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エツィオ・マンズィーニの著書の「はじめに」下訳を公開。

Xデザイン研究所株式会社が2023年10月刊行を目標に準備を進めている、ソーシャルイノベーションの第一人者、エツィオ・マンズィーニ著"Livable proximity --   ideas for the city that cares" (Egea 2022) の「はじめに」下訳を公開します。パンデミックの真っただ中にマンズィーニはこの本を書いたので、若干の時差を感じるところもあると思いますが、問題意識の的はずれていません。いや、ますますど真ん中にきています。

書籍の日本語版は監修をぼくと山崎和彦さんが行い、翻訳メンバーは2人に加えて本條晴一郎さん澤谷由里子さん山縣正幸さん森一貴さんの合計6名です。下記「はじめに」は、ぼくの担当です。見出しを含めた段落構成や太文字などはnote用に追加・調整しています。1の部分は読むにややとっつきにくいかもしれませんが、2以降は1ほどにはひっかかるところは少ないはずです。

あえて下訳を公開するのは、この本のテーマをコアにコミュニティをつくっていくために、早い段階から内容に関心をもっていただきたいからです。尚、推敲するにあたり、下訳についてもアドバイス歓迎です。特に1の部分!あっ、邦題は最後の最後に決めます。

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はじめに

1. 「近接」をもとにした現代にふさわしい都市をつくる


この本は、都市とそのこれからに関する社会的な対話に寄与するつもりだ。かなり以前から広く語られてはいたが、近年、殊に注目されている概念を蘇らせようと提案をしている。住んでいる場所から歩いて数分のところで、日常生活に必要なことを満たしてくれる「近接都市」である。

それだけではない。機能的な近さは、人の関係の近しさにも通じる。

出逢い、良いことやら悪いことやらに翻弄されるなかで励まし合い、お互い同士あるいは環境に対するケア。目標を共に達成するための協働もある。近い生活圏では、こうした経験をする機会も多い。

行きつくところ、都市は「市民ひとりひとりの生活」と「生活できる近さのイメージ」の2つの要素から成り立っている。生活していくに際して必要なものすべて、そのための行動をともにする他人、この両方をみつけられる場である。 

近さのある都市、現在ではしばしば「15分都市」と呼ばれている。進むべき方向を明確かつ簡潔に提示している。その概念には力がある。しかしながら、このビジョンを現実のものにするにあたっては、深くまで切り込んだ文化的な方向転換と強い政治的な意志を要する。ということは、専門という冠のもとの断片的集積にしかなっていない都市観とは最終的に縁を切るーー。

そのうえで、既存のインフラやガバナンス形態をくまなく見直す作業が必要だ。とりわけ、社会、ひいては現代の都市を特徴づけている不均衡と闘うことが求められる。都市において近さを重んじようと提起することは、単に一部の特権的な地域の占有物であってはならない。まちの隅々にまで及ばなければならないのだ。すべての市民の権利であるべきだ。

この本が追究している根本的な課題は次である。“近さという新しい概念を出発点において、私たちは現代にふさわしい都市をつくれるだろうか?”

本書が示す答えはイエスである。可能である。さらにつけ加えると、今世紀に入ってからの20年に渡るソーシャルイノベーションの足跡が、どうやって現代の都市をつくるのかを具体的に示してくれている。少なくとも、どこから始めればよいかは分かる。

今にいたる歴史が教えてくれるのは、それぞれにまったく違うテーマに数えきれないほどのやり方で立ち向かってきたこれらのイノベーションは、本書で示唆している方向にふさわしいコミュニティと近さのあり方を生み出せる、ということだ。一緒に何かを手がけること、それらを実践する場、これらとコミュニティの間に脈絡を通じさせられるのである

以上の斬新的な取り組みが行われるオープンで躍動的な近接のシステムは、同時にコミュニティを生き返らせるためにも協働するのだ。近さのハイブリッドとも言えるが、おおかた、自由に使えるデジタル機器に大きく依存している。

一方、近さを中心に据えた都市の提言をこれらのイニシアチブによって具現化する場合、ソーシャルイノベーションと近さの関わりは、逆の方向にも解釈できる。近さを重視した都市が、近年に行われてきた数多のタイプの試みに共通の視野を提供するかもしれないのだ。このように、ここで提案することは都市にさらなる強さを与え、その強さがさらに広まる期待がもてる。

*訳注:「近接」は英語のproximity の訳語である。空間や時間の近さを意味する。本書では、近接だけでなく、「近さ」あるいは「近さを重視」と言った複数の表現を使っていく。proximityは中立的な言葉ではあるが、上述にあるように、空間的近さは精神的近さなどの意味合いを必然的に招くからだ。因みに、循環型経済の議論でもproximityが鍵となっている。

近さがまちづくりの鍵になる

2. 環境と社会のもつれが、近接都市への再構築を促す


つまるところ、近さを重んじる都市というテーマに新鮮さはない。この条件をほぼ整えている都市はすでにある。あるいは、都市の一部に存在しているのがよくあるケースだ(前近代から受け継がれた遺産である。交通機関に限界があり、日常生活のすべては近隣の空間でこなすしかなかったのだ)。

さらに、本テーマは名前を変え、またしても流布するようになった。環境面からの動機- 空気汚染を減らすための交通量削減- や社会的動機- 孤独との戦いや生活の質の向上- により推し進められており、いくつかの都市ではこの考えに基づいたプロジェクトやプログラムが立ち上がっている。

このような経緯から、この20年間に起こったこと、そして現在起こっていることを踏まえ、今日、本テーマについての議論を復活させることが急務になってきた。環境と社会の危機のもつれがますますはっきりとしてきたのが、先を急がないといけない背景だ。環境の悪化により、対処方法と時期を問わなければならなくなっている。社会では富を増やし続ける人々と富を持たない人々との間の格差が広がっている。そこで都市の仕組みをつくり変えないといけない。

この難しい状況にあってパンデミックが爆発した。私たちが経験している何から何までもが、劇的な意味を持つようになった。この出来事がもたらす結果を完全に予測するのはまだできないとはいえ、すでに十分に明らかになっているいくつかの局面を本書は示している。

実際、次のことは確実だ。

パンデミックはいたる所で都市の未来に関する論議、より一般的に言うならば、社会技術システムの物理的・地域的な側面についての議論を再燃させた。そればかりではない。パンデミックはこれまでには想像できないような規模と深さで行動を変容させた。

最も顕著なのは、生産活動と消費の重心がデジタル次元に移ったことだ。仕事、勉強、娯楽のオンライン化の割合が高まった。日常の移動、社会的関係、都市とそのサービスの利用など、あらゆることがその渦に巻き込まれた。

今日、このような現象を目の前にしたとき、近さに注目した都市の考え方はとても現実的に思える。即ち、パンデミック以前から指摘されていた環境と社会的な課題に対し、前向きで実行可能な指針になり得るのである。だが、それはまた、パンデミック後の社会に対する最良の提案とも言える。特に、「すべては自宅へ/から」という不意に出現した都市に立ち向かうためだ。事実上、自らの家に閉じこもった個人による非都市である。自宅に籠ることがもはや義務でなくなっても、便利さや気楽さを優先してこのような生活を続けるだろう。

結局のところ、すべてが身近にある近さのある都市こそが、ディストピア的な眺めに抗う視点となりうる。不幸にももの凄い勢いですでに広まっている巣ごもり風景は、ディストピアとしか言いようがない。

ディストピア的な都市からの脱皮が求められる

3.  近さ・コミュニティ・ケア、そしてデジタルプラットフォーム

.したがって、この問題は新しいものではない。もはや多くが語られ、多くの人が意見を交わしている。この論戦に本書は何を加えるのだろうか。最低限の目標としては、都市とそこで生活する人々の経験はさまざまな側面と次元でどのように関わっているか、これらを紐どきながら、近さというテーマをはっきりとさせて深い考察に貢献することである。この基本的な動機を背景としながらも、より野心的な目標がある。

次の3つに集約される。

第1は"コミュニティの構築”に関するものである。多くの著者や著作は一つの考え方に収斂している。私たちが直面した複数の危機を考えると、社会基盤をたてなおし、コミュニティを(再び)つくることが必要であるとの主張だ。

しかし、この目標がひとたび明示されると、次の段階に進めなくなるのが通常である。“言うは易し、行うは難し”、だ。そもそも、どのようにコミュニティを(再び)つくるのか?あるいは、すでにコミュニティが存在するならば、そのコミュニティをつくり変えて長続きさせるには、どうすればよいのか?

本書はその答えを示したい。簡潔に言えば、コミュニティは設計できない。コミュニティとは数々の出来事から生まれる社会形態だからだ。なしえることは適切な環境を整え、必要であれば、新しいコミュニティが生まれるような出会いをつくり出し、会話がはじまるような刺激を与えることだ。ここで近さという問題が浮上するのである。

経験上、コミュニティにはほどよく近い距離が環境として必要だ。機能的な要素と関係的な要素、これらの間が十分に多種多様でバランスのとれている近接性を重視したシステムである。ただ、どう頭をひねったとしても、この条件があればコミュニティが実際につくられるという保証はまったくない。

しかし、近さの都市と呼ばれるに相応しい条件の数々は、新しいコミュニティの誕生と存続をより確かなものにする、と確信に近いレベルで言えるのだ。そこで、最初の問いに戻る。具体的に言うと、デザインすべき対象はこれらの有利な条件そのものである。

2つ目のポイントは1つ目のポイントと関連する。都市、“近さそしてケアの関係”に注目しながら、近さの都市をどのようにデザインするか、である。昨今、ケアについて多くが論じられている。その中身はケアワークや人と人の間、簡単にいえば、人と生活ネットワークを構成するすべての要素との間に存在する交流についてである。これまでのサービス都市がケアに無頓着な都市になっている。この経緯と理由について盛んに議論されている。そこでは、住民はもはやケアを提供できる市民ではない。サービスの(潜在的な)利用者か顧客としてしか見なされていない。

本書は、こうした議論を踏まえ、ひとつの仮説を展開する。ケアのできる都市を再生するためには、新たなコミュニティを生み出す取り組みが必要であり、これを実行するためには新しい世代のサービスも求められる。それはエリア全域に広がったコラボレーティブなサービスで、新しいコミュニティのための刺激と支援インフラとなりうる。

ソーシャルイノベーションをよくみてきた立場からすると、これは次のような複数のレベルで同時に運営することで実現可能であることがわかる。

サービスや活動を市民に身近なものにし(ローカライゼーション)、コミュニティの構築を促し(ソーシャルライゼーション)、関係するアクターのネットワークを拡大し(インクルージョン)、当初は考えられなかった関係者を巻き込み(多様化)、異なる領域からの参加を水平につなげる(調整)。

3つ目のポイントは“物理的な近さとデジタルの近さの関係”である。ここしばらくの間、私たちが行動する物理空間とデジタルの空間にあって、ハイブリッドな性格が強まっているとの議論が続いている。そして、パンデミックによってもたらされた大きな社会実験が、このプロセスを加速させたと言及される。

本書では、このハイブリッド要素を考慮しない近さ・コミュニティ・ケアの議論は今の世の中では成立しないと考えている。近さ・コミュニティ・ケアは物理的なものに根差しているにもかかわらず、デジタルがますます重要になってきている。それなしにはもはや存在し得ないのだ。 

一方、現在、デジタル要素の大部分を構成する様々な形態のプラットフォームは中立ではない。各プラットフォームは活動を支援するわけだが、実際、可能になる活動を方向づけているのが特徴だ。そのため、プラットフォームはどのような活動を促進し、支援するのかを明らかにした上で設計する。すなわち、プラットフォームにはどのような社会的形態をつくりたいかの意思が表れている。これらのテーマは、本書の最後を飾るイヴァナ・パイスのエッセイでさらに掘り下げられている。

近さ、コミュニティ、ケアはセットだ

4. 前近代の「近さ」を現代の「近さ」に変える

都市は複雑な有機的組織体である。これを語るにはさまざまな視点を採用しなければならない。全体を上からみる視点と内からの視点だ。この本では、そのうちの2つ目の視点、つまり市民の視点を採用している。この内からのまなざしも、近さやケアを語るに不可欠だ。 

他方、これらの問いについて語れることはすべて参照すべきコンテクストに依るため、語るに際してはいくつかの選択をしなければならなかった。そこで、私がよく知るコンテクストにある事例を主に選んだ。ミラノとバルセロナである。これらの2つの都市では、本書で触れているトピックについてたくさんのことが行われている。

ただ、他の場所でも良い例を見つけることができたはずだ。ヨーロッパ都市の典型的な類型ならトリノからコペンハーゲンまで挙がる。また、他の都市形態や歴史に目を向けるなら、ニューヨークから上海あるいはソウルまでをも候補にできただろう。あるいは、リオの貧民街やナイロビのスラムの密度と近さを語ることも可能だろう。それぞれの都市には、語るべき物語があったはずだ。しかし、語り得る直接的な経験を私は十分にもっていない。よって、この仕事は他の人に任せたい。

だが、それぞれの例が必ず持つ特殊性を認識するとは、他者に他のコンテストで何が語れるかの限界を私たちが知ることであり、逆に特殊な点を認識し解釈する方法さえ知っていれば、それぞれのケースはあらゆるコンテクストに適用できる、とあらゆる人に教えてくれると思う。  

近さを論じるためにヨーロッパの都市を取り上げるのは、確かに最も安易な選択と見なされるだろう。垂直に密度の高い都市(高層ビル群の都市)、低密度の都市(郊外の都市)、インフォーマルな都市(スラム街や貧民街の都市)などと比較した場合、ヨーロッパの都市は実質的に近接都市の提案に近いように思われる。したがって、これらの都市を事例として参照することは、最も容易い選択であることを意味する。その通りである。

しかし、冒頭で述べたように、距離のある都市で長く固定化してきた文化的・運営モデルを壊し、巣ごもりによる非都市化へ向かう傾向を転換させる必要があるなら、この選択は理にかなっているように思える。なぜなら課題が難しいならば(比較的)易しい場所から出発するのが有益だからだ。さらに、私たちが言及している都市には、近さを有効活用した活動やサービスが豊富な地区が(今でも)存在するのは事実ではあるが、何年も前からそれらの質は攻撃を受けている。現在進んでいる社会砂漠化のプロセスを反転させるために何か手を打つ必要がある。そして前近代から残っている近さを現代的な近さへと進化させるきっかけを作らないといけない

ここに留まらない。これらの都市の歴史的な地区では近さのシステムが十分に多様で、関係に貢献するという点でプラスになっているのは事実だ。しかし、そうでない地区もある。このようなところでは、近接都市という概念を、それが最も難しいと思われる地区も含めて都市全体に拡大することが課題である。

新しいコンテクストに合う近さをデザインする

5. 4章の構成とイヴァナ・パイスによるエッセイ

本書は4つの章に分かれている。さらにイヴァナ・パイスによる充実した最終エッセイがある。

第1章は他の3つの章の導入になる。近さというテーマがもつさまざまな意味と現在発展中のダイナミクスを紹介し考察している。第2章は都市とその進化について語っている。都市にある近さの形態という観点から、それを考える。近接に関わるシステムが混合しているのが都市なのだが、3つのシナリオを紹介している。前世紀につくられ遺産として受け継がれてきた都市のシナリオとしての“距離の都市”。そして、現在競合している2つの新しいシナリオは“巣ごもり都市と近さの都市”である。

第3章では都市・近さ・ケアの関係について考え、ケアは人と人、人と世界との交流の一形態であるとする。これが近さを中心とする都市をつくるうえでの基盤になる。サービス都市と呼ばれるものがケアのない都市になってしまったが、そこに至った要因はサービスそのものがどのように認知され実施されてきたかにある、と本書では述べる。ここを出発点として、本書は近さの都市をケアの都市として構築するために貢献する2つの補完的な戦略を示している。

第4章は前章までの提案の核心に迫っていく。つまり、近さとケアをあらゆる都市の基礎とする新しいコミュニティの設計が可能かどうか、また可能とするならどのようにできるのか、ということである。2つのケースを詳細に観察すると、そこに織りなしているものを認識できる。これらのコミュニティは異なる性質とスケールのプロジェクトによってつくられ、しかも長く持続するためのプロジェクトが組まれている。これらのケースから出発して、この本ではより一般的な観点からデザイン戦略の意味するところを論じる。

イヴァナ・パイスによる締めくくりのエッセイでは、都市のためのデジタルプラットフォームがもつ込み入った性質、時の経過に伴う進化、そして適正にデザインされた場合、それらが近さの都市にどのような貢献をすることができるかを示しながら、都市のためのデジタルプラットフォームというテーマを紹介し、議論している

デジタルプラットフォームが近さの都市に貢献

6. 本書成立のきっかけは2020年10月のバールでの会話

本書の内容は、執筆前と執筆中に生まれた多くのストーリーの集積である。著者が、世界の多くの都市―前述したように、特にバルセロナとミラノーで都市づくりのデザインをテーマにした近年の経験がもとになっている。

2020年10月、バールでのイヴァナ・パイスとの会話からこの本のアイデアが生まれた。「近くに住む」というテーマについて話し合ったジョルダナ・フェッリとは、2020 年 11 月、同名のイニシアチブを組織した。本書で提案したアイデアに焦点を当てるために最も有用な事例を惜しみなく紹介してくれたダヴィデ・ファッシ。レクシュミー・パラメスワランとジュリア・ベニーニの両氏とはケアのコミュニティに関するイベントを企画した。

また、ヒラリー・コッタムとリュイス・トレンスも、本書の内容を充実させるために協力してくれた。最後に、アルベルト・フスター、ロジャー・パエスとその他多くのエリサバ社の同僚たちとの出会いだ。彼らとはバルセロナで3年間、都市のデザインというテーマで一緒に仕事をした。

本というのは、その表紙のイメージでもある。息子のマッテオがシエナのパブリコ宮にある700年前にアンブロジオ・ロレンツェッティが描いたフレスコ画「善政の寓話」(*)を現代的に解釈した作品をプレゼントしてくれた。このフレスコ画はまさしく本書が目指している今日なすべきことの多くを表現している。

最後に、本は本である。即ち製品である。つまり、あるグループの仕事の結果である。あるアイデアに投資し、それが実際の本となるよう手助けすることを決めた人々の仕事の結実だ。このためにエジェア社のアレッシア・ウズレンギに私は感謝したい。彼女の信頼と柔軟性、そして専門家としてのコラボレーションが成功に貢献してくれた。

*訳注:以下の記事のなかで、14世紀半ばのこのフレスコ画を掲載している。この絵画のもつ意味の理解のためにも参照されると良いと思う。

** 都市の地区の変遷の事例として、以下、ミラノについて紹介している。NoLoという地区は、本書で取り上げられている。

***全ての写真©Ken ANZAI (書籍には、写真はありません。noteで読みやすくするために挿入してあります)


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