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イタリアの地方の風景と自分の経験を照らし合わせてみる。

今月15日に開催するイタリア地方再生をテーマにしたオンラインイベントでモデレーターを務めます。このテーマをメインに多くの人の前で専門家と議論するのは初めてなので、イタリアの地方に関するぼく自身の色々な記憶を整理している最中です。これはそのメモです。

イベントはウンブリア州の小さな村・ソロメオに本社をおく、エルメスと同等とブランド格付けされるファッション企業、ブルネッロ・クチネッリの創業者の本『人間主義的経営』日本語版刊行を記念して開催します。ただし、経営者の半生記としてだけではなく、地方再生史の文脈にもおいてみようとの試みです。

訳者の岩崎春夫さん、イタリア都市史を専門とする陣内秀信さん、ファッションに詳しい日経新聞の太田亜矢子さん、3人の方と3時間に渡ってプレゼンと議論をします。下記がプログラム詳細です。参加申し込みも、ここから可能です。

そこで、イタリアに住んで31年目になるぼく自身の、今回の話題に繋がりそうな地方の風景に関する記憶を辿ってみようと思いました。3つの時期に分けてみます。

トスカーナのブリケッラ農園が最初の経験だった(1900-1999年)

ぼくは1990年にトリノに来ました。カーデザインの巨匠・ジュージャロと一緒にイタルデザインを設立した実業家・宮川秀之さんのもとでプランナーとして丁稚奉公の修行するためでした。当時、宮川さんはトリノの自宅から毎週末、トスカーナの海よりに近いスヴェレートという小さな町(現在の人口でおよそ3千人)に通っていました。1984年より、仲間と共同でブリケッラ自然農園を経営していたのです。そして有機ワインを作っていました(今も規模を拡大してビジネスしています)。

実業家としての成功をおさめていた宮川さん夫妻は、トリノで人との関係価値の促進や恵まれない人に手を差し伸べる社会貢献活動をしていたのですが、より本格的な舞台の場としてトスカーナの地を選んだのでした。毎週金曜日には450キロを運転してトリノからスヴェレートに向かい、翌月曜日に同じ距離を運転してトリノに戻るとの生活です。

それでたまにぼくもブリケッラのアグリツーリズモ(農家が経営する民宿)にお邪魔するのですが、より頻繁になったのは、彼が近くの丘の上にあった狩の館を買い取って日本とイタリアの文化センターの準備が本格化した1991年からです。今は他の会社の所有のようですが、下の写真の建物です。

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その頃、センターの構想を議論する場の末席を汚していたのですが、まだイタリアに生活して1年ちょっとのぼくには、そこで議論されている内容、言ってみれば文化交流の意味がよく分かりません。多くの言葉が「飛び交っている」。だが、自分自身の言葉に置き換えるには、ぼく自身の日常生活の絶対的な経験が不足していたのですね。イタリアに来る前に英国のスポーツカーメーカーと一緒にやっていたビジネス経験など、ここでの議論にほとんど役に立たなかったのです。大企業のサラリーマンの海外経験がもつ幅なんて大したことない、と思い知らされたのです。

さて、その場にお呼びして協力を仰いだ1人が陣内さんでした。1991年、法政大学のサバティカルでヴェネツィアに滞在中だったのです。陣内さんが1970年代のイタリア留学中の研究成果を書いた『イタリア都市再生の論理』をぼくは読んで、都市再生というテーマにとても興味をもっていたのです。イタリアも1950-60年代の高度経済成長期に住宅や工場などが郊外に増える一方、都心の空洞化という現象が生じる。荒れた空間になってしまったー職人の工房が消える、住民が減るー都市を再生する潮流をつくる必要があったのですね。

それで陣内さんとは最初、東京でお会いしていたのです。その時、陣内さんに「トスカーナの小さなサイズの町が注目されはじめているよ」と教えてもらったのでした。その勢いで、その領域が専門の東京藝術大学建築学科の野口昌夫さんの研究室にも押しかけました。野口さんからはトスカーナのめぼしい小さな町について示唆を受けました。

このようにある分野の人たちが地方の小さな町に注目し、かつ都会のかなり先端をいく人たちも実際に多拠点生活の対象としてそうした町に住み始めていました。ブリケッラ農園も他の家族はジュネーブのCERN(欧州原子核研究機構)で働いていたエンジニアなど今でいうクリエイティブクラスだ・・・という具合だったのです。

1990年代前半の田舎にまつわる風景とは次のように表現できると思います。

ワインやオリーブオイルのラベルもクラシックなデザインがメインのところ、ちょっと洒落たグラフィックデザインのラベルをはったボトルがぼちぼち出始めた。つまり地方の一部のワインやオイルの企業が「起業家精神を発揮してローカルの新しい食の世界をつくろう!」と考えはじめていたと言えます。

ローカルの食材を販売する店もスヴェレートのような小さな町に出始めていました。が、今世紀になってみるようなお洒落な店構えではなく、どちらかというと(素朴な面を強調した)自然農法を地で行っているような雰囲気です。そして地方の小さな町のくねくねした狭い道を歩いてきづくのは、壁が一部崩れていたり剥げていて、それを愛でるにはそれなりの見識が求められるだろうと思いました。

ぼくの記憶には2つのエピソードがあります。

一つは、マルケ州の公立学校の建築を多く設計してきたペザロの建築家・渡邉泰男さんが、1995年頃に盛んに言っていたことです。

1970年代から1980年代、大きな都市や中くらいの都市のチェントロストリコ(歴史的地区)の再生が盛んにおこなわれたが、今、盛んに議論されているテーマは1980年代に制定された法律に従い、地方の田園風景にあるアイデンティティや美しさの促進だ。例えば、その地方にオリジナルである木を植えていくというデザインもそう。

景観法は1985年ですが、1990年代は色々と種がまかれていたところで、まだ一般の人が分かるようには可視化されていなかった、ということでしょう。

もう一つの思い出が、スローフード運動です。ピエモンテ州ブラで1989年にスタートした食の運動ですが、1990年、トリノではマクドナルドの出店を巡る反対の声をダイレクトに聞いていました。結局、マクドナルドは出店しますが、スローフード運動がイタリアのなかでも大きな変化を及ぼすのは今世紀に入ってからでしょう。

ウンブリアのアグリツーリズモが年々繁盛する(2000-2009年)

ここでひとつ注記。ぼくはすべての地方をこまめにリサーチ目的で旅したわけではなく、ミラノに住んで、たまたま用事や休暇があってみてきた話を書いているにすぎません。ですから人によって見た風景が異なり、意見が違うことは承知の上で、「それでも、こうして30年を振り返ると、結構、全体の流れを体験しているな」と時々に思うことをメモしています。

2000年からの10年間は、「あの小さな町の壁がこんなにきれいになったの!」という驚きの連続でした。「きれいになりすぎて風情がなくなくなった」、「ローカルの食材でいい商売しているな」とまったく思わなかったわけでもないですが、地方の小さな町の存在感が増しているのは確実でした。それは魅力的な動向でした。

この時期、家族でウンブリアのオリヴェート近くの山のなかというか、葡萄畑の一角にあるアグリツーリズモに毎夏、2-3週間、滞在します。オーナーとも仲良くなったので、毎年、同じ場所で生活し周辺地域をみて回りました。するとどんどんと変化(ビジネス上は繁盛)していくのが分かります。なかには「あのワイナリーも有名な○○家の傘下に入ったか」という資本力勝負で水の流れが変わり、そうした成り行きで、朽ち果てていた貴族の館が宿泊施設として蘇る姿も目にします。

スローフード運動がこうした地域で根付いた活動として可視化され、即ちは農家と町の住人の距離が短くなったのも、この時期です。スローフードが食だけでなく、小さな町のライフスタイルに範囲を広げるスローシティ宣言がされたのが1999年です。昨年、ぼくが訳したソーシャルイノベーションの第一人者、エツィオ・マンズィーニ『日々の政治』に次のような記述があります。

ぼくたちがこの地にやってきたのは、20年以上前になる。その頃、地元の果物や野菜は珍しかった。家族に菜園を耕している高齢者がいれば入手できたが、そうでない場合は、入手事情に詳しい人を通じて手に入れるしかなかった。ぼくたちは、農業の伝統がある地域、田舎にいたにもかかわらず、都会と同じ状況にあったのだ。だが、十数年前、見逃せない動きがいくつかあった。(中略)現在の形態のファーマーズマーケットを導いたのは、10年以上前の地元の農家の発案(ぼくが前述した「見逃せない動き」)だった。スローフード協会とモンテヴァルキの市役所の共同歩調だ

これは彼が住んでいるトスカーナの町におきた変化です。田舎にいながら地元の野菜が食べられなかったのが、今世紀に入って楽に入手できるようになったのです。このような変化が、ぼくが毎年バカンスを過ごしていたウンブリアにおいても生じていたのです。

前述した建築家、渡邉さんの自宅があるペザロ近くの丘の上にある中世からの小さな町の石畳もきれいになり、外から団体でやってくる人でレストランが満席になりはじめました。アドリア海を遠くに眺め、周辺を散歩したあとに食事の席につくわけです。

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即ち、1980-1990年にあったルールや数々の小さな動きが一斉に結実しはじめたのが2000年以降です。詳しくは分かりませんが、オーバーツーリズムがこうした小さな地域で語られはじめるのは、2010年以降ではないかと想像します。

ウンブリアのソロメオで目にしたこと(2010-2019年)

2020年は一切、地方に旅に出ていないので2019年までです。

冒頭で紹介したブルネッロ・クチネッリの本社があるソロメオは、ウンブリアの州都・ペルージャから車で15-30分くらいのところにある地域です。丘の上に中世からの小さな町があり、平野部には工場や農園が広がるイタリアのどこにでもある美しい風景です。

この本社に初めて訪問したのは2014年3月でした。目的は創立者のクチネッリ氏へのインタビューです。お会いする前に丘の上の町をスタッフに案内してもらいました。というのも同社は1978年にペルージャ郊外に設立されますが、1982年には奥さんの実家のあるソロメオの丘の上にひっこし、1985年からうらぶれた町を再生することにしたのです(ぼくは1980年代のソロメオを知りませんが、他の場所の経験から「うらぶれた様子」をおよそ想像がつきます)。

同時に劇場や人文学の学びの場、あるいは職人の学校と設置していきます。また、ここには社員食堂がありますが、地元の食材を使ったマンマの料理が提供されているのです。ですから平野にある現在の本社や試作品工場などを見る前に、同社の場への拘りを知っておきたかったのです。

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この時、クチネッリ氏から聞いた話は2014年に上梓した『世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?』に書きました。ぼくが驚いたのは、「人類が生きる世界は年々良くなっているのだ」と言いながら、秘書を呼んでスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』のイタリア語版と英語版の2冊を持ってよこし、両方ともぼくにくれたことです。この人は気に入った本をプレゼント用に何冊も購入しておくのです。それは伝えたいことに猛烈な強弱をつけていることを意味する、とぼくは理解しました。

そして、この時にぼくの心にもう一つ印象に残ったのは、「現代の多くの問題は都市の郊外に潜んでいる」ことに心を痛めていることでした。文化不在の郊外が如何に社会生活のアンバランスな質を代表しているか、ということですね。実はこれはピンカーの本の趣旨と連携してくるのですが、その時にぼくはこの本を読んでいなかったので気がつきませんでした。

その年の11月、ぼくはミラノの劇場でクチネッリ氏が行った「ソロメオの風景」に関するプレゼンをみました。そして次のコラムを書きました。

丘の上の町の再生が一区切りついたので、今度は平野部の風景の美しさのために財団として投資していくとの発表でした。このプロジェクトは2018年に完成され、9月、世界のジャーナリスト500人を招待してお披露目をします。その時のコラムが以下です。

他方、2015年からぼくは日本の東北の若い人たちを10人ほどブルネッロ・クチネッリの職人学校をメインに派遣して、震災後の東北の次を担う人材育成のプロジェクトに関与したので、ソロメオの周辺のリサーチもする機会がありました。この自治体の首長やペルージャ大学の教授などから、いわゆるテリトーリオ(英語のテリトリーにあたるイタリア語ですが、歴史・文化・アイデンティティを含みます)の方針を聞きました。

そこで思ったのは、1980年代からの田園風景のある地域や小さな町の再生の次にある大きな課題は、都市と田園風景の間にある郊外にあるということです。クチネッリ氏が心を痛めていたゾーンです。都心は歴史という資産がある。田園には自然を抱く気持ちの良い風景がある。ですから、この2つの整備が先行したのですが、その中間にあるいわば文化不在の地域はまだ新しい展開を見せていません

そういう観点からすると、この数年、世界各地ではじまり、特にパリ、バルセロナ、ミラノなどの欧州内で急発進している15分の生活圏(15-minute city)が都市内だけでなく、郊外、田園地帯に適用しようとする考え方は、テリトーリオの実践版の一つとも言えなくはないです(以下は、ぼくがマンズィーニにインタビューした動画です)。言い換えると、郊外の問題はテリトーリオの一部としてアプローチするにやりやすいタイミングにきたのではないか?ということを考えています。


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