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文化の読書会

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読んだ本の趣旨を1章ずつ1000字以内で書いていっています。
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記事一覧

SDL(Service Dominant Logic)的なものは、実は遊びなのかもしれない

 今回はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」読書会の3回目です。今回は、手分けをして最後まで…

ことばの多面性と限界で遊ぶ営みとしての“詩”。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読…

文化の読書会、前回からヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫版)を読み始めまし…

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『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)‐第4章「遊びと法律」、第5章「遊びと戦争」

『ホモ・ルーデンス』の3回目。今回は、一緒に読書会を進めているメンバーが各パートを分担し…

真の文化はつねに、どんな観点から見ても、正しいフェアプレイを要求している。

文化の読書会ノート。 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第6章 遊びと知識  第11章「遊ビノ相…

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)‐第2章「遊び概念の発想とその言語表現」、第3章「…

『ホモ・ルーデンス』の2回目。第2章は、様々な言語における「あそび」という概念の由来や背景…

文化は原初から遊ばれるものであった。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読む(2)第2…

文化の読書会、前回からヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫版)を読み始めまし…

文化は遊びの”なか”に始まるー「文化から遊び」でも「遊びから文化」ではない。

文化の読書会ノート。 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第2章 遊び概念の発想とその言語表現 第3章 文化創造の機能としての遊びと競技 ブルクハルトとエーレンベルグは古代ギリシャを例に「闘争から遊びへ」との見方を適用した。つまりは闘技の隆盛から堕落という道を分かりやすく描いたようにも見えるが、それに対してホイジンガはNOと言う。 「闘争から遊び」でも「遊びから闘争」でもない。「遊び的競争のなかにある文化」へ向かっているのだ。文化は遊びとして始まるのではなく、遊びから始まるの

「武士道」は遊びであり、文化を形作る

 今回はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」読書会の2回目です。今回は、「2. 遊び概念の発想…

『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)‐序説、第1章「文化現象としての遊びの本質と意味…

今回から『ホモ・ルーデンス』を読んでいく。まずは序章と第1章。「遊び」とはなにかについて…

自由で人生に不可欠で時限的な「遊び」

 今回からホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んでいきます。今回は、「序章」と、「1. 文…

日常生活から、敢えて離れて「演じる」こと。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読む(…

文化の読書会、今回からはヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫版)を読みます。…

遊びの規則に対して懐疑はありえない。

文化の読書会ノート。 ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』序説および第1章 文化現象としての遊…

『ニコマコス倫理学』第10巻-快楽の諸問題と幸福の生

哲学初心者の僕がアリストテレスに向き合う。今回はいよいよ最終の10巻を読む。快楽や苦痛を考…

快楽と幸福。“teleiosな状態”はどこにあるのか。リストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(10)。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。 今回は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の第10巻。いよいよ最終巻。毎回注記してますが、巻といっても、現代的な感覚でいえば“章”に近いです。今回は、幸福に関する内容。アリストテレスが、ひとまずこの本において述べられたいことのゴール(そして、その先)が述べられています。 読書会での設定文献は↑の翻訳だが、最近になって以下の文庫