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忘れても懐かしんだら美しくしてしまう心の機能、なぜ



 昨夜は気がついたら眠っていて、起きたら2時だった。日記を更新していないことにすぐ気づいたが、書くことは諦め、布団の中でうだうだ過ごすうちに朝がきた。ところどころ眠っていたので夜間の睡眠時間は合計で4時間半程度だろう。その後9時前まで寝てしまった。一番やっちゃいけないやつ。眠りに着く直前までずっと何かしらの本を読む、それ以外ずっと本のことを考えていて、現実との切れ間が食事と風呂くらいだと思う。正直食事が一番面倒で、作る過程も食べる過程も両方億劫である。その時間が勿体ないとすら思ってしまう。時折短歌のことも考えているが、うまくまとまらない。スランプなのかもしれない。ただいまはひたすらに読みたくて読みたくて、もはやその欲のためだけに脳が動いているような気がする。そういう時期って、実は年に数回はあるので、自分が納得するまで付き合おうと思う。(短歌がうまく作れなくて、逃避しているのかもしれないけれど。)

 8月23日の出来事。

 先週の金曜日に、紀伊国屋書店へ『短歌研究9月号』の取置きをお願いしていたので、それを取りにゆくために準備する。天気は曇り。部屋を通り抜けてゆく風は儚げに冷たくて、そろそろ七分袖のシャツとか着ようかな、と思ったのだが、でも日差しが所々出ていて暑い気もするな、やっぱり半袖にしようと思いTシャツを選んだのが失敗。店内はガンガンに冷房が効いていてとても寒かった。二の腕の冷ややかさに触れるたびに鳥肌が総立ちしていた。なんとか無事に取置きの本を買い、そのまま友人と落ち合ったのでしばらく話をした。

 友人には少し前に工藤玲音さんの本を貸していたので、その感想を聞いた、『氷柱の声』もよかった、と言ってくれた。そうだよね、この作品に関してはうまく言葉にできないけれど、忘れたくない作品だよね、とか話していた気がするのだけれど、深く話すことができなかったな、と今ごろ思い出した。たぶん、言葉を選ばなければ至ってシンプルに伝えられるのに、言えなかったな。あの物語には怒りが込められていたように思う。幾人かの該当する人に対して、それが間違いだとか、ダメなことですとか、そういうことを伝えたい怒りではなくって、『あなたたちの勝手な憐憫の目で勝手に私たちを光らされても困るんだよ』、という怒り。それを、私は突きつけられて、どことなく傷ついたのだ。反論するつもりもなくって、その通りだよな、って思って、勝手に涙で心を浄化させてしまっていて、いい人間であるように『させてもらっていた』わけであって。読了後のえぐられた心を自己回復させるための「感想」は、そりゃ、うまく表現できないよな、だって、結局、私は私を守りたいってことだもんな、と、友人と話しながら思った。ここまで思っていたのに、そこを話せなかった自分は、やはりまだ自分をどこか庇いたい気持ちがあったのかもしれない。だからこそ唯一私が言えるのは、忘れたくない作品だよね、っていうこと。大切にしたい作品だということ。

 

 そのほか本の話をしたり(筒井康隆さんの『残像に口紅を』がやっぱり面白そうなので早く読みたい)、仕事の話をしているうちにあっという間に時間がたち解散した。ただ、歩いて5、6分ほどで着くところに住んでいるので、ばいばい、と言いつつもどこか安心感がある。「また後でね」と同義くらいの、ばいばい、だ。いつでも会えるって、嬉しいよね。このご時世だから、気はつかうけど。


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 帰ってきてからやっと待ちに待った『短歌研究』を読む。正直今まで、怖くてろくに読んでこなかったのだけれど、今回、どうしても読みたいと思った。どれだけたくさんの歌人がいるのか知りたくなったから。同世代がどれだけいて、どんな歌を詠んでいて、どんな世界を見ているのか、知りたかったのだ。じっくり読んだ結果、宇宙だと思った。それぞれの星をのぞいた気分。広い。無限だ、無限すぎるとすら思った。素晴らしい歌はたくさんあって、こうしている間にも生まれているのだろう。何かを見つけているのだろう。

 Twitterでフォローさせてもらっている人たちの名前も見つけた。やはりよかった。鈴木ジェロニモさんの歌も発見した。二首掲載されていて、どちらもいい目線だな、と思ったのだけど、そのひとつに

 『アームから暗い穴へと揺れ落ちてようやく柔らかいぬいぐるみ』

という歌があって、ちょうど昨日、友人と会った時にゲームセンターでクレーンゲームをやって遊んだのだけど、可愛いぬいぐるみがあったのでやってみようと何度か挑戦したが、全く取れなかった。アームはだすだすだし、ぬいぐるみを撫でるくらいしかしない、こんなひ弱なアームがいつ本気を出してこの子をしっかり掴み、この穴へ落としてくれるだろうか、なんて思ううちにすっぱり諦めた。

 ぬいぐるみがある場所は、目が痛むくらいに白いライトで照らされているのに、落ちる場所は暗くてなんだか不穏なのだった。妙に怖い。人工芝のマットすらなんか怖い。「落ちてく過程ぐらい楽しくしてやればいいのに」と思ったのだった。今回は取れなかったけれど、揺れ落ちたぬいぐるみは必ずこの不穏な暗い穴を通ってあたたかい人の手に抱かれる。その「喜び」って、果たして人だけの感情なのだろうか。なんて、この歌を鑑賞しながら思ったのだった。

 実体験と重ねて誰かの歌を鑑賞するのも楽しい。小説もよく似ている。登場人物と自分と重ねることもあるから、やはり文学、文芸って、いいな、素晴らしいな。そんな気持ちをひしひし感じた1日だった。


 それが昨日。



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 今日は8月24日。今日は朝から猫をお風呂に入れ、ゆっくりと読書して過ごしている。どこにも外出しない日。掃除やら何やら、やるべきことをやっていると読む時間は細ぎれになって、そわそわする。なんだかそのうち本が飛びそうだな、とか思う。疲れているのかもしれない。

 今は雨が降っている。日記を書いているうちに、窓の向こうでザーザーと鳴っていることに気付き、見たら大雨である。なんて突然。洗濯物はセーフ。猫はすやすやと眠っている。雨の音に負けないように蝉が鳴いている。あの蝉が何という名前なのか、知る由もないけれど、寿命の短い彼らは一生懸命鳴いているのだな、と切ない気持ちになった時もあったけれど、最近では一週間以上生きているのも少なくはないらしい。進化しているってことか。私も進化したいよ、何か。どこか。


 今日は早めに眠ろうと思う。眠れればの話。時間を大事にしたい。朝から大事にしたい。


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