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女性チーズ職人の知識が科学実証主義の男性社会に「流出」した18世紀。

読書会ノート

ポール・キンステッド『チーズと文明』第7章 イングランドとオランダの明暗 市場原理とチーズ

キリスト教カルヴァン派の労働倫理観が中世末期以降、経済発展を後押ししたと言われる。

だが、実際をみれば、それ以前、ベネディクト会とシト―会によるチーズの製造は商業原理に沿い、修道院が荘園領主の経済モデルとなっていたのである。その下敷きのうえに、イングランドとオランダの市場原理の影響を受けたチーズつくりとビジネスがあった。

イングランドの荘園制は15世紀に崩壊をはじめ、ヨーマン(自作農民)と領主の間で土地使用料を巡りコンフリクトがおこり、生活が立ち行かなくなった小作農は都市に仕事を求めた。

そのなかでもチーズは安定してつくられていった。1536年、ヘンリー8世は576あった修道院の解散をはじめるが、修道院の荘園で働いていたチーズ職人はヨーマン階級に雇われたのだ。

16世紀以降の特徴は、地域特産品生産の加速であり、その先鋒となったのがイーストアングリア地方である。ノーフォーク、サフォーク、エッセクスだ。

19世紀のイングランドの地図(『チーズと文明』227p) 

16世紀、イーストアングリアはロンドンのチーズとバター市場を独占しただけでなく、フランドルやフランスに輸出、軍への供給、各地の海を行きかう商船の食糧として使われた。ただ、16-17世紀の製造法は1500年前のコルメラが書き残したものとあまり変わらない。

17世紀初頭、ロンドンで高品質のバター需要が増え、チーズとバターの値段が逆転した。これにより、チーズ職人たちがチーズができる前のクリームをなるべく多く掬い取りバターの量を増やしたため、脂質分が減った低品質のチーズが出回るようになる。

当初、この戦略転換はうまくいったようにも見えたが、上質チーズが求められ、イタリアからパルメザン、オランダからエダムが輸入されるようになり、苦境に陥る。しかも、17世紀半ばのサーフォークの洪水から乳牛の病気が発生しチーズは大幅減産となる。

そこで登場したのが、ロンドンから北にあるチェシャ―だ。油脂をとらない全乳チーズは人気を博した。18世紀はじめ、ロンドンに海岸沿いに運ばれてくるチーズの90%以上がチェシャ―チーズとなった。結果、チーズ商人はイーストアングリアはバター、チェシャ―はチーズと棲み分けをおこなった。

ここでチェシャ―には課題があった。ロンドンへの輸送が複雑で日数を要するため、製造側在庫の期間も長くチーズが乾燥しやすい。それで厚みと重量を増やすが、余分な水分は内部の腐敗を招く。塩も内部に均一に浸透するに時間がかかる。17世紀半ば、チェシャ―が表舞台にたってからの150年間、水分と塩のコントロールのための新技術を必死に求めたのだ。

第一に18世紀初め耐久性のあるプレス機で水分含有量を減らし、第二に同世紀半ば、塩をカードに混ぜ込む方法が採用され、第三に油膜によって水分蒸発の速度を抑えることができるようになった。一方、南部の製造者たちは、スコールディングという方法で水分と塩の問題を解決したが、この方法がアメリカでのチーズ製法に影響を与えていた。

18世紀に出現した新しい傾向は、特に上流階級の紳士や裕福な起業家の間で科学実証的な方法が農業に適用されるようになったことだ。ウイリアム・マーシャルによる論文もその一つ(1796年)。

これにより「乳しぼり女」たちがもっていたチーズ製造の神秘性が取り除かれ、19世紀半ばのジョセフ・ハーディングの著作にみられるよう、チーズ製造知識は男性支配のパブリック領域に流出していく。

しかし、一度は女性チーズ職人の位置は劣勢になるものの、20世紀にはいると再評価される。その背景には、1851年、米国にチーズ工場がはじめてでき、米国産の安価なチーズが大量輸入されたことで、農場での伝統的チーズが技術・経済・文化的側面から脚光を浴びたことがある(1920年代、イングランドでのチーズ消費の75%が輸入品だったが、イングランド生産のチーズの75%は伝統製法によっていた)。

だが第二次世界大戦における生産統制を経て、1950年代には工場生産が95%にまで達することになる。しかし、20世紀末、伝統手法が見直されたとき、それを再活用する土壌は残っていた

オランダがチーズで存在感を示すようになるのは14-5世紀である。穀物栽培をあきらめ、北海やライン河口を拠点とする外国貿易を基軸とした頃である。

貴族とユトレヒトの司祭により11-14世紀にかけての大規模な土地改良の結果、酪農の発展が可能になったからだ。そして、土地改良の労働対価として、小作農に自由と土地の所有権に近いものを与えたことで、比較的大きな農場経営ができた。15世紀半ば、風車は排水を目的としたのである。

以上を背景に、都市部の増え続ける人口を支えるための穀物輸入を賄う、オランダは高価な輸出品を開発する必要があった。ビールやチーズがそれだった。

16-18世紀、他のどの欧州の国よりもオランダの経済は急成長する。農業も高度に専門化する。家畜の群れは5-6 (16世紀初め)→15(16世紀半ば)→25(17世紀半ば)と変化していく。1803年、国内全体の年間取引量は8500万トンであったが、狭い国土のなかでのこの数字は群を抜いていた。そして世界各地に輸出され、商船の食糧としても常備された。

イングランドでのバターとチーズのような問題は、オランダにおいて輸出で成功していたエダムとゴーダに関してはバター生産に左右されない方策で回避し、スキムミルクからスパイスチーズを開発した。

帝国主義の黄金時代の終焉期にはいってもエダムとゴーダはオランダ経済に大きく貢献。1910年、年間工場生産量が1万9千トンで農家生産量の1万8千9百トンを上回った。工業化、技術力、専門性のいずれもレベルが高く、オランダは成功したチーズ生産国といえる。

ただし、20世紀のおわり、多くの国で伝統製法のチーズが再評価されはじめたとき、オランダにそのようなものは姿を消していた。

<分かったこと>

この章に入って、とても不思議な感覚を味わった。

数年前まで、このような歴史の本を読んでいて近代に入るとホッとしたものだ。科学実証主義の普及により、理に合わないことが不当に力をもっていたことが排除されていく変遷を知るのが心地よかった。

しかし、今回、そうした心地よさよりも、この時代に何かを無理やり押し込んだんだなあとか、この勢いが良きものを消し去ったのだろうと想像しながら、「失敗するプロセスの検証」として読んでいる自分を発見したのである。オランダのチーズがちっとも美味しそうに思えない。もちろん、今の時代の良さを享受しながら、今の時代をさらに良くするための思考だ。

乳しぼり女の知恵が男性支配のなかで「実証不可能で信用ならない」とさげすまされたのは、先週、ローマ大学でウンブリアの高級ファッションメーカーのブルネッロクチネッリが名誉博士号をうけたとき、彼が「農民の子は都市郊外の中学校で田舎者と馬鹿にされた」と語る、1960年代のエピソードにあるバックグランドと重なる。

イングランドとオランダが「近代的経営」を推し進め賞賛された指標が、前世紀末から変化しはじめているのを、『チーズと文明』の著者は指摘している。そのとき、オランダに農村の伝統手法が残っていなかった事実をよく考えるべきなのだろう。

写真@Ken Anzai



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