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田尻久子さんの本

田尻久子さんが書かれた「みぎわに立って」という随筆を今読んでいる。田尻さんは熊本で橙書店という本屋(喫茶も)を営まれている方だ。
田尻さんの本を読むのはこれで二冊目で、一冊目は「橙書店にて」という本だった。よく立ち寄る本屋の一角に、赤銅色の表紙に手書き風にタイトルが書かれているのが平積みになっていた。地味だけれどなんか惹かれるなと手にしたら、装丁は有山達也さんだった。リニューアル前のクウネルを愛読していたのでこのお名前には勝手な親しみがある。直観を信じてそのまま求めた。

熊本の裏路地にある小さな書店と田尻さんは書かれているけれど、その存在は知る人ぞ知るというものになのだろう。熊本にゆかりのある作家さんらをはじめ、谷川俊太郎さんや伊藤 比呂美さん、ある時は村上春樹さんもお忍びで朗読会をされたこともあるそうだ。「アルテリ」という文芸誌もご自身の責任編集で発行されている。

路地裏の店は熊本地震で被災し場所を移されるのだが、田尻さんは書店の店主として、店で起きた日常やお客とのやりとりから感じられた事を、淡々と見つめて文章にされている。行ったことも見たことも、会った事もないのに、”橙書店”という場所に親しみが沸いてくる。

田尻さんの選書は、写真家の川内倫子さんの「相変わらず弱者の本ばかりおいてるね。そこがぶれないよね。」と言われてご本人も合点がいくように、
水俣病やハンセン病入所者、戦争の被害者などの声なき声を集めたものが多いそうだ。耳をそばだてて聴きたくなるのは、弱くかそけき声から発せられる声だという。その信念に沈黙する。

その田尻さんの随筆の中で一段と熱を帯びるのは、作家石牟礼道子さんについて綴った文章のように思う。私は石牟礼さんの名前は知っていたけど、本を実際手にしたことはない。知識として知っていた、石牟礼道子さんと結びつく水俣病というキーワードに怯んでいたからだ。読むためにはこちらの準備がいると思っていた。
でもこの田尻さんの本を読んではじめて、石牟礼道子さんを読んでみようと思った。今その時かもしれない。

さっそく、苦海浄土を図書館で借りてきた。衝撃に胸が苦しくなりながら、私にとって「水俣病」という言葉は、テストで答えるために覚えた言葉でしかなかったと思い知った。ただし辛く苦しいだけでもなかった。

石牟礼さんが向き合った患者たちからは、病に侵され己を無くしていく恐怖だけではなく、故郷の豊かな海をまぶたに想って感情のままに讃える強さがあった。想い浮かぶのは穏やかで美しい豊穣の不知火海。海の、魚たちの、恩恵を全身で浴びたからこそ出てくるまっすぐで強い土地の言葉。
こんな表現は正しくはないかもしれないけど、海を畏敬し、手で土をにぎる人たちの逞しさを、私は美しくて強いと感じたのだった。
身勝手な都合によって損なわれたものへの哀しみと怒りと、そこで生きるしかなかった人たちの強さを石牟礼さんの本で知った。読まないでいるより、読めてよかったと思う。

田尻さんは、著書の「みぎわに立って」の中で、自分も加害者のひとりだと語っている。

この静かで小さな集落で起きたあまりにも大きな事件に、加担していない人などいない。「水俣の猫」より

私は、この見開き1ページの随筆に、目立つ付箋を貼ってたびたび読み返している。田尻さんの深く、厳しく、優しい目線が全部はいっていると感じられるからだ。(もちろん、これ以外のページにもたくさん貼っているけれど)

田尻さんの書く文章を読むと、私にしっかり「見つめて」「捉える」という、書く対象への根本的な向き合い方に気づかされる。書くなら肝を据えなければと、勝手に定規のように使わせてもらっている。

そしていつか熊本へ。
橙書店をこっそり訪ねる旅をしてみたい。


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