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幸福は賞賛の対象ではなく祝福の対象である。賞賛の対象は徳だ。

文化の読書会メモ。

2023年一発目は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』(朴一功訳)第一巻 人生の目的。今回、アリストテレスとの適切な距離を探ることも目的にしているため、納富信留『ソフィストとは誰か?』と交互に読むという変則的なカタチをとる。

<まとめメモ>

あらゆることは善を目指しているが、それらの目的は階層としてある。支配的な技術の目的の方が、この目的に従属する他のいかなる目的よりも望ましい。

それでは、従属しない目的とは何か?

知識でいえば政治学である。国家に必要な知識、市民は何を学べば良いのか、これらを規定している。個人の善よりも国家の善の方が、より大きく完全である。よって研究の目的は「一種の政治学」(倫理学と政治学が地続きである、との意味)になる。

論述にあたっては、大まかな真実の輪郭を示すことで十分とする。分野により求められる厳密性は異なるが、政治学・倫理学には「大まか」が相応しい。なぜなら、ここでの目的は認識ではなく、行為だからだ。

最も善きものは何か?

どのような人も幸福であると答える。しかし、幸福とは何であるかについては一様ではない。かといって、個々の見解を詳細に検討するべきではなく、最も流布している、あるいは論拠があると思われる見解だけを調べれば良い。

優先すべき出発点は、そのなかでも「我々に知られているもの」であり、「無条件に知られているもの」ではない。ヘシオドスの『仕事と日々』を参照。

すべてをみずから悟る者こそ、こよなくすぐれた人、
そして、他人の語る善き言葉にしたがう者、これまた立派な人。
けれども、みずから悟ることなく、他人から聞いても
その言葉を胸に留めぬ者、そのような者こそは碌でなし。

生活には3つの類型がある。「享楽の生活」「政治の生活」「観想の生活」だ。大衆は享楽を幸福と考え、教養がある行動的な(政治にある)人は幸福は名誉と見なす。しかし、名誉は他人の評価に左右される。我々が求める善は行為者に固有のものだ。そこで、人は徳が政治生活の目的ともみなすが、何もしない徳とは不完全である。

こうすると普遍としての善を問うことになる。

この探求は師プラトンのイデア批判を含むため、立場としてはやりずらいところがあるが、真理を尊重する。

善は実体があって存在する。したがってそれらに共通のイデアはあり得ない。仮に一つのイデアとして語るなら、それは一つのカテゴリーにおける善である。そして、人間が行ないうる善でなければならない。

多くの目的が存在するが、最も善きものは究極的なものである。複数、究極的なものがあれば、その最も究極的なものを我々は求めている。常に、それ自体で選ばれ、決して他のもののゆえに選ばれることのないようなものが、無条件に究極的である。幸福とは、このような性格のものだ。

名誉、知性、快楽、あらゆる徳は、それらを通じて幸福になろうと思って選択する。逆にそれらのために幸福を選ぶということはない。また、究極の善は自足的なものだ。自足的とは孤立ではなく、社会的存在としての人間を前提にしたうえでのものだ。

ただ、さらに幸福とは何かを明確に語ることが望まれている。植物的「生」、動物に共通する「感覚的生」ではなく、理性を備えた行為的生、それも「活動」としての生である。人間としての機能は、理性に即した魂の活動である、あるいは理性を不可欠とする魂の活動と考えるとすれば、人間にとっての善とは、徳に基づく活動といえる。条件として、完全な人生も加えねばならない。1日の短い時間で幸福にはなり得ないからだ。

これによって、善の輪郭は素描できたので、出発点となる原理(アルケー)についての検討をくわえる。

善きものには3つあると言われる。富や権力など外的な善、身体にかかわる善、節制・勇気・知恵などの徳にみる魂の善。本来的な善は3つ目だ。(外的なものに属さない)行為や活動こそが目的であるとの主張とも一致する。

だから人生における美しく善き事は、しかるべき仕方で実際に行為する人たちこそが達成する。そして、徳に基づく行為は自然本性的に快い。よってそうした行為は美しさを愛する者にとって快く、それ自体でも快い。

しかるに、幸福とは最善にして、最美、かつ最も快く、それらは分離してあるのではなく、すべてこの性質を備えていないといけない。そして、神的なものである。その意味は、徳の褒賞や目標は最も善きもの、神的で、祝福されるようにみえる、ということだ。また、永続的でもある。つまり、幸福は賞賛の対象ではなく祝福の対象である。賞賛の対象は徳だ。

よって、徳に基づく諸活動が人間の生の決め手であるとすれば、至福な人は誰もみじめにならない。

わかったこと

交通事故の現場検証にはアインシュタインの理論は必要なくニュートンの理論でよいという比喩を、かつて哲学を専門とする知人に言われたことがある。

細かく定義することに拘わるのは、賢明さの証ではなく、場合により愚かな証拠である。しかるべき必要なところで細かいところに思考を及ばせ、その必要のないところでは「大まか」でよしとする。

アリストテレスのこの記述を読んだとき、そういえば、と思った(デザインに関するさまざまなアプローチも適用範囲を間違ってはいけない、ということが盛んに議論される)。我々はあらゆることで、ことの軽重を巡って熱く議論するが、人生の目的をめぐり理性の適切な使い方を教えているのが、この『ニコマコス倫理学』ではないかと思った。

21世紀の人間からすると、性別や家族、あるいは動物に関して受け入れがたい記述もある。科学の発達により、今ならさらに明解な説明ができる部分もあるだろう。しかし、そうした部分をひとつひとつ削り落としていくと、アリストテレスの言わんとすることが、極めてまっとうな大人の成熟なものであることに気づく。

「あのアリストテレス」が2300年以上前に考え、人類の哲学に多大な影響を与えてきた人の姿が、一見、決して「なじみのない人」には見えない。しかし、徳とは何なのか?について、近代にいたるまで多くの哲学者が論じてきたところを視野に入れると、そう簡単に親しみをもってはいけないと思えてくる。

やはり、アリストテレスへの距離の持ち方を探るのは、21世紀を生きるにも良い拠り所ではないかとの勘が働く。

写真©Ken Anzai


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