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「意味ある」事業・組織・経営イノベーションの三位一体化 ー「意味のイノベーション」の現在

先週、都内でストックホルム経済大学でリーダーシップ、ハーバードビジネススクールでデザインを教えるロベルト・ベルガンティによるワークショップと講演会を開催しました。ぼくは、この6年間、彼の「意味のイノベーション」のエヴェンジェリストとして活動してきましたが、やはり、全体の状況が変化することで「意味のイノベーション」の位置づけも変わってきました。

昨年8月、「意味のイノベーション」のワークショップを行いました(下記)。だが、今回は事業・組織・経営の意味あるイノベーションを三位一体化することをテーマとしました。尚、「意味ある」とはいずれを客体にしても、「人が愛したいと思う」との表現が前にくることが前提です。

このイベントはデザインをコアにしたコンサルタント会社であるmctが日本側のオーガナイズをしてくれたのですが、企画から実施に至るまで、そして実際にやってみての参加者の反応もふりかえながら要点となることを書いておきます。

「意味ある」がより鍵になりつつある

ベルガンティが意味について研究実践をはじめた一つの契機は、経営学者としてのデザイン研究のなかで「デザインとは?」に直面した際、コミュニケーションなど幅広い分野の研究者であるクラウス・クリッペンドルフの「デザインとは意味を与えること」とのラテン語の語源に立ち戻った考えに賛同したからです。

また、20世紀後半のイタリアの中小企業の成功がデザインと紐づいたのは、採用したプロダクトデザイナーの能力もさることながら、経営者がデザインの価値をよく理解していたからです。そこでいうデザインとはラテン語の「意味を与える」とのコンセプトで、意味をつくる、あるいは意味を変えるのがイタリアの経営者たちであったとベルガンティは指摘しています。

この2つの関係にベルガンティは注目しました。

このような文脈で、長い間、彼はミラノ工科大学で経営学とデザイン学を橋渡しする先生の1人でした。1990年代終わり、デザイン学部で経営学を最初に教えた学生の1人がマルロ・ポルチーニです。彼は卒業後、3Mで活躍し、ペプシコからヘッドハンティングをうけ、ペプシコ本社のCDOをつとめています。そのポルチーニも今、「(愛のある)意味ある」コトを声を大にして話しています。

今回のワークショップで上記のような「意味ある」三位一体化をテーマにおいたのは、日本側の事情からすると数年前から経産省が推進してきたデザイン経営に関し、経営層の認識が不十分との意見がありました。

他方、経産省が設定した「デザイン経営」の定義とは異なりますが、欧州の企業においては、もう少しデザイン経営への理解がマシなところがあります(イタリアにおいてさえ不十分な会社も多いのが、もうひとつの現実ですが)。

また、ベルガンティは欧州や米国の企業へのコンサルティングや経営者との対話のなかで、あるいはストックホルム経済大とハーバードビジネススクールでの学生の反応や要望から、生きる社会を「意味ある」ものとすることに参加したいとの意欲が強まっていると感じとっていたのです。

実のところ、世界各国の企業や行政機関から彼が依頼される講演のテーマも「意味ある方向」に集中しはじめています

(因みに、彼が「デザインとは意味を付与することだ」を核にした英語の著著『デザイン・ドリブン・イノベーション』を出版したのは2009年です)

「デザイン」が前面に出ないが、重要な要素になっているのは確実

「経営にデザインが有効である」とは、製品のスタイルや色が市場での存在感の促進に貢献するとの趣旨以上に、デザインにある態度や考え方が、いわゆるMBA的な経営手法の壁を打ち破るに有効である、と今や理解されつつあります。

といっても、前述のように、日本の企業においては「中間管理職層までは理解されつつあるが、経営幹部には至っていない」のが現状です。そこにmctさんの問題意識がありました。

当然、日本で仕事をする人たちも、「意味ある方向」に視線が向いています。それは確かです。しかしながら、流行のように企業の存在理由が語られるわりに、人々の意識と企業の経営者が考えることに乖離が見られる。いわんや、企業の経営者が、存在理由や「意味ある方向」を目指すにあたり、デザインがもつ力が貢献するなぞついぞ思っていない。これも同様に確かです。

ですから、「デザインが大切だよ!」と声を大にするよりも、「まず、それぞれにやっていることを意味ある方向に向けよう」が第一になるでしょう。その現状認識がベースにきます。

この数年、「デザイン思考やデザインには行き詰まり感があり、アート思考やアートに可能性がある」と語る向きもあります。しかしながら、そのような姿勢でデザインだ、アートだと追いかけていても、「意味ある方向」は見えてきません。デザインもアートのどちらも貢献力は大きいですが、「意味ある方向」を意識しない人にはお飾りに過ぎないのです。

「意味ある方向」を見つけるのは容易ではないが

ベルガンティも今回のワークショップで紹介しましたが、イタリアのデザインの巨匠、エットーレ・ソットサスは1980年代のメンフィスというポストモダンの動きのなかで意味のイノベーションを行いました。例えば、まったく本棚としては用を足さない書棚をソットサスはデザインしたのです。下の写真の作品です。

ソットサスのデザイン作品(ミラノトリエンナーレ美術館開催された回顧展)

実は、2017年にミラノのトリエンナーレ美術館のソットサス回顧展に彼のメモが展示され、その頃にぼくが書いたブログで次のようなまとめをしています。少々長いですが引用します。

それは「デザイン:機能的な花って?」というタイトルです。まず「デザインとは産業とデザイナーを繋ぐものではなく、産業と社会を繋ぐ試みなのだ」とデザインの社会的性格に触れますが、「デザインは美と付き合うのではなく、存在に関わるのだ。が、現時点できっとそれはきわめて稀な現象であり、存在そのものは審美的なイベントとして想像されるだろう」とちょっと難しい話になってきます。

その次に簡潔に「産業は願いを作る必要があり、デザインは問題を解決するのではなく、願いをつくるのだ」と一気に今のぼくの関心領域に入ってきます(ベルガンティ『突破するデザイン』で触れる意味のイノベーションですね)。

2本以上の鉄のパイプを溶接するのはとても簡単だ。2つ以上の色を一緒にするのは非常に難しい。ピカソはよく言ったものだ、3つや4つの色を一緒にするには、相当の経験がないといけない」とグサッときます。

ここから「デザインするというのは、存在のあり得るメタファーを果てしなく探し求めることだ」ときて「イタリアにおいてデザインは職業ではない。生き方だ」と一息おいて、「オリヴェッティのためにデザインするのは大変だったに違いない、と人は言うが、メンフィスの方がすごく大変だよ、と答える」と佳境に入ります。はい、最終フレーズはこれです。

機能主義・機能・機能的という言葉は、今世紀(20世紀)はじめの猛烈な情熱のなかで生まれたものだ。すべてのものは理屈だけで解決すると見られた」と近代の成立要件に疑問を呈するのですが、それを次の言葉でまとめます。「問題は、私のとても若い、はじけんばかりに愛する人に花束を贈りたいと思い花を選択するとき、私は合理性をどう使ったらいいか分からないのだ

「機能的な花とは何なのか?」ーエットーレ・ソットサスのメモを読み返す。

上記のソットサスのメモは1994年のものです。彼は1960年代、イタリアの事務機器メーカーであるオリヴェッティの開発する事務家具やタイプライターなどをデザインします。「バレンタイン」というタイプライターは傑作として賞賛を受けます。しかし、それらより後になって、意味ある作品をデザインする方が難しかったと回想したのです。

彼が回想してから更におよそ30年を経て、今、世界の多くの人が(比ゆ的にも)「私のとても若い、はじけんばかりに愛する人に花束を贈りたいと思い花を選択するとき、私は合理性をどう使ったらいいか分からないのだ」と気づき、「願いをつくる」や「意味ある方向性」への関心を、いわば生命線維持の問題として意識しているのです。

(追加で書いておくと、このテーマを中野香織さんと少々別のアングルから書いたのが『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』です)

分かりやすい合理性に逃げるな!ということでもあります。それでは、何をすると良いのか?です。

「リフレーミング」が意味ある方向を探すには有効

モノゴトの考え方や見方の枠組みを変える「リフレーミング」が大切です。

例えば、イタリアのファッション企業のグッチでは2015年、アレッサンドロ・ミケーレがクリエティブディレクターに就任しました。彼はそれまでのファッションやファッションビジネスの概念を大きく変える提案をし、それが実際の売り上げにも大きく反映されます(トップの写真中にあるスライドを見てください)。しかし、それでも更に新しい意味を打ち出すことができず、昨年、クリエティブディレクターを退任します。

これはリフレーミングの有効性と難易度を語るに適当なエピソードです。ここではリフレーミングに必要な2つのことを特記しておきます。

まず、日常生活のなかでの観察、または観察力の向上をどれだけ意識するか?です。あらゆるものは漫然と見ていても、何も目に入ってきません。それが即役に立つかどうかとはまったく関係なく、あるテーマでものをみる訓練をすることです。ぼくの最近のケースでは、ミラノの街を歩きながら、建物の窓をみることです。

窓のサイズ、形状、その周辺の装飾、建物全体における窓の配置、ベランダのバランス・・・・とだんだんと見えてくることが増えてきます。それによって、その地区の特徴や歴史にも視野が広がっていきます。そして、むやみに地域の範囲を広げるのではなく、同じ地区、同じ建物も10回、20回と繰り返し見ていくことです。

旅行で訪ねる美術館も同じです。中世から近代までの西洋絵画を見るなら、食卓が描かれている絵画だけを選び、そこにあるグラス、皿、ナイフやフォークだけに集中します。そこから食の歴史の一端に敏感になってきます。犬や猫だけを見ても良いです。そうして、小さな変化や違いに気がつくようになります。

(これは #ビジネスに効く旅行  などということを考えてはだめです。そうした実利的目的から、自分を解き放つことが大事です。そうしないと見えるものも見えてきません)

あまりに頻繁な意味のイノベーションをすべてに期待してはいけない

もう一つ、これは何の意味に関わるのか?をじっくりと多角的に考えることです。『大衆の狂気』を書いた英国人、ダグラス・マレーも言及するように、我々は多くの価値観の転換期に遭遇しており、「あたかも20分前に変わったような価値」に正当性を持たせようと懸命になっています。

「それ古いでしょう!」「オワコンだよ」「昭和の価値に何が意味ある?」というセリフがいろいろと闊歩しています。これらに対して、懐古趣味で抗弁するのはいただけません。しかし、それが幾世紀かに渡っても通用する意味や価値である場合もあります。

どのレイヤーに属することなのか?に注目すべきです。あるレイヤーでは古くなっても、他のレイヤーでは逆に新しいこともあります。

ペアがどうしようもなく大事


最後に。下の写真でベルガンティが説明しているのは、身体をつかったあるワークショップの記録です。7-8人以上のなかで、1人だけパートナーをみつけ、ペアをつくります。そして、このペアでもう1人を巻き込んで3人で正三角形をつくるのです。

ペアで正三角形をつくるのは至難の業

ペア間で距離を固定するのは簡単です。しかしながら、もう1人の位置が一定しないため、そこに同じ距離を位置するのはほぼ無理です。あるチームで正三角形をつくれるとするのは幻想であると実感できます。

同時にもう一つ実感します。何らかのイノベーションをおこすにあたって最低限必要なのは、ペアをつくることです。微妙な議論も二人だけならトラブルのネタになりにくいとの利点もありますが、ペアなら、一つの距離を維持できるのです。

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当初、「意味のイノベーション」が商品開発次元のものと受け取られた感もありますが、そうした印象を離れ、確実に「意味のイノベーション」は大きなうねりを作りつつあります。最近別のところに書いた、地域に適用した見方もご参考までに!


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