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すごろくで立ち止まったところの日記

20240228

 昨日今日と、珍しく2連休だったのでありがたくのびのびと過ごした。昨夜見た動画でミスドが食べたくなり、お昼は絶対にミスドを食べると決め、朝から調達してきた。いつもは買わないオールドファッションを買った。なぜなら温めるりトロトロというか、やわやわというか、あの個性的なかたさがなくなるということを知り、試してみたくなったから。やってみると本当にやわやわになって美味しかった。新感覚。しかしハニーレイズドで試したので超甘かったよ。やったことない人は試してみてね。本当にびっくりする。でもオールドファッションのあの固さを愛している人にとっては物足りなくなるかもしれないので自己責任で。
 ドーナツに満足した午後からは、夫も午後休だったので共に家の掃除や整理整頓を行う。知らぬまに散らかっていた諸々を躊躇なく捨てたり整頓してみたことでみるみる心が軽くなっていくのがわかり、単純だなあと思いつつも、この単純さがあるから今の私は生きてられるのだなとも思う。

 時間は前後するのだけれど、午前中にミスドを調達し、そのほかのものも買い物をして帰っていた運転時に、「死ぬまでの間に生きている期間があるので、それまでにやりたいことはやっておきたい」ということを、ふと考え始めた。いつもそうやって突発的にテーマが思いつき、ぐるぐると考え始める癖がある。時々それは声に出して盛大な独り言になる時もあるのだけれど、今日はそんなことを考えていた。あと、友達は少ないけれど、友達が少なくて悲しいと思ったことがなくって、いまいる友達の存在が十分ありがたく、そこに過不足は存在していなくて、満ち足りているのだなあとも思った。子どもの頃からひとり遊びが得意だったので、今でも一人で何かをすることに問題はなく、夫と過ごすことも、猫と遊ぶことも、本読んだり、つくったり、好きなことしてるし、美味しいご飯を作ることに力入れてみたりとか、なんかもう十分大丈夫というか、私の人生は人と関わることに重きを置いていないんだなあ本当は、ということにも気づいた。ひょっとしたら冷たい人なのかもしれないとも思った。だけど、それでもまた、私はこのまま生き続けるだろうし、なんならもっと人の目を気にせず(いやもう気にしていないに等しいのだけれど、なんというか、身内の目と言えばいいのか)好きにやっていきたい気持ちもあるので、とりあえずいいようにやっていきたいのだった。今で十分、好き勝手やっているのに何をいうか、という気持ちもあるのだけれど、この欲望はどうも永遠続きそうである。
今あるものをうまく使いこなすような、そんな感覚で、ずっと続けて、「死ぬまで生きたな〜」という気持ちをいつか抱きたいのだった。

20240303
 ひな祭りの今日は岡山へ。おかやま文学フェスティバルに行ってきた。
去年はおかやま文芸小学校に行ってきたのだけれど、今回は表町ブックストリートへ。商店街の中にずらりと並ぶ古本市と一箱古本市。とても新鮮で、賑やかで、楽しい時間だった。店主さんとも積極的にお話しつつ、いい本にも巡り会え、こうした一期一会は必ずのちのちの私に元気を与えてくれる。午前11時から午後3時までの短い時間の開催なのが、ぎゅっと濃密になってていい感じ。
夫と私は買いたい本が被るときとそうでない時があり、今回も何度か夫が手にした本について、「それ家にあるよ(私が持ってる)」といったやりとりがあった。時々、チューニングを合わせるように重なる本の好み、そしてまたズレる感じ。(そんな本読むの?って驚くことは多々ある。変な意味じゃなくて、私だったら読むに結構気合いがいるようなやつ)
そのずれと重なりがうちの本棚の現状なのだよな・・・と思うと、今後ますます増える気がしてならない。それすらも楽しいのであった。
 そうしてほくほくとした気持ちのまま帰ってきて、思ったよりもたくさん歩いたので、気がつけば布団に入って爆睡。日曜日が休みっていいなあ、と何度も思った日だった。

20240305
 あいにくの雨だったけれど、本棚のパーツを買ってこよう、と思い、ニトリへ。無事に目当ての棚板をゲットできたので、これで週末ゆっくり組み立てるぞ、と計画していたのだけれど、午後から休みになった夫はいそいそと組み立て始めた。週末じゃなかったのかい。楽しみすぎて我慢できなくなったみたいで、どうしても今日、組み立てたいのだろう、黙々と一人で取り掛かっていた。私は連日歩き回ったのもあり少しお腹が張っていたので重たいものを持てる自信がなかったので、応援役。気づけば1時間ほど横になってしまったのだけれど、夕方には完成していた。見事な本棚。置くべき場所にすっぽり、ピッタリハマってくれた本棚。とりあえず旧本棚から新本棚へ移し替えると、おお。すっごくいい感じ。と言うのも今回買ったニトリの本棚は、たま子さんが使っているものと同じシリーズのもので、見た目がとにかくシンプルで良い。無駄がない感じ。しかし重さに耐えてくれるのだろうかとハラハラしていたが、案外丈夫そうである。とりあえず完成したので、週末は本の入れ替えをしようねえ、ということになった。インテリアに関するセンスが私には全くなく、使い勝手が良ければいいという感じなのだけれど、夫はそういうわけでもなく、割と色々とこだわりたい方なので、8割くらいは任せて、2割くらいは意見を述べよう、ってスタンスで言っている。でもそれで案外私もしっくりきてしまうというか、順応性が高いのか、はたまたインテリアについて深い関心がないからなのか、すぐに親しんで気に入ってしまうのだった。そんな日。

20240307

産むこと、生まれること、私が私を生きることについてなんとなく考えた日。
別にそんな大きなことではないのだけれど、それもこれも仕事が今日はなんだかゆるやかで、平和で、なんともない日だったというのもあり、思考に余白ができていたから、そんなことを考えていた。(仕事はしたよ・・・)
ずうっと思っていたことの一つに、私は、私の保護者に、育てられたようにしか育ってきていない、という考えがあって、それ自体は別に当たり前のことなのだけれど、なんか言葉にしておきたいことであって。私を育ててくれた人がこのように育てたから、今の私があるのであって、そしてそのもっと奥、深いところにはDNAというものもあるのであって、なんだか、なるようにしてなった部分と、ならざるを得なかった部分が重なり合うところもあれば、その時期その時期の私を囲んでいた人間関係だとか、物理的環境だとかが私を作っていたということも踏まえ、私が生きてきた人生がこう、紆余曲折あったけれど、どうにかここまで、丸く、おさまってくれてよかったなあというのと、そしてこれから、親になっていくのだということが、納得できるような、できないような、担うことが大きくて深すぎるような、それでいてどこか、私は生まれ変わっていくような。
母親になること、夫もまた父親になることは、選ばなくてもよかったかもしれなかったり、選ぶべきではないことかも知れないと思ったことでもあり、そういった選択肢があったし、なかったかも知れないし、なんにせよ、もうなかったことにはできない道に立っているのだから、できるだけ良い方へいけるように、生きて行けるように、努力していきたいと思うのである。育てられたように育ってきた私が、今度は自分のお腹から出てきた子を、育てられるように育てていくのだから、できれば、私と同じ道をいって欲しくないというか、同じようにはしないからね、という気持ちがある。幸せにするからね、と誓うのではなく、今、幸せだから大丈夫だからね、大丈夫よ、の気持ちで、いつもいたい。だからこそ今できること、これからできること、産むこと、生まれること、私が私として生きていくことを、うまく言えないけれど、誰かの悲しみにすり替えてしまうのではなく、一個の責任として、ちゃんと楽しく、ありがたく、生きていきたいのであった。そんなことを思いながら仕事をしてしまったので、今日は少しだけ、心が元気なのだった。





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