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新大陸へのピューリタン移民の人口構造は、チーズ生産・販売に相応しいものだった。

読書会ノート

ポール・キンステッド『チーズと文明』第8章 伝統製法の消滅 ピューリタンとチーズ工場

20世紀最後、米国のチーズ生産は年間400万トンという歴史的な記録を作った。工場の量産体制で極限まで生産コストを下げたチーズは品質が均一であるが風味がなく、海外市場ではさほど評価されない。

その一方、一時は消滅していた農場つくり、あるいは専門の職人によるチーズが戻り始めた。当然、高価格である。今後のチーズの物語は、これらの2つのカテゴリーの発展と相克になる。

それにしても、米国の大量生産一辺倒の歴史とは何だったのか?

ピューリタンのつくったマサチューセッツ湾植民地、この初代総督ジョン・ウィンスロップはチーズの知識があった。妻はイングランドの荘園の農場で乳しぼり女を監督する立場にあったのだ。

更に重要なのは、ピューリタン移民の人口構造はイングランドの酪農地域の出身者が多数を占めていたことだ。そのほかにロンドンの商人階級である。つまりチーズをつくり、それを売るための仕組みが移民の構成自体に既にあった。

16世紀-17世紀、イングランドにおける宗教改革運動の震源地はイーストアングリアだが、ロンドンをはじめとする港町における商人たちがピューリタンの影響を強く受けた。彼らが国教会へ抵抗運動をすることで逆に迫害を受けるようになり、分離派はイングランドから追放されるに至る(1620年プリマス設立)。

1630年から1640年(国王の教会改革により大移民時代の終了)の間だけで20数万人の移民が新天地にきた。どの移民船にも酪農牛と家畜が必ず積まれていた。かくてマサチューセッツ湾植民地に酪農と乳製品生産の基盤が確立する。

しかも、ピューリタンの農民は余剰農産物を市場で販売するよう組織されていた。また、イーストアングリアで商業的チーズ製造の方法が確立されていたため、これらの方法が新大陸に採用され、その後も適時、イングランドの方法が伝播していく。

ただし、イングランドの技術が使えない点があった。それはイングランドよりもニューイングランドの夏の気温が高い、西インド諸島は熱帯の熱さである。これらから水滴が大量につく、乾燥、ひび割れが生じるので、この技術的解決が必要だった(「仕上げ塗り」が有効で、19世紀、南部の綿花が稼働率の上昇から値段が下がると、油脂を塗った綿布を使い捨て保護用包装がなされた)。

そして、彼らが徐々に内陸部に移動していくにつれ、先住民たちとの対立がおこり、先住民を追い出していく。同時に西インド諸島のラム酒を持ち込み、これが先住民のアルコール依存症を増やしていく要因になる。

国内市場でマサチューセッツの農業経済が成長していたのが、海外市場にも範囲が拡大した(1647年)。西インド諸島で伝染病が襲い、食糧が途絶えるところに急遽、ボストンの商人が小麦、塩漬け魚、牛肉を輸出したのだ。ここからおよそ2世紀、農産物の輸出がこの地域間で続く。そのリストにチーズとバターが入るのが1650年である。

17世紀半ば、西インド諸島では大プランテーションでサトウキビ栽培で大きな利益を得たことで、その後、その他の作物栽培をやめた。この経済をさらに後押しする労働力をアフリカからの奴隷に求め(イングランド領では90%が黒人奴隷)、この作物構造が必然的に輸入農産物に食糧を頼ることになる。

また、砂糖を精製する際に大量にできる副産物モラセスは発酵させることでラム酒にできる。したがってモラセスがアメリカ各地に出荷することで、アメリカ側に利幅の大きなビジネスが発生する(アフリカとの奴隷貿易でもラム酒輸出は使われ、三角貿易の重要な品目となった)。西インド諸島側はラモセスを売ることでチーズやバターを仕入れる。

結果、ニューイングランドの商人たちのビジネスが活気づく。

18世紀、ニューイングランドの酪農場における男性奴隷は牛飼い、女性奴隷は乳搾りとチーズ作りというイングランドの習慣が、奴隷にも適用された。また、イングランドでそれまで女性のもっていたチーズの知識を男性が科学的体系化に励んだと同じ事が、ニューイングランドでも起こったのだ。

1791年、綿操機の発明により綿産業に革命がおきる。南部の大量に安い綿が市場を拡大した。ニューイングランドにおいても綿布の生産がされるようになり、この地域がバターとチーズの消費地にもなっていく。

また、繊維工業の幕開けで19世紀になると家庭で糸紡ぎする時代がおわり、女性たちに時間が生まれた。そこでニューイングランド南部の酪農場ではチーズ市場の拡大に乗じ、女性たちのチーズ生産を増やす。そして専門性と利益の追求が加速される。

しかし、マサチューセッツとコネティカットの生産量は国内のなかで12%だけだ(1850年)。下図にあるように、過去1世紀、農地の不足から農地は西部に進み(人口の多数が農場から離れる、ことを意味する)、したがってチーズ生産も他地域に広がっていたのだ。

『チーズと文明』281ページ

ただし、この他地域に南部は含まれない。なぜなら19世紀、南部における綿花栽培が強化されたとき、食糧の生産を中止したからだ。つまり南部も食糧供給は北部に求めた。

産業革命は19世紀初期にニューイングランドの繊維産業に火をつけると、乳製品生産にも広がる。農場における乳牛の数は増え、農業組合が発足して科学知識のパイプ役になる。その動向に伴い、チーズ生産の担い手はだんだんと女性の手から男性の手に移行していく。工場生産品としてのチーズである。以下にみるように、1860年代に生産の主役が交代した。

『チーズと文明』287ページ

この主役交代のタイミングは極めて重要だ。1861年の南北戦争の勃発により、北部の農場での男性の働き手が戦場に出向いたため、家庭と農場のきりもりを任された女性たちの過剰労働を減らすーチーズ生産から手をひくーしかなかったのである。

1840年代、人口爆発で自国で食糧を賄えなくったイングランドが関税を下げてアメリカのチーズを輸入する量が一気にふえ、アメリカの工場製チーズの需要が高まっていたとの背景もあり、アメリカのチーズ生産は伸長したのだ。

しかし、1800年代、後半になると、生産が常に需要を上回り、収支合わせのための方策が結果的に品質を下げる。しかも、偽装製品もでてくる。そのため、20世紀初頭、米国チェダーチーズはイングランドには輸出できなくなり、その後、返り咲くこともなかった。その後も、生産コストと品質の間でアメリカのチーズ産業は苦しむことになった・・・ただし、米国の一般の人たちが、その苦しみに気づいたかどうかは別である。

<わかったこと>

7章のオランダと英国のチーズ産業発展史では、オランダが近代的量産に舵を切るしかなかったことが、20世紀後半以降の手作り再評価のなかで「不幸」を招いたことが記述されていた。英国には農場での手法が残っていたため、新しい展開に対応できた。

米国は、一見オランダ型であるように見えるが、その広い国土からなのか、かつての手法が「完全」になくなることがなかったのか、他の地域から手法を移入したのか、本章には記載がないが、どこかに選択肢をもつ余裕があったようだ(クラシックカーの世界で、欧州ではかつてのクルマを修理するが、米国ではレプリカが多いとのエピソードを思い出した)。

即ち、「一極集中」「独占」というキーワードが経営的に魅力的に見えながら、これが如何に危険な道であるかが、西インド諸島や米国南部の農作物の選択の仕方でもわかる。

それでも米国のような大きな国は「自分でなんとかなる」可能性が高いが、そこまでのサイズをもたない地域の人たちが量で勝負することがいかに至難の業であるかが、この章を読んでいて痛いほどにわかる。

(そこを米国への移民も多いイタリアの人たちは、素養としてよく理解できているのだろうとも想像した。だから、自分たちのもっている条件をよく見極め、あまり世界でのキャッチフレーズに振り回されにくい体質をもつ。ロングサプライチェーンからショートサプライチェーンの転換は、「身の程をわきまえた」判断だろう。)。

それと同じ視点で、しかし別のアングルから、男性中心の社会の脆弱性をも本章は物語っているように思える。南北戦争における女性の役割は、現在、欧州の東のほうで行われている争いにも適用されていそうで、ここに21世紀の考え方はどう貢献するのか?を思わざるを得ない。

写真©Ken Anzai


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