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夢を剥奪する権利が誰にあるのか?!(夢の学び47)

■「夢剥奪でうつ病が治った?!」

チャールズ・マックフィー著『みたい夢をみる方法』石垣達也訳(講談社2000)を読んでいたら、「夢剥奪でうつ病が治った?!」という小見出しがつけられた項目に、次のように書いてあった。

「うつ病の患者の夢睡眠(※)を奪ったところ、70パーセントが改善を示したのである。しかも、その効果はてきめんで、症状が完全に消えてしまった患者すらいた。これこそまさに画期的な発見である。
何年もうつ病で悩んできた人たちが睡眠実験室にやってきて、気分がさらに落ち込んだり、精神病的になったりするかもしれない、もしかしたら幻覚があらわれることもありうるという不安の中で、夢睡眠を奪う実験に応じた。しかし、予想に反して、ほとんどの人がここ数年間で最高の気分になったというのである。
その後、現在にいたるまで、薬物によって睡眠サイクルから夢睡眠を除く方法が、うつ病治療としてもっとも広く用いられている」

『みたい夢をみる方法』

(※)夢睡眠=約90分で一周期と言われている睡眠サイクルのうち、夢をみている段階のこと。

夢はまるで厄介者・目の敵にされているような印象だが、印象はともかく、この「薬物投与によってうつ病患者から夢睡眠を剥奪することが、うつ病の治療になる」というのは、本当に科学的に正しい知見だろうか?
この「夢睡眠剥奪法」は、本当に「もっとも広く用いられて」然るべき「画期的」な治療法だろか?
そこで、私の疑問はこうである。

○薬物投与によって一時、うつ病患者から夢を奪うことで、よく眠れるようになり、劇的に寝覚めがさわやかになったとしよう。では、患者はうつ病が完全に治るまで、その薬を飲み続けるのか。人間から夢を奪い続けたら、いったいどういうことになるのか?
○その薬の副作用はとりあえず問わないとしよう。では、薬の効果が切れた後も、患者は夢に「悩まされる」ことがなくなったのだろうか。それとも再び夢に「悩まされる」ようになり、寝覚めの悪い状態に戻ったのだろうか。夢はできればみない方がいいのだろうか?
○このうつ病患者のその後の人生を継続してモニターしただろうか。仮にその患者がその後、うつ病が完治したとして、もう二度と夢に悩まされることもなく、別の精神病的傾向もいっさい示すことなく生涯を終えただろうか。そもそも、夢と精神病との関係は?
○もし、その患者に精神病を発症する根本的な原因があるとしたら、投薬治療だけでその原因を取り除くことができるだろうか。精神病と投薬治療との関係とは?
○そもそも、原因を突き止めず、症状への対処療法をもって「治療」と呼べるのだろうか。医学が対処療法に終始して、根本的な治療に向かわないのなら、その理由は何か?
○もし仮に、薬の効果が切れたとき、患者がまた夢をみ始めて、それによってまた症状が出てきたら、同じ治療法をくり返して、夢の意味内容にはいっさい触れないのだろうか。夢の意味内容の究明は、科学ではないのか?
○もし仮に、うつ病患者のみる夢に、その病の原因と根本的な治癒のヒントが隠されているとしたら? そこに触れることは科学者として「タブー」なのか?
○夢をいっさいみず、常に寝覚めがさわやかで、何の悩みもなく、気分が落ち込むこともなく、妄想にふけることもなく、精神的なトラブルもいっさいない、という人間こそが理想的な人生を送るのだろうか。そもそも何が「健康」で、何が「病理」なのか?

確かに、上記の引用は厳密に言うと、夢をみることを止めた、というよりは、眠りから夢をみることに関係する「周期」を剥奪した、という言い方になるだろう。しかし、いずれにしろ、人間にとって「夢」は取り除いても差し支えないもの、という認識が隠れていることに違いはない。この例は、夢の意味内容にはいっさい触れずに(「睡眠学」の立場で)夢を研究すると、こういう結論になる、という典型とも言える。
これは、科学的な実験をデザインするときの最も重要な前提なのだが、「仮説」の立て方によって結果はまったく違うものになる。仮説は研究者が自由に設定できる。だからそれは恣意的なものだ。そこからその仮説に対する科学的証明が始まるわけだが、では、あらゆる仮説は横一列かというと、そうではない。実は「仮説」の立て方には、「深い」と「浅い」の違いがあるのだ。当然、深い仮説には深い結果が期待できる。浅い仮説には浅い結果しか出ない。つまり、仮説とその結果には、その研究者の意識レベルの「深度」が反映されるのである。言い換えるなら、あらゆる研究者が「科学的客観性」を目指しているが、その「科学的客観性」にも「深度」の違いがあるのだ。
この例の場合は、「うつ病の患者から夢睡眠を剥奪すると気分がよくなるという現象を、病の画期的な治癒とみなす」という考え自体の「深度」を測る必要がある。
具体的に見ていく。

■脳科学的知見は病という物語の1/4にすぎない

はっきりしていることから始めよう。
脳は人間のすべてではない。
人間の睡眠パターンをどれだけ調べようが、脳波パターンをどれだけ調べようが、ニューロンの発火具合をどれだけ調べようが、脳内ホルモンの分泌をどれだけ調べようが、それは「脳の何たるか」を調べたことにはなっても、「病の何たるか」(あるいは人間の何たるか)を全体的に調べたことにはならない。せいぜい病の外面的な部分が少しわかる程度である。

もっと全体的な話をしよう。
病の原因とその治療法を研究するうえで、脳科学的なアプローチは、全体の研究領域のせいぜい1/4にすぎない。人は脳(あるいは肉体的なコンディション)が原因で病気にもなるし、社会的な原因(たとえばセーフティネットの不備など)で病気にもなるし、心理的(内面的)な原因で病気にもなるし、人間関係や文化的な背景(つまり集団の内面)が原因で病気にもなる。たいていはどれかひとつではない。あらゆる側面が同時に働いている。身体的、社会的、心理的、関係的側面のどれかが病理的な方向に働き、違うどれかが「救済」の方向に働くなら、病の発症が抑えられる、ということもあるはずだ。
それらの全体的な原因のどれかが「主」でどれかが「副」であるとみなすなら、それはとたんに「価値判断」となり「事実判断」とは言えなくなる。それは下手をすると「科学的客観性」の放棄になる。
しかし、往々にして医学畑の治療者は全体の1/4しか見ていない。人を病気にするのも1/4、治すのも1/4という認識なのだ。端的に言って、残りの3/4の領域は(専門外で)知らないのである。だからこそ、本来はその1/4のものの見方でいかなる結論も出せないはずなのだ。
しかも、仮に1/4の領域だけに絞ったとしても、そこにある方法論には「深さ」の違いがある。そもそも脳の仕組みについて科学が知っている範囲はほんのわずかな表層部分にすぎない。そのことを心得ている医者は、顕微鏡だとか、脳波計だとかという「装置」によって判断できることがすべてだとは思わないはずなのだ。ましてや薬物治療がすべてだとも思わないはずだ。同じ医学的な措置を施すにしても、科学では解明できていない「未知の深み」に敬意を払うか払わないかによって、結論はまったく違うものになる。
少なくとも、限られた領域だけの知見ですべてわかったような気になって、何らかの結論を出してしまうなら、それは明らかな「還元論」である。還元論は、単に人を切り刻んで部分に分解し、そのほんの一部の「欠片」を指さして、「これがあなたです」と主張しているにすぎない。いわば片目・片手で車を運転するようなものだ。遠近感(視界の深さ)が奪われ、バランスのとれた対応力も奪われている状態である。そんな考えに自分の命や運命を委ねるほど危険なことはない。

■夢などみない方がパワフルに生きられる?

ところが、精神病の一般的な治療は、1/4の見方による還元論が「もっとも広く用いられている」らしい。それはすっかり治療の「定番」として定着してしまっている感さえある。
それを如実に示す例を二つご紹介しよう。

小林幹児著『夢の事典』(日本文芸社・平成21年)の中に、次のような記述がある。

「多くのうつ病患者が不眠を訴えますが、不眠の内容を聞くと、夢ばかりを見て疲れが取れないというのです。そこで、深い眠りを誘導する薬を処方するのですが、夢ばかりを見るという訴えをよく聞くと、すべてがネガティブな感情にあふれた内容でした。これでは起きたあとも気分が悪くなってしまいます。将来、もし、ポジティブな夢を見る薬が開発されたら、うつ病の人にとっての一番の福音となることでしょう」

『夢の事典』

ここでは、完全に「ネガティブな夢」が悪者扱いされている。
こうなってくると、もはや意図的な「科学的客観性」の放棄であり、「確信犯」とみなすしかない。こうした考えは、冒頭に紹介した「夢睡眠剥奪法」という精神病治療における「1/4神話」とでも呼ぶべき還元論に対する盲目的な信仰の類と言わざるを得ない。しかも、この考えの裏には、「人間にとってネガティブな感情は不要なものであり、夢という現象に関してもポジティブに勝るものはない」という、およそ科学的根拠のない「ポジティブシンキング」信仰の背景すらうかがえる。ここまでくると、もはや専門家による「科学的イデオロギー」と呼ばざるを得ない。これでは、症状の治療ですらなく、症状の否定になってしまう。このような考えからは、精神病の真の原因究明の「深み」は現れようがない。
この著者は、次のようなことも言っている。

『「夢見が悪くて身体が休まらなかった」とぼやく人をときどき見かけますが、そういったタイプには共通点があります。それはやや神経質で気持ちの切り替えが下手なところです。一方、「私は夢を見ない」と言う人に共通しているのは、とてもパワフルなこと。朝の目覚めもよく、人生の悩みなど皆無という印象を受けます。』

『夢の事典』

まず、この著者は、「神経質な気質の持ち主は、うじうじしていて、心が弱い」といった偏見を裏に隠し持っていないだろうか。と同時に、人は、余計な夢などみず、朝気持ちよく目覚め、人生に悩みなどない方が、パワフルに生きられる、という偏見も持っていないだろうか。これはどう贔屓目に見ても、「科学的客観性」を踏まえた判断ではなく、あくまで個人の主観だ。しかも底の浅い主観である。
ちなみに、私はどちらかというと神経質な気質だ。物事に人一倍強いこだわりを抱く「タイプ」でもあるだろう。もちろん夢に対してもそうだ。ただし、このこだわりは「偏見」の方向に働いているわけではない。私は、いわゆる「いい夢」に対しても「悪い夢」に対しても、分け隔てしない。悪い夢をみたからといって、即座に気持ちを切り替えて、まるでその夢をみなかったかのようなつもりになるような真似は絶対にしない。むしろ、その悪い夢をできる限り深く胸に刻み、徹底的にその悪い夢と対峙し、その夢の言い分に注意深く耳を傾ける。ただし、決して結論を急がない。なぜなら、私の経験では、悪い夢ほど深い読み解きが必要だからだ。私にとっては、みなかった方がよかったと感じる夢など、ただのひとつもない。それがたとえ私にとってどれほど恐ろしく、気味悪く、不快に感じる夢だったとしてもだ。そんな夢ほど、むしろ「恩寵」なのだ。
私がこんな気質だからかどうかはわからないが、朝清々しく目覚めたためしなどついぞない。しかしそのことで私はうじうじしたりしない。むしろ「今日も自分の夢から目を背けることなく、しっかり対峙できた」とばかり自分を褒めるだろう。
さて、こんな私はパワフルではないだろうか?
この著者にしてみれば、私のような「タイプ」は例外中の例外で、ほとんど考慮するに値しないのだろう。「やや神経質で気持ちの切り替えが下手な」タイプということで、マイノリティとして周辺に追いやりたいのだろう。つまり、この著者が持っている夢学に関する「視界」に、私は入っていないのだ。この人の「視界」には私という「死角」がある。
この人は心理療法家でもあるようなので、そもそもこの人が扱う「症例」は、この人が排除しようとしている「ネガティブなマイノリティ」のはずである。そういう症例を、この人は「ポジティブなマジョリティ」の視点で見ていることになる。

■夢の「深度」を測るべし

実はこの点がまさに問題の本質だと、私は思っている。
端的に言うなら、一般的なとらえ方からは外れる特例中の特例と思われる「タイプ」の人間は確実に存在する。「神経質で、うじうじしていて、心が弱い」人も、私のように意識的にこだわりを持つタイプも、ともに常識には当てはまらない「例外」とみなすなら、そういう人の目からは、どちらも「病的」に見えるだろう。
しかし、もし夢に対して「非常識」に見える特例中の特例タイプだけを集めて夢に関する実験を行なったら、「死角」だらけの人が持つ「常識」はたちどころに覆される。それによって、「例外」がどんなものかがわかるのではなく、夢という現象の奥深さがわかるのだ。夢に関するスキル・レベルが平均的な人だけを集めて実験を行なえば、夢の「深度」を測りそこなう。繰り返すが、科学的「仮説」には、深度の違いが確実にあるのだ。
「夢の学び41」で、ドリーム・テレパシー実験において、実験者の想定をはるかに超えた物事の「深層部分」が夢によって伝達される点に言及した。
「夢の学び42」では、「脳が夢を作り出す」といった考えに凝り固まった研究者が夢の実験を行なうと、せいぜい物語作家が日常的に駆使している想像力の働きに行きつく程度で、夢はその想像力も超えるものである例をご紹介した。
そして、「夢の学び40」では「夢学的6段階発達論」に言及したが、少なくとも、その6段階でいう4段階目の「ドリーム・ヘルパー」や5段階目の「ドリーム・メンター」に達している人を被験者として夢の実験をしてみれば、夢が持つ「深度」を実感することができ、その「深度」は、日常的な意識ではとうていたどりつかないほどの物事の「深層部分」に到達していることがわかるはずなのだ。

一例を示そう。
私たちの夢研究グループでは、2020年5月、夢に関するある実験を行なった。「新型コロナウイルス感染症の世界的パンデミックは、複数の人の夢で事前に察知されていたか、またその夢の中には、このコロナ禍の解決策も同時に示されていたか」というテーマで、日本におけるコロナ禍発生以前の3カ月間の5人分の夢(合計64個)を集め、分析してみたのだ。その5名は、最低でも「ドリーム・ヘルパー」段階に達していると思われる被験者ばかりで、その中に、最終段階である「ドリーム・マスター」段階に達しているだろうと思われる被験者が一人いた。それは誰あろう我が師匠なのだが、その師がこの実験に供した夢の数は、他の被験者が提出した夢の総和をはるかに超える数であり、しかもその意味内容を調べてみると、他の被験者の夢が示した意味の総和をすべて含んだうえで、さらにそれを超えるものであり、その超えている部分が意味する内容は、他のどの夢が示しているものより、コロナ禍の「深層」の部分を言い当てていることがわかったのである。
もちろんここでは「価値判断」をしている。「価値判断は科学ではない」とするなら、それこそがまさに「1/4神話」である。

■患者が主治医に言うべきこと

やや脱線したので、夢と投薬治療の話に戻ろう。
この話題の二つ目の例を示す。
森田健一著『マンガ・夢分析の世界へ』(福村出版2021)には、()で囲って、自分で夢分析を行なう際のこんな「注意書き」が付されている。

「(なお、精神科等で投薬治療を受けている場合には、夢に意識を向けることが治療上の妨げになることもあるため、個人で行うにしても主治医とよく相談していただきたい)」

『マンガ・夢分析の世界へ』

この著者は、本人に自覚があるかどうかはわからないが、「夢分析? そんなものはやめておけ」と主治医に言われたらそうしなさい、ということを暗に示している。
私は、自分で夢分析するのも、専門家とともにドリームワークするのも、主治医に相談してはいけない、と言っているのではない。しかし、その一方で、近代西洋医学の専門家に、夢分析に対して偏見のない目で見ることを期待しても無理だろうこともわかっている。その理由はすでに述べた。
本来、夢学の専門家なら、「1/4神話」をすっかり信じ込んでいる近代西洋医学の専門家がいたら、夢の代弁者としてしっかりその役割や効能について啓発する立場であって然るべきだと、私などは思う。しかし、夢学の専門家の方に「深み」がないなら、それは期待できない。
上記のような「注意書き」は、夢学の専門家として、夢について考えをろくに深めてもいない人間がする「責任逃れの一手」だと思われても仕方ない。
もし、夢の意味を読み解く作業が、精神科の治療にとって何らかの妨げになるのだとしたら、精神科の治療の方を考え直すべきだとさえ、私なら思う。ある医学的な考え方や方法論が、患者の都合で「治療の妨げ」になるのではなく、治療者の都合で妨げになると判断されて排除される例を、私はいくらでも知っている。夢はそうした込み入った事情にも警告を発するだろう。
一般に、近代西洋医は、ある薬の効果を測るうえで、統計的なデータで判断する。統計とは、「例外」を切り捨てた結果である。あなたがその「例外」でない保証はない。科学的知見と称して、実は統計的判断にすり替えられている例も、枚挙に暇がない。実は、統計的判断さえ歪められたり、意図的に隠蔽されたりしている場合もある。
自分が続けている精神科の治療と、夢からの警告とどちらを取るか、という選択に迫られたなら、最終判断は患者の自由裁量に任せられるべきだとしても、私なら夢のメッセージにまずしっかり耳を傾けるよう助言するだろう。なぜなら、夢のメッセージとは、とりもなおさず本人の声にならない「心の叫び」でもあるからだ。あなたは、自分の心の叫びに対し、ともに耳を傾けようとする人間と、自分を見ずに、「1/4神話」にとっての「正解」ばかりを見ている人間と、どちらを信頼すべきだろう。少なくとも、主治医に対して、「先生、あなたが見ている医学の文献から目を上げて、しっかり私を見てください」と訴える権利が患者にはある。

■夢という「アラーム」を止めてはならない

私たちの研究グループが提唱する夢学の立場で言うなら、夢は、それをみる本人(夢主)が、より幸福で健全な方向へ人生の歩みを進められるよう導くために作られるのである。「夢学」に関する私の重点的な研究領域は、夢が作り出される「無意識領域」の構造や働きを突き止めることだが、その研究の集大成である「インテグラル夢学」にてらして言うなら、夢を「生産」し、私たちの意識領域へと送り出してくる「源」は、その日その瞬間に「夢主」にとってもっとも重要だと思える人生の課題やテーマに関する助言を、優先順位の高い順に提示してくるのである。
ただし、夢のメッセージは、「昼の国」で一般的に流布している情報伝達の方法論とはまったく異なる「文法」によるまったく異なる「言語」で書かれている。だからこそ「ドリームワーク」という「翻訳作業」が必要になるのである。

これは、私が経験した事例だ。
40代のある女性が1カ月半ほどの間に連続してみた15個の「悪夢」をトータルで読み解いてみたことがある。すると、彼女の内的葛藤と、それをどう統合したらいいか、といったテーマが順番に段階を踏んで示されていて、まるで彼女の意識と無意識が対話をしているかのようだった。その対話は、葛藤の統合に抵抗しようとする意識と、それをうまく方向づけて、より上位の段階の統合へと導こうとする無意識との間の問答のようでもあった。そこで、これらをまさに「意識と無意識の問答」という想定でシナリオにしてみたところ、明らかに無意識が意識に対して、極めて有能な「メンター」役をやっていることがわかったのである。確実に言えることは、死角だらけの「1/4神話」の信者には、どう逆立ちしてもこのような「メンター」役は務まらない、ということだ。

一般的な傾向で言えば、そのメッセージに緊急性があればあるほど、夢の内容は衝撃的で、いわゆる「悪夢」の様相を呈するものになる。夢はそれだけ夢主にインパクトを与え、忘れないよう印象づけたいのだ。それゆえに、寝覚めが悪くなったり、それが続けば不眠症になったりもするだろう。穿った言い方をするなら、夢は夢主の健やかな眠りを妨げてまでも緊急に伝えたいことがある、ということだ。それは夢の気遣いですらある。
私は何も、不眠症に悩む患者に睡眠導入剤のような薬物を絶対に処方してはならない、ということを言いたいわけではない。薬物で夢睡眠を抑制し、寝覚めをさわやかなものにしてもらうことは、治療のスタートではあってもゴールではない、ということを言いたいのだ。
その夢がインパクトのある悪夢であればあるほど、それは何らかの「アラーム」である。「アラーム」とは、問題が発生していることの警告である。したがって問題が解決されない限り、薬でいくら鳴らないように仕向けたとしても、必要があれば必ずまた鳴る。アラームを切った後にやるべきことは、アラームが鳴った原因を突き止め、それに適切に対処することである。薬で夢睡眠を剥奪(抑制)して、「さあ、これであなたの不眠の原因である夢は、もうみなくて済みますよ」と言って、その夢の主張にはいっさい耳を貸さないことを、私は治療とは呼ばない。それはただ単に「臭いものに蓋をする」行為である。それは治療者のやることではない。
たとえば、うつ病の患者などが、同じような内容の「悪夢」に繰り返し悩まされ、それがもとで不眠症になっているとする。私たちの夢研究グループの知見で言えば、その繰り返しみる「悪夢」の意味をしっかり読み解いて、そこに示されている夢からのメッセージや助言にしたがって、その患者が実生活を改善していけば、その悪夢は自然に収まるはずなのだ。

これは我が師が経験した事例だが、うつ病で仕事もできなくなり、自宅に引き籠っていた女性が、子供の頃から繰り返しみ続けてきた「悪夢」をもってドリームワークに参加した。そしてその夢の意味を読み解いたところ、いっぺんでうつが治り、以後はその夢をみなくなり、今までの自分には考えられなかったような、人前でレクチャーをするような仕事に就いたという。強調しておくが、これはたった一回のドリームワークで起きたことだ。
この女性のその後を追跡調査したかって? いや、していない。ただし、この女性が少なくとも同じ原因でうつになることはないだろうと判断できる材料がある。この女性が繰り返しみていた夢の中の得体の知れない恐ろしい存在は、実は彼女を見守る慈愛に満ちた眼差しの主だったことに、彼女自身が気づいたからだ。「黒」だと思っていたものは、実は「白」だった、という話である。つまり、悪夢こそが恩寵であるという逆転現象だ。いったん「白」であることが判明した「夢の意味」が、再び「黒」に戻ることはない。「価値判断」も科学的判断の一種ととらえられる理由はここにある。つまり、何が人を救うのか、という問題だ。人を救わないなら、それは科学ではない。
夢がもたらすこのような逆転現象は、多かれ少なかれ、ドリームワークの度に繰り返される。

■夢は独立した一個の人格である

繰り返しみていた「悪夢」の意味を読み解いた結果、その悪夢が収まるという現象は、夢を送り出してくる「源」が、本人に重要なメッセージが伝わって、事態が好転したと判断し、「もうその夢は必要ないようだ。ならば、次のテーマに移ろう」という認識になったことを意味する。
このような言い方をすると、「それはあまりに夢(ないしその源)を擬人化しすぎていないか?」とあなたは思うかもしれない。しかし、私はこういう表現を「夢の擬人化」だとは思っていない。なぜなら、夢(ないしその源)はもともと、夢主とは別の独立した一個の人格とみなした方が合理的である根拠があるからだ。その根拠はどこにあるのか、夢がもともと夢主の幸福と健全さのために作られるとする根拠はどこにあるのか、一般的な「言語」と夢の「言語」はどこがどう違うのか、そもそも夢が送り出されてくる「源」とはどこなのか、といったことについては、「インテグラル夢学」の中心テーマになってくるので、いずれじっくり語るつもりだ。

今はとりあえず、「夢とは独立した一個の人格である」とみなしておこう。
この結論にいきつくための前提として、確認しておかなければならないことがある。
まず、夢は無意識から意識へと立ち現れてくるものである、という認識だ。「無意識などというものが存在するかどうか怪しい」とする専門家もいなくはないので、その点は確認しておく必要がある。私は無意識の存在(つまり、人間には意識できていない広大な自己の領域が存在するということ)を疑ってはいない。言い換えるなら、人は無意識領域の内容をひとつひとつ意識へと転換していくことで成長するのである。つまり無意識とは、その人の人格を形成する要素をすべて内包した領域ということだ。そして、その「要素」が、毎夜夢という「姿」をとってその人の意識に立ち現れてくるのである。したがって、夢を知るという作業は、これから構築すべき「自己」の要素とは何かを知る作業に他ならない。
言い換えると、来たるべき未来の自分が夢に現れる、ということでもある。つまり、夢に現れる未来の自己像を、現在の自己へとひとつひとつ順番に統合していくことで、人はより全体的・統合的な存在へと成長していくのである。たとえるなら、欠けているパズルのピースを埋めていく作業だ。したがって、そのピースを埋める度に、意識の「死角」が埋まるのである。もちろん、必ずしも夢という媒体を使わなくても、このパズルの穴埋め作業はできるが、それでも夢が有力な方法のひとつであることに間違いはない。
そういう意味で、夢ないし夢を送り出してくる無意識の広大な領域の総体は、今現在自分が意識できている自己像と、来たるべき未来の自己像も含めた、「自己」の全体像だと言える。「無意識」の存在を疑わないなら、その無意識も含めて「自己の総体」であるということは、心理学分野の専門家の共通の認識であるはずなのだ。そんな夢ないしその源を、自分ではまだ充分に意識できていない「もう一人の自分自身」とみなしたとして、それを「擬人化」と呼ぶだろうか。ましてや、いくら患者が不眠に悩まされているからとはいえ、そういう働きのある夢を剥奪するなら、それは薬を使って重要な「証人」を「口封じ」することに等しい。誰にも真似できない最も頼りになる「メンター」役を、舞台から引きずり下ろすことに他ならない。それをもって精神病の有力な治療である(患者にとって福音である)と言い放って憚らないとは、私に言わせれば、立派な暴力行為であり「人権侵害」である。

■まとめ

まとめよう。
夢を取るに足らないものとみなし、患者が不眠に苦しんでいるなら、薬で夢をみなくする措置こそが、患者にとっては福音なのだ、とする考えは、病とは何か、夢とは何か、人間とは何かに関して、物語全体のせいぜい1/4しか視界に入っていないことを意味し、「深み」に欠ける「死角」だらけの考えである。こういう考え方しかできない専門家は、きつい言い方で恐縮だが、科学的なものの見方においても(おそらく人間的成熟度においても)、まだ充分に無意識が意識へと転換されていないことを物語っている。こういう人にこそ、自分のみる夢と向き合い、その意味を読み解き、自己成長に活かすことをお勧めする。


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