼女と彼らの親切な申し出は拒絶され、「ぼく」の手には”命あるものを力まかせに切断してしまったようななまなましい感触”が残る。
 そしてどういうわけか、彼らの物語が拒絶されたにもかかわらず、物語は終わらない。
 『ぼく』は論理世界へと還ることなく、中心に空白を抱えた物語となって、語るべき中心を持たないままに、引力の絆から解き放たれて、宇宙空間の暗闇をあてもなくさまよいはじめる。
 それがどこに向かっているのか、もう誰にもわからない。彼らにも、「ガールフレンド」にも、「ぼく」自身にも、そして私たちにも。

3-1‐3.銅像、あるいは物語なきドウタの肖像

 中心もなく、語るべきこともない物語は新たな展開を紡がない。
 壊れかけのレコードプレーヤーが過ぎ去ったフレーズをくりかえし再生するように、「ぼく」は在りし日々の記憶をたぐりながら、昨日とよく似た今日を、今日と区別のつかない明日を送っていく。

 そんな日々の中、広大な宇宙空間に廃棄された二機の人工衛星が偶然すれちがうように、「ぼく」は東京の街で、一度だけミュウの姿を見かける。
 それは、ギリシャの小さな島で「ぼく」が会った黒い髪のミュウではなく、白髪のミュウだ。
 『ミュウがすみれを愛する物語』を介して疑似的にマザとドウタの絆を取り戻していたミュウは、この世界のロジックのもと、その物語が終わるとともに再びばらばらになっていたのだ。
 「ぼく」が東京の街で見かけたのは、おそらく前編と同様にミュウ(マザ)とミュウ(ドウタ)がばらばらのまま重ね合わさっている姿だろう。
 その姿が意味するのは、かつてマザとドウタをひとつにつなぎ合わせていた物語がすでに終わっているという事実であり、その物語の不在●●だ。
 そのミュウの姿に、「ぼく」はふとミュウの父親の銅像を思い浮かべる。
 銅像は、物語のマザである本人が死んで物語が終わったあとに、一人とり残される物語なきドウタの姿だ。
 ミュウの物語は、あのギリシャの小さな島の港のシーンで終わった。
 それにもかかわらずここにミュウがいるのは、ミュウの物語がほんとうの意味で終わることができていないからだ。
 すべてを一様に照らす月光がすべての物語世界をひとつにつなげてしまっているかぎり、その月の照らすひとつながりの物語が終わるまでは、ミュウの物語もまたほんとうの意味で終わることができないのだ。
 ミュウの『ミュウがすみれを愛する物語』が終わり、「ぼく」の『ぼくがすみれを愛する物語』が終わっても、この『スプートニクの恋人』が終わらないかぎり、ミュウの物語の終わりも「ぼく」の物語の終わりもほんとうのことにはならない。そのほんとうの終わりが訪れるまで、「ぼく」もミュウも物語なきドウタとして、銅像として、終わりの日々を過ごさなければならないのだ。
 ”どれほど深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。”と「ぼく」は言う。
 ”すべてのものごとは”――『スプートニクの恋人』を構成するすべての物語は――”どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれない”と「ぼく」は思う。”少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を”――『スプートニクの恋人』という物語の終わりを――”持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。”

 そして、それらの細い糸にたぐりよせられるようにして、失われるべき静かな場所が、『スプートニクの恋人』という物語の終わりが近づいてくる。

 『ぼく』という物語の空白を埋めることのできなかった彼らは、『スプートニクの恋人』の終わりに際して、この彼らの物語を護るためにいつもの作戦に打って出る。
 物語が終わるその場所で「ぼく」(マザ)と「ぼく」(ドウタ)をひとつにして、すべてを振り出しに戻し、ふたたび「ぼく」に『スプートニクの恋人』を一から語らせようとする。

3-1‐4.すみれの行方

 しかし、彼らはひとつ大きな見落としをしている。
 私たちはひとつ、とても大切なことを忘れてしまっている。
 そう、すみれだ。
 物語の終わりのシーンで、すみれから「ぼく」に電話がかかってくる。
 すみれはいったいどこから電話をかけているのだろう?
 中編で煙のように消えて以降、すみれは今までいったいどこにいたのだろう?
 物語の終わりが刻一刻と近づいている。
 その時が訪れる前に、私たちはすみれの居場所を見定めなければならない。
 彼らに悟られぬよう、月の光の届かぬ場所で、すみれの行方を急ぎ追わなければならない。

 その行方をさぐるためのヒントは、「ガールフレンド」の子供であるにんじんと「ぼく」との会話にある。
 保安室でのやりとりを終え、「ガールフレンド」を先に帰らせた「ぼく」は、にんじんと二人で近くの喫茶店に入り、長い沈黙のあとで「ぼく」自身について語り始める。
 ”ぼくは子供の頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。【中略】だからよく自分のことをもらい子なんじゃないかって想像した。”
 ”ぼくは遠くにあるどこかの町をよく想像したものだ。そこには一軒の家があって、その家にはぼくの本物の家族が住んでいた。それが本来のぼくの居るべき場所だった。” 
 しかしそれは、前編5章で「ぼく」が自分自身について語ったときのような、客観的事実にもとづく論理世界的な語り方ではなくなっている。
 ここでは「知っていること」と「知らないこと」のあいだの便宜的なついたてはあっさり取り払われている。文書2ですみれが説明し実践してみせたように、ここでは物語世界にもとづく物語的語りが展開されていく。
 ここでは、「ぼく」はまるですみれのように語っている。
 私たちは、ほんの一瞬、「ぼく」の中にすみれの影を見る。
 そして、理解する。
 すみれはそこにいるのだ、と。

 そこに垣間見えたすみれの影は、私たちに松の木から消えた子猫のエピソードを思い出させる。
 そのエピソードでは『すみれが子猫を愛する物語』をすみれ自身がくりかえし思い出すことで、物語世界の子猫と現実世界のすみれがパシヴァとレシヴァとしてひとつにつながって、そのつながりを通路として、子猫は松の木の高みからすみれの心へと渡り、ちょうどそこにぽっかりと空いていた子猫一匹分の空白にすっぽり収まったのだった。
 物語の中の登場人物が、パシヴァとレシヴァの絆を通路として、現実世界のレシヴァの心へ渡って物語世界の中から消えるとき、すみれとミュウはその状況を「煙のように消える」と表現していた。
 そして、ミュウは「すみれは煙のように消えた」とくりかえし言っていた。
 今ようやくその意味がわかる。

 中編のすみれが書き上げた物語の中で、「ぼく」はミュウが語る『ミュウがすみれを愛する物語』に深く耳を傾け、その物語の中ですみれがたどった道を実際に自分の足で歩き、そこですみれが何を考えたのかを考えた。
 そうすることで、「ぼく」とすみれはレシヴァとパシヴァとしてひとつになって、そこにひとつの通路を渡していたのだ。
 そして、あの港での「ぼく」とミュウの別れのシーンですみれの書き上げた物語が終わって「ぼく」の心にすみれを失った空白ができると、すみれはとことことその通路を渡って、松の木の子猫がすみれの心の空白に宿ったのと同じようにして、「ぼく」の心の空白に宿っていたのだ。
 レシヴァとパシヴァはそうやって物語が終わったあともひとつであり続けることができる。
 すみれはそのようにして、『すみれがミュウを愛する物語』の中から煙のように消えていたのだ。

 にんじんに「ぼく」自身の物語を語った「ぼく」は、彼を家に送り届けたあとで、「ガールフレンド」に別れを告げる。
 ”いろんな人のためにもね。”と「ぼく」は言うが、それは本心ではない。
 ”本当のことを言えば、ぼくがそのときに考えていたのは、いろんな人●●●●●ではなく、すみれのことだけだった。そこに存在した彼らではなく、我々でもなく、不在するすみれのことだけだった。”

 『ぼく』という物語の中心にはドーナッツのようにぽっかりと空白が空いていて、その空白にはすみれが宿っている。
 「ぼく」は不在するすみれのことだけを、空白のすみれのことだけを考えている。
 気がつけば、「ぼく」(マザ)は「ぼく」(ドウタ)を視点的ドウタとし、不在するすみれを中心的ドウタとする物語を語っている。
 『ぼく』という物語は、『ぼくが不在するすみれを愛する物語』となって静かに進行していく。

 「ぼく」はすみれがフロッピー・ディスクに残した二編の文書を”記憶して暗唱できるくらい綿密に読み返し””すみれとともに時間を過ごし、彼女と心をかさねあわせる”
 あるいは”夜中に目を覚まし、ベッドを出て(どうせ眠れやしない)一人がけのソファに沈みこみ、シュヴァルツコップフを聴きながら、あの小さなギリシャの島の記憶をなぞる。本のページを静かに繰るように、そこにあったひとつひとつの情景を回想する。”

 そうして「ぼく」とすみれはより深く心をかさねあわせていく。レシヴァとパシヴァの絆をより強くより太くしていく。
 はじめは薄氷のようだった通路は頑強に補強されて、その通路を通ってより多くのすみれが「ぼく」の心に宿っていく。
 物語の死角を行くすみれの姿は、彼らには見えていない。
 あらゆる音をゆがめ、意味を洗い流して、中編では彼らの存在を隠匿していた月の光が、ここでは彼女彼らからすみれの存在を隠す役割を果たしている。

 そして物語は、ふたたびその終わりへと漸近していく。
 物語がそのラストシーンへといたる直前に、すみれは「ぼく」(ドウタ)の力を借りて、「ぼく」(ドウタ)の想像という形をとってそこに小さな物語を紡ぐ。
 ”ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。髪はくしゃくしゃで、サイズの大きすぎる男物のヘリンボーンのジャケットを着て、左右ちがった靴下をはいている。彼女は顔をしかめ、ときどき煙にむせる。番号を正しく最後まで押すのに時間がかかる。”
 語る者と語られる者、「ぼく」(マザ)と「ぼく」(ドウタ)を隔てる距離が次第に縮まっていくそのさなかに、すみれは「ぼく」(ドウタ)の想像の中で「ぼく」に電話をかける。
 そして、「ぼく」(マザ)がその想像の物語をほんとうのことにする。
 二人は電話の届く圏内に入って、ほんとうに電話が鳴り出す。
 ”でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界●●●●●の空気を震わせている。”(傍点引用者)
 電話は、現実世界の「ぼく」(マザ)の枕元で鳴っている。
 それは「ぼく」(ドウタ)に宿るすみれから「ぼく」(マザ)への電話だ。
 すみれは”「ねえ帰ってきたのよ」”と言い、”「もう一度電話する。」”と言い、”「ここに迎えにきて」”と言って、電話は切れる。
 ”ぼくはどこにでも行くことができる。”
 ”そうだね?”
と「ぼく」(マザ)が問い、
 ”そのとおり。”とすみれが答える。

 「ガールフレンド」と彼らはすみれの存在を見落としたまま、この収拾のつかなくなった事態をおさめるために、すべてを振り出しに戻そうとする。
 これまで幾度となく繰り返しそうしてきたように閉じられたサーキットをもう一度まわそうとする。これまでと何ら変わることのない一周として、あるいはこれからも延々と続くであろう周回の、その手始めの一周として。
 でも、そうはならない。
 物語が終わるその前にすみれは、『スプートニクの恋人』というとても大きな観覧車の、「ぼく」(ドウタ)というゴンドラにすでにひそかに乗りこんでいる。
 ”「マドモワゼル、そろそろもう終わりです」”と誰かが言う。
 ”「そろそろ終わりが近づいている。これが最後の一回だ。一回まわってそれでおしまい。」”
 ”「いいわよ、一回でじゅうぶんよ」”
とミュウをまねてすみれは答える。

 「ぼく」(ドウタ)のゴンドラはガタンとひと揺れしてから静かに上昇しはじめ、すぐそこまで迎えに来ていた「ぼく」(マザ)とひとつになる。
 スプートニクの末裔たちはそこに新たな「ぼく」(ドウタ)とすみれを加えて、過去に類を見ない「ぼく」(マザ)となり、物語のはじまりへと立ち戻る。
 そして、『スプートニクの恋人』最後の一周がはじまる。

3-2.最後の一周

 すみれは名残を惜しむように、「ぼく」(マザ)の視座から『スプートニクの恋人』の多物語世界をつぶさに眺めていく。
 すみれを中心にして語られる「ぼく」の物語を眺め、「ぼく」の視点から語り直されたすみれの物語を眺め、そしてその行間で繰り広げられた「ぼく」と彼らの攻防を眺め、ときにすみれに仇なしていた月を物語のヴェールなしで間近に眺め、自ら記した物語のその最後の光景を眺め、『ぼく』という物語の終わりのあとに広がる景色を眺めて、再び後編へと近づいていく。

 その長い旅路の途中で、すみれはひとりのドウタを目の当たりにする。
 ミュウ(ドウタ)と同様にマザとはぐれて半分になってしまったドウタだ。
 彼は「ぼく」のクラスの生徒で、遠足で山に登った際に自らのマザに出会い、衝突してしまう(どすん)。
 ”男の子が二人、冗談半分のとっくみ合いの喧嘩を始め、倒れた拍子に石で頭を打った。軽い脳震盪を起こし、大量の鼻血を出した。大事にはいたらなかったけれど、その子の着ていたシャツは、なにかの虐殺のあとみたいに血だらけになった。”
 脳震盪に血まみれの上着。その男の子の惨状はすみれに、双眼鏡越しにマザと衝突したミュウ(ドウタ)が観覧車の中で発見されたときの状態を思い起こさせる。
 ”瞳孔が正常に反応しない。腕と顔には少なからぬ数の擦過傷があり、ブラウスは血で汚れている。病院に運ばれて手当を受ける。彼女がどのようにして傷を負うことになったのか、誰にもわからない。”(ミュウの観覧車の話)
 マザとドウタが衝突し、二人の絆が断たれるとき、そこにはいつも血が流される。
 自分が今、その衝突の現場を「ぼく」の視点から目の当たりにしたことを、すみれは理解する。
 その半分になったドウタは、家族旅行でバリ島に行く際に高高度を飛ぶ飛行機の中で、再びマザと邂逅する機会を得る。
 ”彼女は夫と二人の子供●●●●●と一緒にバリ島に休暇に出かけて、戻ってきたばかりということで、とてもきれいに日焼けしていた。”(傍点引用者)
 しかし、そこには”二人の子供”という記述があるだけで、マザとドウタがひとつになった痕跡を読み取ることはできない。
 ひとりぼっちの名もなきドウタは、マザとはぐれて半分になったまま、物語の死角へと姿を消してしまう。

3-3.後編は二度語られる

 マザとはぐれた名もなきドウタを見失ったまま、私たちは「ぼく」(マザ)とそこに宿るすみれとともに再度後編の扉をひらく。
 しかしそこでは、事態は一変している。
 そのドウタには仁村晋一という本名があり、「にんじん」というあだ名があり、”やせて細面で、髪がもしゃもしゃとちぢれている”という外見があり、そして、”半年間にわかっているだけでも三回も万引きしている”というこれまでのいきさつがある。
 誰かが彼に、本名とあだ名と外見と過去を内包する物語を与えたのだ。
 いったい誰が?
 その問の答えを示すように、そこには物語を与えた者の、すなわちマザの刻印がなされている。
 ”ぼくが手を差し出すと、にんじんはそっとその手をとった。ぼくは手のひらの中ににんじんの小さな●●●ほっそりとしたの感触を感じた”(傍点引用者)
 小さな手。
 それはミュウがあの別れのときに「ぼく」の背中に残した”言葉というかたちをとるべきではない”メッセージであり、そして――”すみれはなにも言わずにぼくの手をとって、そっと握った。やわらかい小さな手●●●●で、少しだけ汗ばんでいた”(傍点引用者)――あの引越しの日にすみれが「ぼく」にそっと託したメッセージだ。
 子が親の遺伝的特質を引き継ぐように、マザの一部はドウタへと引き継がれている。
 ミュウがすみれの語るドウタであるのと同様に、にんじんもまたすみれの語るドウタなのだ。
 すみれの語る登場人物がここにいる?
 だとしたら、この物語を語っているのはいったい誰だ?
 いったいどうやってそんなことが可能になったのだろう?

 私たちはそこでようやく、ここがもはや「ぼく」(マザ)の語る物語の中ではなくなっていることに(すなわち、「ガールフレンド」が語る物語の中の物語内物語ではなくなっていることに)気がつく。

 すみれがケルアックの小説の登場人物とレシヴァとパシヴァとしてひとつになったとき、すみれはその登場人物となって行動していた。
 「わたし」(一人称のすみれ)が、『すみれの夢』の三人称のすみれとレシヴァとパシヴァとしてひとつになったとき、「わたし」は視点的ドウタであることをやめて、ただの三人称ドウタのすみれになっていた。
 すみれが『ミュウの観覧車の話』のフェルディナンドとレシヴァとパシヴァとしてひとつになったとき、フェルディナンドはいつの間にかすみれになっていた。
 それと同じことが、ここで起きていることを私たちは理解する。
 すみれとパシヴァとレシヴァとしてひとつになっていた「ぼく」(マザ)はいつの間にか「ぼく」(マザ)ではなくなっている。
 いつの間にか、「ぼく」(マザ)はすみれ(マザ)になっている。あるいは、この二周めの最初から「ぼく」はすみれだったのかもしれない。

 「ぼく」(マザ)がすみれになる。
 その一事によって、すべては激変する。
 私たちが一周めで苦心して読み解いたばかりのこの後編は、すみれ(マザ)の物語として語り直されることになる。
 後編を構成する文章は一字たりとも変わらぬまま、ただ語り手がすみれであるという事実のもとに、洗い流されていた意味が新たに付与され、あるいは新たな意味に入れ替えられていく。ストーリーの重心が移動し、天と地がひっくり返される。
 私たちはこれまで以上に心を落ちつかせ、耳を澄ませなくてはならない。異音のひとつとして聞き逃さないよう慎重に歩を進めていかなくてはならない。

 すみれ(マザ)はかつてミュウにそうしたように、前編で見つけたひとりぼっちのドウタに物語を与える。『にんじん』という名の物語だ。
 その結果、中編のラストで一度終わりを迎えた「ぼく」の物語は「ガールフレンド」でもなく彼らでもなく、にんじんの手によって再始動することになる。

3-3‐1.古い世界の片隅で

 にんじんは立川のスーパーで万引き事件を起こして、「ぼく」をその保安室へと呼び寄せる。
 にんじんが万引きで捕まるのはこれで三度めで、一度めも二度めもこのスーパーでこの中村警備主任に捕まっているのだけど、それにもかかわらず、にんじんは三度みたびこの同じスーパーで万引きをくりかえす。
 ”「よくわからないんですが」とぼくは言った。「どうしてひとつの店でそんなにはでに万引きをしなくちゃならないんでしょう? 続けて何度もやっていれば、当然顔も覚えられていますし、警戒されるはずですし、捕まった場合の処分も重くなるはずです。うまくやろうと思ったら、違う店に行くのがふつうじゃないですか?」”
 なぜにんじんはこのスーパーで三度も万引きをくりかえしたのか?
 ”万引きは子どもの心のメッセージだ” そうきれいごとを言うのは簡単だけど、そこにどういうメッセージがこめられているというのか?
 その答えは「ぼく」にも「ガールフレンド」にも中村警備主任にもわからない。
 しかし、にんじんがすみれ(マザ)から与えられた物語のもとに万引きをくりかえしていたという前提にたてば、とりあえずの答えは簡単に導かれる。
 それはもちろん、「ぼく」をこの保安室●●●●●に呼び寄せるためだ。
 他のどの場所でもなく、中村警備主任がいて、汗と書類と煙草の入りまじったような不思議なにおいのするこの保安室に。

 ではなぜ、この保安室でなければならなかったのだろう?
 この保安室にいったいどんな特別な意味があるというのだろう。

 私たちは「ぼく」とともに保安室の中に立ち、あたりを注意深く見まわす。事件現場に立ち入ったシャーロック・ホームズのように、目を皿にして髪の毛の一本も見落とさないように。

 ”部屋の中には装飾というものがまったくない。花もなく、絵もなく、カレンダーもない。壁にかかった丸いかたちの時計だけがいやに大きく見える。”
 私たちは、その部屋の様子、あるいはその部屋の描写になにか引っかかるものを感じる。誰かが遠い扉をかたく叩く。

 ”部屋は妙にがらんとして、何らかの理由で時の流れに置き去りにされた古い世界の一角のように見えた。”と「ぼく」は言う。
 しかし、その印象は「ぼく」だけのものではない。この部屋には、いや、この部屋を含むこの状況全体には、なにか私たちの記憶の古層をちくちくと刺激するものがある。

 ”でもうまく言えないんですがね、最初にお目にかかったときから何かがわたしの胸にひっかかるんです。うまく呑みこめないものがあるんです。”と中村警備主任は言う。
 でも実をいえば、私たちもこの男にどうにも引っかかるものを感じている。
 彼の慇懃無礼な態度が癇に障るというのはもちろんそうなのだけど、そのことも含めて、私たちはなぜかこの男を知っているような気がするのだ。
 年の頃50代半ばで、白髪のまじった髪は密生して硬く、セブンスターを吸い、以前は警察官だったといい、「ぼく」に対して取り調べまがいの詰問をするこの男を。
 一言一言に胃もたれしそうなくらい嫌味の効いた敬語と横柄さ溢れるタメ口まじりのこの口調を。
 私たちはいったいどこで彼を見かけたのだろう?
 いったいここはどこなのだろう?
 私たちは気持ちを落ちつかせて数を数える。それから夏の午後の冷蔵庫の中にある旧里キュウリのことを考える。
 ここは”小さな三階建てのビル”の三階にある保安室で、
 ”窓に沿って机が三つならび”
 ”スチール棚には警備員の帽子が三つ並んでいた。”
 ”「わかっているだけで三度もやっている。いいですか、三度●●ですよ。」”
と中村警備主任は言う。
 私たちは「ぼく」にならって、その内容をここに実際に書き出してみる。

 階・階・階
 机・机・机
 帽子・帽子・帽子
 万引き・万引き・万引き

 私たちは、部屋の内装をもう一度つぶさに観察する。
 ”部屋の中には装飾というものがまったくない。花もなく、絵もなく、カレンダーもない。壁にかかった丸いかたちの時計だけがいやに大きく見える。”
 ”つきあたりの曇りガラスのはまったドアの向こう側には、どうやら仮眠室があるようだった。”

 ”「眠いんなら、仮眠室で寝たらどうです」”と言う声が私たちの脳裏によみがえる。
 そんなのは嘘っぱちだ、と私たちは思う。彼の言う仮眠室というのは留置所のことなんだ、と私たちは憤る。
 でも、自分がなんでそんなことを知っているのかがわからない。
 それから私たちは、その脳裏の声が今目の前にいる中村警備主任の声によく似ていることに思い当たる。彼を十歳くらい若返らせたら同じ声になるかもしれない。

 私たちはひどく混乱している。
 頭がくらくらして、メモ用紙の字が躍り出しているように見える。
 踊り出す。

 階・階・階
 机・机・机
 帽子・帽子・帽子
 万引き・万引き・万引き

 ”「踊るんだよ」”と羊男は言う。

 頭の中でパチンと音がして、それですべてがつながる。
 あるいは、誰かがどこかですべてをつなげる。
 『ダンス・ダンス・ダンス』だ、と私たちは思う。
 私たちがこの中村警備主任に会ったのは、この『スプートニクの恋人』からさかのぼることおよそ十年前に誕生した『ダンス・ダンス・ダンス』の物語世界の中だった。
 そのとき彼はまだ40代半ばで、背が高く、手が大きく、よく日焼けしていて「ぼく」に漁師というあだ名をつけられていた。
 十年の歳月は彼の身体のあちこちに贅肉となって降り積もり、”背が高く””ずんぐりとした体格”に変え、”手がいやに大きかった””指がひどく太かった”に変え、”髪は見るからに硬そうで””白髪のまじった髪は密生して硬く”に変えてしまっているが、そのなつかしい慇懃無礼な口調と愛飲している煙草の銘柄は変わっていない。
 彼のもっとも目立つ特徴である”鼻の上に真横についた傷”は、今はちょうど黒縁眼鏡のブリッジに隠れているが、眼鏡をはずせばその傷あとも相まって、”その目は月から拾ってきた石のように冷ややかに見え”る。

 彼がいるこの保安室は、かつて『ダンス・ダンス・ダンス』の「ぼく」が事情聴取を受けた赤坂署の取り調べ室だった部屋だ。
 ”壁にはこれ以上シンプルには作れまいという感じの時計がかかっていた。それだけだった。他には何もない。カレンダーもかかっていないし、絵もかかっていない。書類棚もない。花瓶もない。標語もない。茶器セットもない。”(ダンス・ダンス・ダンス)
 ”部屋の中には装飾というものがまったくない。花もなく、絵もなく、カレンダーもない。壁にかかった丸いかたちの時計だけがいやに大きく見える。”(スプートニクの恋人)
 時の流れと月の光に晒されて、部屋の位置も用途も広さもが変わってしまっているが、その飾り気のなさだけは今も確かに保たれていて、そこには、『ダンス・ダンス・ダンス』の「ぼく」がかかされた嫌な汗と自筆させられた膨大な量の無意味な書類と、漁師と文学が延々と吸い続けた煙草の残り香がしみついてしまっている。
 ”煙草と書類と人の汗が、長い歳月をかけてひとつに入りまじったような、不思議なにおいがした”(スプートニクの恋人)

 すみれ(マザ)は、あのユキがいて、メイがいて、ユミヨシさんがいて五反田君がいる古き良き物語世界の一角をこの『スプートニクの恋人』の物語世界に持ちこみ、にんじんはその『ダンス・ダンス・ダンス』の一角から鍵を盗み出して、『スプートニクの恋人』の「ぼく」に手渡す。
 それはハルキワールドを構成する物語から物語へ脈々と受け継がれてきた大切な鍵であり、「ぼく」とすみれが閉じこめられているこの密室の堅牢な扉をこじあけるために必須の鍵だ。
 しかし、その鍵の意味するところをこの物語の中に開示することはできない。そんなことをすれば、その重要な意味はたちどころに月の光に洗い流されてしまうことだろう。
 だから、「ぼく」は思い切ってその鍵を川の中に落としてしまう。

 月の光の届かぬ川の中に。

3‐3‐2.氷晶は溶けて雨粒となり

 「ぼく」は鍵を川に落とす前に、にんじんに向かって自分自身について語り、そして雨降りの川について語っている。

 すみれが文書1で『すみれ』という物語の成り立ちについて語ったように、ここで「ぼく」は『ぼく』という物語の成り立ちについて語り始める。
 しかし、すみれと出会うまで、彼らから『すみれ』という物語を与えられるまで、「ぼく」の中にあったのは物語世界ではなく、論理世界だった。
 論理世界は、物語世界のように他の誰かの世界とひとつにつながることはできない。それゆえに”ぼくは子供の頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。” ”家族の誰とも気持ちが通じあわなかった”
 「ぼく」の中には物語のための場所がなかった。
 では「ぼく」は物語を語らなかったのかというと、そうではない。
 『ぼく』は論理世界でありながら、それにもかかわらず物語を語っていたのだ。
 その事実がここではじめて明かされる。
 ”ぼくは遠くにあるどこかの町をよく想像したものだ。そこには一軒の家があって、その家にはぼくの本物の家族が住んでいた。【中略】それが本来のぼく【ぼく(ドウタ)】がいるべき場所だった。ぼくはいつもその場所のことを頭の中で思い描き、その中に自分を溶けこませた。”
 「ぼく」(マザ)は「ぼく」(ドウタ)のための物語を語っている。
 でも、「ぼく」(マザ)の中にはその物語世界を広げるための場所がない。
 だから、「ぼく」(マザ)は、家で飼っていた犬にその物語を託していたのだ。生まれながらのレシヴァである犬に。
 ”雑種だったけど、とても頭の良い犬でね、一度何かを教えれば、いつまでも覚えていた。毎日【犬を】散歩に連れていって、【ぼく(マザ)とぼく(ドウタ)の】二人で公園に行って、ベンチに座っていろんな話をした。ぼくらは気持ちを伝えあうことができた。”
 しかし、その犬が死んでしまうと「ぼく」(マザ)の語ってきた物語は失われてしまい、「ぼく」(ドウタ)のいるべき場所もなくなってしまう。
 ”犬が死んでからというもの、ぼくは部屋に一人でこもって本ばかり読むようになった。”
 物語を語る場所を失った「ぼく」(マザ)は、「ぼく」(ドウタ)の居場所を本の中に求めるようになる。中編で「ぼく」(ドウタ)がすみれの書き上げた物語の中にレシヴァとして入っていったように、「ぼく」(ドウタ)はレシヴァとなって幾多もの物語世界を転々と旅するようになる。
 そうすることで「ぼく」(ドウタ)は本の中の物語世界に居場所を得るけれど、それは「ぼく」(マザ)の語る物語世界ではない。「ぼくら」は結局、気持ちを伝えあうことができなくなってしまう。
 「ぼく」(マザ)は”なにか困ったことがあっても、誰かに【ぼく(ドウタ)にも】相談なんかしなかった。【ぼく(ドウタ)のいない論理世界にもとづいて】一人で考えて、結論を出して、一人で行動した。”
 でも、すみれと出会い、物語世界を内に育むようになって「ぼく」は変わる。
 論理世界をもとに論理的にものを考えていると、”一人ぶんの考え方しかできなくなるんだということが、ぼくにもわかってきた。” 論理世界であるというのは、”ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。”

 そして、「ぼく」は川について語り始める。
 ”ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。”
 私たち一人一人は、それぞれの視点から開かれた自分だけの世界、すなわち『私』を持っている。もし『私』という世界が、純粋に私個人の経験のみから形作られていたなら、それはとてもこぢんまりとした狭量な世界となるだろう。そこでは私が直接に移動した範囲が世界の広さであり、私が直接に体験した出来事だけが世界の歴史となるのだから。
 もし『私』が物語ではなく論理であったなら、それが私にとっての現実世界になってしまう。
 では『私』が論理ではなく物語であったなら?
 『私』が物語であったなら、私はあなたを信じることであなたの語るあなたの世界を、あなたの物語を、ほんとうのこととして受け入れることができる。そうすることで、あなたにとっての現実は、私にとっても現実となる。私の現実世界は私の行ったことのないところまで広がり、私が直接に体験したことのない出来事がこの世界の歴史に刻まれていくことになる。
 一人一人の、雨粒のように小さな物語世界は、そのようにして互いに融合しあい、水たまりとなり、川となり、海となって、私たちが今素朴に信じているような、遠い昔に始まり遠い未来までつづく、宇宙という無限の広がりを持ったこの客観的世界を、あるいは集合的物語世界を、かたちづくるのだ。

 もし『私』が物語ではなく論理であったなら、私だけはその物語の海に溶けこむことができない。私はみんなが物語としてどこまでもつながりあっていく光景を河口からいつまでも眺めていることしかできない。かつて論理であった『ぼく』がそうしていたのと同じように。

 「ぼく」は、にんじんから受け取った、数多くの人々のしがらみがべっとりと重くしみついた大事な鍵を、この客観的世界へと流れこむメタファーとしての川に落とす。
 月の光の届かないどこかで、誰かがその意味をひもといてくれることを信じて。誰かがその鍵を錆びついた鍵穴に差しこみ、力強く回してくれるその日を願って。

 私たちは、この手のひらの鍵に目を落とす。
 そこには、数多くの人々のしがらみがべっとりと重くしみついている。
 私たちはそれが合い鍵なんかではなかったことを静かに悟る。
 その鍵が、「ぼく」が川に落とした鍵そのものだったことをようやく理解する。
 『ダンス・ダンス・ダンス』の世界から持ち出された鍵は、『スプートニクの恋人』の世界でこの客観的世界へとつながる川に落とされて、『1Q84』というかたちで私たちの手に渡っていたのだ。

 鍵はすでに回され、扉は開かれている。
 そして、観覧車は最後の一周の、その終盤へとさしかかる。

3‐3‐3.夢の終わり

 「ぼく」(ドウタ)にとって、すみれ(マザ)が語るこの二周めの後編は、すみれから与えられた物語であり、すなわち夢だ。
 そういう意味で後編に入ってからずっと、「ぼく」は夢を見、夢の世界を生きている。
 ”ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること――すみれが書いていたように。”
 与えられた物語の文脈に沿って生きること。
 桃太郎は桃から生まれ、猿はカニを騙し、かぐや姫は月に還ること。
 ときどき「ぼく」には、それが登場人物にとってのただひとつの正しい行為であるように思える。

 ”でもそれ【与えられた物語】は長くはつづかない。いつか覚醒【与えられた物語の終わり】がぼくをとらえる。”
 すみれ(マザ)は地の文でそう語ったあとで、「ぼく」へ電話をかける自分の姿を「ぼく」に想像させて、「ぼく」に最後の夢を与えて、語ることを終える。
 ”ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。【中略】ぼくは横になったまま、沈黙をつづける電話機をいつまでも眺めている。”
 すみれから「ぼく」へ与えられた物語はここで終わり、物語は再々度そのラストシーンへと足を踏み入れる。
 語る者と語られる者は漸近し、電話が届く距離にまで接近する。

3‐3‐4.ほんとうの終わり

 一周めのラストで”「もう一度電話をする」”と言って電話を切ったすみれは、今ようやく、今度はマザとして「ぼく」(ドウタ)へもう一度●●●●電話をかける。
 「ぼく」(ドウタ)の枕もとに電話のベルを響かせて、与えられた物語が終わったあとの夢のまどろみから「ぼく」(ドウタ)を覚醒させる。
 ”でもあるとき電話のベルが鳴りだす。”
 すみれ(マザ)と「ぼく」(ドウタ)は、ふたりで最後の夢をほんとうのことにして、『ぼく』という物語はついに、与えられた物語の外で、物語それ自体の力で前へと進み始める。
 ”「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。”
 それは現実世界のすみれから物語世界の「ぼく」にかけられた電話で、すみれの声は”とてもクールに。とてもリアル●●●に”響く(傍点引用者)。
 ”血のにじむような苦労して、いろんなものをいっぱい乗り継いで、ここまで――いちいち説明してるとキリがないんだけど――戻ってきた”のだとすみれは言う。
 私たちはその言葉に深く同意する。
 すみれは本当にいろんな物語といろんな登場人物たちをいっぱい乗り継いでここまで戻ってきたのだ。私たちも今なら、その真意と、その旅路の長さと複雑さを理解することができる。

 ”「あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの。惑星が気をきかせてずらっと一列に並んでくれたみたいに明確にすらすらと理解できたの。わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。」”
 すみれはこの二周めで「ぼく」(マザ)とひとつになって(「ぼく」に会わなくなって)、そのマザの高みからこの多物語世界を俯瞰することで、「ぼく」がこの物語に不可欠な視点的ドウタであることと、「ぼく」はすみれのドウタであり、すみれは「ぼく」のドウタであることが理解できたのだと言い、
 ”ねえ、わたしはどこかで――どこかわけのわからないところで――何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門をつくるときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できてる?」”と問う。
 ”「できてると思う」”と「ぼく」が答えて、
 「できてる」と私たちも答える。
 ”「ここに迎えにきて」”とすみれが言って、電話は切れる。

 電話が切れてなお、物語は静かにその本当の終わりに近づいていく。
 マザとドウタを隔てていた距離は、声が届くほどに縮まる。
 ”ぼくはどこにでも行くことができる。”
 ”そうだね?”
と「ぼく」(ドウタ)が問い、
 ”そのとおり。”とすみれ(マザ)が答える。

 「ぼく」はベッドを出て窓からまだ暗い空を見上げる。
 ”そこには間違いなく黴びたような色あいの半月が浮かんでいる。”
 現実世界の電話ボックスの中のすみれを照らしていた”黴びたような色あいの半月”と同じ月が、物語世界の「ぼく」を照らしている。
 月は今も変わることなく、すべてを一様に照らし出している。
 その月の、相異なる物語世界をにべもなくひとつにつなげてしまう月の光が――マザとドウタの本当の意味を洗い流し、「ぼく」(マザ)と「ぼく」(ドウタ)を現在の「ぼく」と過去の「ぼく」の文脈に回収してしまうその月のレトリックが――物語が終わった先の、マザとドウタの合流地点の存在を保証している。
 ”これでいい”と「ぼく」は言う。

 ”それからぼくは指をひろげ、両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかですでに、静かにしみこんでしまったのだ。”

 物語が終わるとき――、
 マザが物語を書き上げるとき――、
 マザはどこかで筆を置き、物語とその物語の中のドウタに別れを告げなければならない。
 そこには別離の痛みがなければならず、絆の切断がなければならず、すなわち、血が流されなければならない。
 しかし、ここではいささか事情が違っている。
 この『スプートニクの恋人』第一部・第二部という長大な物語のほんとうの終わりには、マザとドウタの別離はない。
 そこにあるのは、別離ではなく、すみれ(マザ)と「ぼく」(ドウタ)の再会だ。
 では、この『スプートニクの恋人』本来のマザである「ガールフレンド」と、彼女が長らく語り続けてきたドウタである「ぼく」の別離はどうなったのだろう?

 この二周めのどこかで、いつの間にか「ぼく」(マザ)はすみれ(マザ)になり、『スプートニクの恋人』の語り手は「ぼく」(マザ)ではなくなっていた。
 「ぼく」(マザ)は「ガールフレンド」に語られる者、「ガールフレンド」のドウタであるが、すみれ(マザ)はそうではない。
 それゆえ、「ガールフレンド」と「ぼく」のマザとドウタの絆は、「ぼく」(マザ)がすみれ(マザ)となったそのときに、「ぼく」(マザ)がすみれ(マザ)になるという行為それ自体によって断ち切られていたのだ。
 すみれが、どこかわけのわからないところで、包丁を研いで、石の心をもって、その絆の喉を象徴的に切り裂いたのだ。
 そのどこかわけのわからないところで流された血は、もうすでに静かにしみこんでしまっている。
 だから、ここではもう血は流されない。犬がその喉笛を切り裂かれる必要なない。
 絆は断たれることなく、むしろかたく結びなおされて物語は終わり、その終わりの先の約束された場所でふたりは再会する。
 「ぼく」とすみれは手をとりあって、この『スプートニクの恋人』という物語世界から煙のように消える。

 その消えた先は、もはや問うまでもないだろう。
 ひとつの長大な物語が終わり、ひとつの広大な世界が私たちの中から姿を消す。
 そうしてできる私たちの心の空白は、しかしすでに十全に満たされている。

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