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仁丹と煙草と整髪料と

駅に向かう上り坂を歩いている。ここまでくると正面に電車の高架が見えて、あと少しという気になる。目標が定まって自然と速足になった矢先、
キィーと車輪がこすれる高音がして急行がゆきすぎた。急行が行ってしまうと、2分もしないうちに駅で通過待ちをしている普通電車が出てしまうのだ。ここから駅までおよそ150メートルぐらいか。改札を通ってホームに上がるまでの長い階段(エスカレーターは反対の入り口側にある)の事も思ったら、次でいいやという気になった。

めっきり履かなくなったヒール靴の代わりに、いつでも走れるようにと最近はエアマックスばかりなのに、電車に間に合うよう駅まで走ることをあきらめると、私の日常には「走る」という必要性はほとんどなくなるのだった。

ーほぼ、走りません。
ぼそっと独り言ちて速足をゆるめた。小学校の裏門を過ぎ、手芸屋の軒先のワゴンの中の端切れセットを横目で見ながら歩いていく。

駅までのこの道はバス道でもあった。ただし道幅が狭く、バス同士ではすれ違えない。バスどころか、普通車もどちらか一方が道路が少し膨らんだ所で道をゆずらないと通ることはできない。その道路の端っこを、歩行者や自転車が電柱の内側に引っ込むようにして行き交うのである。
小さい子供がいるとヒヤッとすることもあるけれど、注意が必要な場所という認識が人を慎重にさせて、比較的穏やかに車も人も道を譲り合う。


見送った電車の次のアテを大体つけて、親子連れの自転車と、コンビニの袋を下げて携帯に夢中の韓国メイク風女子に道を譲った。身体をよけて端につめていると、私の後ろからグレーのハットを被ったおじいさんがすり抜けていった。駅までの道を急いでいたのか、よけている私を後ろでじれったさそうにしていたのかもしれない。
申し訳なさがよぎるなかで、通り過ぎたおじいさんからある匂いがした。
久しく嗅いでいない香り。速足のおじいさんの後ろ姿を見送りながら思い出した。
これは、仁丹の匂いだ。


仁丹(じんたん)というのを今の人はご存じないかもしれない。私も詳しくはないけれど、小さい銀色をした粒状の錠剤?で、今でいうとイメージはフリスクみたいなものだろうか。
私の父はよく食事や煙草の後に口にしていた。いつもポロシャツの胸ポケットに入っていて、父が取り出そうとすると辺りにふわっと独特の匂いがたった。思えばあれは生薬の匂いなのかもしれないけれど、子供の私にとっては決して良い匂いとは思えない。父が口に放り込むたびに私は鼻をつまんで顔をしかめた。
父は娘がのけぞるのを面白がって、わざと私の顔に自分の口を近づけて息を吐いたりした。これは、「お髭じょりじょり(伸びた髭を顔におしつけられる例のやつ)」と並んで、私が嫌がる事ランキングの上位に長い間君臨していた。

色は銀色。ましてやあんな匂いのするものをなんで好んで食べるのだろう。でもその頃は、結構その匂いをさせている大人が周りにいたのだ。ほぼ男の人、大体だれかのお父さんやおじいちゃん。
私の中で仁丹は、いつか大人の男の人が食べなくてはいけなくなるものという認識になり、やがて大人になるまだ幼い弟を憐れんだ。

のけぞったり、不満を訴えたりしながらも、いつしか仁丹の匂いは「父親」の匂いの象徴となった。もうひとつ、洗面台に並んだ緑色の瓶に入った整髪料の匂いと一緒になって。

そんな風にしていつも仁丹の匂いをうっすら漂わせていた父が、最近(といっても前回の帰省から1年半以上経過)その匂いがしないのではないか。
私を追い越したおじいさんから懐かしい匂いが漂ってくるまで、そんなことすっかり忘れていたのだ。

前回の帰省時の父の胸ポケットには、辞められないセブンスターの箱とライターが入っていた。それともうひとつ小さなチャック付きビニールケース。その中にはテッシュに包まれた愛犬「福」の骨の欠片が入っている。
見事な白髪になった父の髪はもうセットされることもなくなった。実家の洗面台からは、蓋を開けるだけで目が開くような清涼感漂う緑色の瓶も消えていた。

父からは煙草の匂いしかしなくなっていた。
懐かしい匂いはこんな風にして、だんだん遠くなっていく。

***

駅までのあとわずかの道を、おじいさんの帽子と背中を追いかけるような形で後ろを歩く。おじいさんと言いながら、年齢は自分の父親と同じ年ぐらいか、もしかしたら少しお若いぐらいかと予想をたてる。
すぐ後ろを歩いていても、もう仁丹の匂いはしてこない。私が道をゆずって進路をせき止めている間に、さっと口に放り込むおじいさんの映像を思い描いてみる。思い描いてみたら父の癖も思い出した。
父は手の平にある銀の数粒を二度に分けて飲み込んでいた。手のひらを口にあて、一度で少し、二度目で全部。

思わぬ形での懐かしい匂いとの再会。
おじいさんは駅のロータリーを素通りして、反対側の商店街へ向かって行かれた。改札の手前でその背中を見送りながら、父の面影を想った自分がいた。



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