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感情だけが息をしていた


 前回の日記が8月の頭ごろだったのを今更思い出し、スマホの日付を見たら今や8月が終わろうとしている。
 確かもう少し、頻度を上げて日記を書きたいなんて言っていたような気がするのだけれど、あの意志はなんだったのか。結局こんな感じになってて、相変わらずの自分勝手さだと思う。
 

 でも、日記を書けなかった理由は一応あって、一つは身近に思っていた人が亡くなったこと、もう一つは前回の日記に書いていた、「阿波しらさぎ文学賞」の最終選考に残っていた彼が受賞したこと。
 悲しいと嬉しいの振り幅が広すぎて、まるで自分が二人いるような感覚に陥り、一体私はどこにいて何を考えているのが「正常」なのだろう?と思いながら、感情の起伏に身を任せていたら現在に至る、という感じだった。
 
 日記の特性をフルに活かせるような出来事だったと今は思うし、タイムリーにその時の自分が感じたことの詳細を書き残しておいてもよかったのかもしれない。
 だけど、その時の自分は、ただただ受け入れて生きることしかできなくて、文字にすることが難しかった。書けば書くほどフィクションになってしまいそうだったから。それくらい両極端な出来事だったし、日々冷静なようでそうじゃなかった気がする。感情だけが息をしていた。

 悲しみを埋めるような喜び、喜びを覆うような悲しみ、そのどっちもが同時に存在して拮抗している時、私という人間は、そのままを生きることを選んだ。

 その日その日の大きな喜び/喪失の苦しみを、時間の流れと己の自律神経や感情の起伏に沿って受け入れていくことが、一番の対処法だった。無理に文字に起こすことはしたくなかった。
 自分の中にある気持ちやないまぜになっているもの全てが「私だけのもの」である時間が欲しかった。夢であってくれという願いと、夢じゃないんだとわかってしまう心が、それぞれのベクトルで存在していて、なんてあべこべなんだろうと思っていた。

 正直、未だにどちらの出来事も大きな出来事すぎるな、と思っているし、そのどちらもが自分にとって必要な出来事であることを認める他もないし、結果的に私は前進していくしかないのであって、やっとこうして日記が書けるようになったのもその一歩であることに間違いはなくて、今は安心している。

 まだふわついてはいるけれど、とりあえず最近は受賞した彼、鎌田くんの作品をスペースで朗読させてもらったことで、多くの人が読んだり聞いたりしてくれて、阿波弁のイントネーションとかそのイメージを感じ取ってくれた人も多く、嬉しい。またそのスペースで受賞者の方と関わることができたりして、縁が結ばれて有難い。

 私も頑張るぞ、頑張るしかないぞ、と意気込んでいるので、今日は持ち帰った仕事をやりつつ(書類の構成考えるくらいだけど)短歌の方も進めたい。

 短歌っていいな、小説もいいな、って思っている私の、このブレブレな感じ、人によってはあんまりいい思いをしないのかも知れなくて、でもそれはなんとなく自分でもわかっているんだけど、でも両方好きだから天秤みたいに傾きつつも、表現の奥深さを学んでいけたらいいなって思っている。
 頑張っている人が周りにいるから焦りもするし、才能なんてないんじゃないのかと不安にもなるし、ちょっと気を抜けば簡単に諦めて、逃げることができちゃうんじゃないかって思う。才能がないってことに悩むのは努力が足りていない証拠でもあるから、とにかく、そう、真面目にやれよ私、ってことだ。

 『何かを手放して そして手に入れる そんな繰り返しかな』
 ってYUIの曲が頭の中でずっと流れている。
 本当にその通りだよ。今まさに、私はその真っ只中にいる。


 朝から降り続いている雨が止んだ。秋がそこまできている気がする。


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