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快楽と苦痛について研究することは政治哲学者の仕事になる。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第7巻 抑制のなさと快楽の本性

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

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人の「抑制のなさ」とは何を指すのか?

「意思の弱さ」「脆弱」「忍耐のなさ」といったことと同じなのか?違うのか?

ソクラテスは行為者の無知によって「抑制のなさ」が表出するというが、それならば、無知のありかそのものが問われないといけない。しかし、人は低劣な行動をすべきと思って抑制のない振る舞いはしないのだ。

そこで、問いは次のようになる。

抑制のある人とない人を分けるのは、対象によるのか、対象への関わり方によるのか、あるいは両方なのか?と。

例えば、眠っている人、狂気の人、酔っぱらった人、これらの人たちは対象についてしかるべき知識があったとしても、その知識(知性)を発揮していない。

情念に左右されている抑制のない人とは、これらの状態と変わりがないのである。よって、行為にいたる実践レベルが問題になる。更にいえば、実践を揺り動かす欲望の扱い方だ。

抑制のなさは快楽と苦痛が関わるが、快楽は人間に必要なもの(身体的な類で食べ物や性愛の営みに関するものなど。節制や放埓が関わると同じ対象に関わる場合のみ)と、それ自体として超過を許すもの(勝利、名誉、富など)がある。

後者においては無条件に、抑制がない、とは言わない。「金銭に抑制がない」というように限定する。問題は前者だ。

身体的な享楽の点で抑制がなく、選択することによってではなく、選択と思案に反して快いものの超過を追求する人ーあるいは苦しいものを超過を避ける人ーが無条件に「抑制のない人」と呼ばれる。「意思の弱い人」とも呼ばれるが、意思の弱い人は限定された対象との関係において、そう呼ばれる点で「抑制のない人」と異なる。

抑制のなさが醜いのは、欲望に負けるからだ。しかし、自然的な欲求に従うことが、つまりは共通な欲望に従うことは赦されることが多い。ただ、「たくらみ」については、否定的である。知性が低劣な方向に向くことは歓迎されないのである。

また、耐えることは抵抗することだが(抵抗力の不足する人は、意志が弱く、脆弱)、抑制することは打ち勝つことで、抑制の方が望ましい。その望ましい抑制には、超過する快楽や苦痛に抵抗を示すことも含まれ、意志表示として評価される(醜い快楽のために行為する人は「放埓」)。

他方、「せっかち」「衝動的」「性急さ」は熟慮不足か情念が熟慮を飲みこむとの観点で、「抑制のなさ」とみなされる。

快楽と苦痛について研究することは政治哲学者の仕事になる。無条件に美しい、善いと言ったりする際、目的の設計者が政治哲学者であるからだ。また、性格の徳と悪徳をもろもろの苦痛や快楽に関わるものとみなし、「幸せな人」を「喜ぶ」という名で呼ぶ。

いかなる活動も、それが妨げられないなら、快楽であり、完全ではないが、幸福とは完全なものに属する。よって、拷問にかけられたり、大きな不運に見舞われていても、その人が善ければ、その人は幸福であるーーというような主張は戯言に過ぎない。同時に、幸運の超過もまた幸福の妨げになることにも留意すべきだ。

快楽はさまざまにあり、それは人によって異なるように思えるが、実際には同じ快楽であろう。人々はあまりにしばし身体的快楽に向かうため、それをもって「快楽」であると認識されてきた。また、快楽が善であることも明白だ。

<わかったこと>

前半において快楽は扱いにくいもののように見え、そこで抑制の大切さが説かれている。アリストレスなき後の極めて禁欲的な教えの基礎のような印象を受ける。知性主義の危うさも、現代人としては思う。

だが、後半で一気に快楽を肯定する展開。見事だ。凡人であれば、快楽を論じてから抑制について言及するような気がする。

さて、ぼくがこの巻で刺激を受けたのは、「快楽の超過」がいかに人々の歴史のなかで(表立って議論しずらい、しかし大切だと暗黙の了解を得た)テーマとなってきたか?という点だ。

例えば、luxuryという言葉は1300年代以降、性的に溺れるとの文脈で使われた。その後、何百年かを経て、性的な意味合いが薄れて「超過」だけが残り、必要ではないものにおぼれる状態を意味するようになる。贅沢とのニュアンスも、ここから生まれている。

ロマン主義とluxury産業の勃興が時期的に重なることを「快楽の超過」の観点から再考するのも良いかもしれない。

21世紀現在においても、luxuryという言葉を倫理的に肯定している向きは多数派ではない。しかしながら、快楽の超過を善とみる傾向は強くなっている。「身体の声に従うまま」という言葉など、超過かどうかはひとまずおいて、この文脈で考えた方が良さそうだ。

アリストテレスの記述からラグジュアリー論を考えるヒントがでてくるとは思っていなかった。

冒頭の写真©Ken Anzai


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