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【掌編小説】嗚呼

 海へ向けて長い坂道を歩いて下る。灯台の灯りが離れていても確かに見える。今ここらを照らしているのは人工的な安い灯り、それが俺の行く末を舗装してくれている。あそこに大きな灯りがあると、やっぱり安心した。
 踏切に先をはばかれた。終電に近い電車の中に数人しか乗っていない事を確認するも、本日付けで会社を辞めてきた、世間から逸れた野良犬は人間様に申し訳が立たなくて、くぅ〜ん、と顔を歪めて電車から目を逸らした。後ろを見ると影が過ぎっている。深く歪な影達がおどろおどろしく駆けていった。
 首輪を外す様に、ネクタイを外す。鞄から携帯灰皿を取り出して、煙草に火を着けるも、もうマナー違反をしてるのに少しでもルールを守ってる自分が馬鹿らしくなって、携帯灰皿を放った。
 潮の匂いがふわぁっと、もうずっとこの鼻を吹き抜けている。いよいよ砂浜。そして、もうとっくに広がっていた本日のお目当て。眼前に何も遮る物のない、母なる海。
 鞄から新入社員がくれた三十路に入ったおじさんに贈るには可愛い過ぎるサクランボのメモ帳に書いた連絡先は、サクランボの恋愛観をした同じ目線で生きていける男が受け取るべきだと思い、クシャッと潰すと、波がさらってくれた。
 煙草を何本も吸った。潮風を受けて、波の音を聴いて、濡れた革靴で濡れた砂浜を踏み締めて、吸えば無くなっていく煙草を味わって酔いしれて、夜の闇に溶け込む。
 職場を出てすぐ買った十四本入りの煙草が無くなると、身体全身海に浸かった。死ぬ気はない。でも、一回なんか、居なくなりたかった。
 一瞬本気で命の危機を感じたからこそ、また少しだけ踏ん張れる。びしょ濡れのまま海から引き上げた。
 歩いて、歩いて、歩く。今度は上り坂。生きていけるのかを試されている様だ。
 やっぱりなんか少しだけ後悔した。会社を辞めたのは正解だったけど、サクランボの恋を今更羨ましく思い、いつも俺は馬鹿だなぁ、と、一大決心を決めてきた未練が若い女の子だった自分が、なんだか馬鹿馬鹿しくて、愛おしく思った。

 嗚呼、生きよ。

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