婚姻は戦争の始まりなのか

「性と婚姻の民俗学」(和田正平著)という本が面白い。


この本は1988年に発行された。
この中に出てくる風習は、本が書かれた頃ですら珍しくなっているし、現在この中に出てくるような生活スタイルは、本を書かれた当時よりも更に珍しく、あるいは消滅している可能性が高い。

しかし、それを差し引いても(私達から見ると)奇異な生活様式を営んでいたという事実がとても興味深い。


ものすごくざっくりまとめると、この本は

「一妻多夫婚」

「冥婚(亡くなった人との婚姻)」

「女性婚(女性同士の婚姻)」

その他諸々の結婚や、離婚や、姦淫などについて書かれている。



読む前までは、「一妻多夫婚は、現在も執り行われている一夫多妻婚の反対なのだろう。女性も好きな男性何人とでも同時に結婚してよし!の制度?」だと個人的に想像していた。

イメージ的には叶恭子さんとグッドルッキングガイ達のような…。

しかし文中に出てくる一妻多夫婚は、大半が「配偶者の兄弟も妻と性的関係を持てる」というもの。

兄弟に乗じたインセル消滅計画?

これがツイッターでよく見る「女をあてがう」ってこと?

同じ女性と性交渉を持った男性同士を「兄弟」って呼ぶことがあるけれど、そういうこと?

と、一夫多妻婚とは全く違う状況に「全然楽しくなさそう…」と心が暗くなってしまった。

(多数派では無いが、女性が好きな男性を兄弟関係なく選ぶというケースも一応はあるらしい)


ちなみにざっくり説明すると「死後婚」は夫が妻との間に子を作らず亡くなった場合、夫の兄弟と妻が子どもを作り、亡くなった夫との子どもとして育てるというもの。


そして「女性婚」とは、子どものいない女性(大体が占い師でかつ裕福、もしくは裕福な配偶者がいる不妊女性)が、出産可能年齢の女性と婚姻関係を結ぶもの。

女性は不妊女性の夫や男性親族、もしくは本人が選んだ男性との間の子どもを作り、その子ども権利は不妊女性に属するという。

(この場合、不妊女性の立ち位置は「夫」「父」である。アフリカでは男性が大量の持参金を女性の親族に渡すことで婚姻が成立するので、持参金が出せる=男性である、というような意味なのかもしれない。)


これに関しては、「お金や地位があって産まない女性」vs「家族が持参金を得るために嫁に出された女性が子どもを産む」というリアルハンドメイズ・テイル的設定に恐れおののいた。


読む前に私が想像していた、

「死後婚って、配偶者が亡くなったあとに、一生黒い服を着続けて悼む…みたいな?」

とか

「女性婚ってレスボス島とか、レズビアンに優しい国があるのかな?恋愛関係になくても、阿佐ヶ谷姉妹みたいに友達同士で暮らすのも楽しそう♪」

という希望は見事に打ち砕かれた。

上記3つの婚姻の形は、どれも強く家父長制のルールに則っている。(特に女性婚は、男性の権力が強いエリアの方がよく行われているらしい)


改めて、エマ・ワトソンの国連でスピーチを思い出した。

未だに女性が平等、もしくは男性より良い待遇にある国や文化は、過去にも現在にも、世界中どこを探しても、今のところは存在しない。


この本に出てくる3種類の婚姻の形、共通することは「子ども」である。


一妻多夫婚は、どの夫の間にできた子どもであってもメインの父親の子どもということになる。

文化的には「たくさん父親のいる子どものほうが優位である(もし戦争や出稼ぎに行っても他の父親に守ってもらえるから)」という価値観らしい。

死後婚は、長男が絶えた家の血を繋げるためにできるだけ近い血を持ってくるという、家を続けるための制度であるし、

女性婚は不妊女性が家系をつなぐ、家族を拡大させて守りを強化させるためのものである。


そして、私達が今生きている現代日本の「一夫一妻婚」、

中東やイスラム国家、モルモン教などに存在する「一夫多妻婚」。

(他の結婚の形もあるのかもしれないが、不勉強なためここでは省かせて頂く)

一夫多妻婚は戦争で配偶者を失った女性の福祉だったという説があるが、現代ではお金持ちが女性を何人も囲う意味が大きいし、正妻が子どもを授からなかった場合、第2婦人、第3婦人が子どもを産むことができるという効率的に子孫を残すシステムである。

一夫一妻制である日本であっても、先日同性婚に関する裁判に際し、国から婚姻制度の目的とは「男性と女性が子を産み育てながら共同生活を送る関係に対し、特に法的保護を与えること」(自然生殖可能性のある関係性の法的保護)との書面が出るほど、結婚=子どもの呪縛は強い。

(ちなみに日本の平均的な建売り住宅は夫婦と子ども二人を想定して建てられているものが多い。私の友人が家を建てる際にも、建築会社から「後々売ることを考えたら主寝室とこども部屋2つの間取りが一番売れやすい」と設計に関してゴリ押しされたというエピソードがある。)



妊娠、出産の話題になると必ずくっついてくる、母性本能、性欲…そういったごく個人的な欲望。

現代化された欲望の中でも、生命が発生した時から備わっている、いわば動物的なものである「子どもを残す」というミッション。

そのために、この複雑にシステム化された様々な婚姻関係の形というものが生まれたということに、私の中では違和感があった。

早い話が「番って子どもを作ることが本能なら、ほっといても勝手に作るでしょ?
どうしてどの時代の集団も様々なお膳立てをするのだろう?」という疑問が生まれた。


システムはそもそも個人の欲望を満たすというよりも、グループ全体の秩序を守り、治安を維持したり、コミュニティの幸福や安全の最大公約数を保持するために作られることが多い。

集団自体は自然発生するが、その集団をいかに維持するかには、様々な工夫やエネルギーを注ぐこと、そして効果的なシステムの構築が不可欠である。


どうして人は、様々な婚姻の形を駆使して自分に属する子どもを増やす必要があるんだろう?

子どもは一人ではだめなのか?

子どもを持たないライフスタイルはなぜメジャーにならないのか?

人口爆発が起こると言われて久しいが、それでも私達が子どもを作り続けろと言われ続ける、このプレッシャーはなんのためにあるのか?


その答えは意外な所から見つかった。


先日、日本語訳が発売された「母親になって後悔している」(オルナ・ドーナト著)この作品がイスラエルで出版された際に、イスラエル在住の記者が、合計特殊出生率が3人という日本から見たら脅威の数字を誇るイスラエルで、子どもを持つこと、そして持たないことがどう思われているのかについての記事を発表した。


その中では、(5,60年前に)イスラエルの元首相による「最低でも4人の子どもを産まない女性はユダヤ人の使命(イスラエルの存続と繁栄)にとって不誠実」という発言や、記者の友人の男性からの「子どもを持たない選択って違法じゃないの?」という大真面目な質問など、旧約聖書の「産めよ増やせよ地に満ちよ」を地で行くイスラエルの実態が、リアリティを持ってつづられていた。

(https://www.google.com/amp/s/www.haaretz.com/amp/life/books/1.5162313)


常にパレスチナと戦闘状態にあるイスラエルでは、

「子どもが減って国が消滅することなんて受け入れられない。」

「もっともっと人数を増やしてパレスチナを打ち負かそう、国を守ろう。」

そういった意味で多産が推奨されていることを知った。


そう。

人数が増えるということは、他国には脅威になるのだ。


増えた子どもは成長して兵士になる。軍に入らなかったとしても他国が攻めてきた際には、鋤を剣に持ち替えてならぬ、スマホを銃に持ち替えて戦う頭数ぐらいにはなるだろう。

実際に戦わないとしても、それだけの人数が不買運動をする、それだけの人数が歯向かう可能性がある、というだけで他者にとっては脅威になるのだ。


国民が大量にいるということは核兵器と同じ。

持っているだけで、存在しているだけで脅威になるのではないか。


「国」を「家族」に置き換えてみよう。


そう考えると、子どもが世の中にたくさんいることが正義なのではない。「自分に属する子ども」(血の繋がりではなく、親としての権利を自分が保有していることが大事)が多ければ多いほど、稼ぎ手にも、持参金にも、兵士にもなる。牛と交換することもできる。

途上国やプリミティブな文化圏にとって、子どもというのは資産であり、兵器である。


家族とは小さな国であるとすれば、何かあったとき、そしてなにもない平常時でも、自分に権利が属する子どもが多ければその家は豊かになり、権力は増していく。

子どもにお金をかける文化圏であれば子だくさんは貧乏だが、子どもが労働力になる文化圏であれば、子だくさんは上場企業であり、財閥である。また、外部の部族や敵対する他の家族となにか争いになっても、人数が多いほうが喧嘩に勝てる可能性が増える。


国を家族と考えたときに、子供(国民)にお金をかける家庭=福祉国家ほど、人数が無尽蔵に増えることに対してはシビアだ。(ヨーロッパや北米では安楽死が合法化されている国や州は多い)

大学まで学費が無料であっても平均出生率が減り続けているのは、それぞれの家庭で、経済的にも精神的にも幸せにできる子どもの人数には限りがあるということをわかってきているのかもしれない。

(一般的に、経済的に裕福な国ほど平均出生率が低い傾向がある)

それに対してアフリカなどの国々では平均出生率が高い傾向があるが、日本はその中間にあると私は考えている。


今から50年ほど前まで、日本では子どもは稼ぎ手であった。家が貧しくて大学に行けなかったという人は珍しくないし、親の代わりに妹や弟の世話をしていたという話もよく聞く。

現在の40代後半〜50代前半くらいから、大学進学率がぐっと上がり(特に女子)現在子育て世代である彼らは、自分の子どもにお金と時間を最大限かけることは普通であるという認識で子育てをしている。

その考えを持つ人は上の世代よりも多い。

しかし、日本を動かしているのは60代、70代、下手したら70代の高齢男性である。

世代的に、彼らの頭の中の子どもは依然として労働力であり、いざというときの兵士候補、そして現代アレンジとしてお仲間の企業にお金を落としてくれる消費者でしかない。

現実の子育て世代と政治家の子どもに対する設定のギャップがある日本は、イスラエルやアフリカ諸国のような、有事の際に人手が必要な国なのだろうか?

それとも、北欧や西ヨーロッパ諸国のような、個人の幸せを最大限に考え行動する国なのだろうか?


政治家の論理では、少子化が国にダメージを与えるのはよく理解できる。

今、何人かの政治家が言っている「少子化がー」「子どもを産まない人やカップルは生産的価値がない」は、まさにイスラエルと同じような、人員が減ることで国の存続を危うくするという考え方から発していることがよくわかる。

常に紛争を繰り返している不安定な土地や、他の部族や家族と小競り合いが頻発するような、法制度が国として整っていない国が生き延びるための人員確保と、
子どもが成人するまで2000万円かかる国で子どもを産むことは、同じ「少子化」でも意味合いが全く違う。


そして、「自分の子どもは可愛いよ〜」とか「少子化対策に貢献するために3人目産みました!お金があればもう一人産みたい」とか言ってる人は、自分のその考えが、自分の心からのものなのか、国や周りのシステムに洗脳されているものなのか、胸に手を当てて考えてみてほしい。

あなたの子どもが最大限幸せに暮らすために、あなたの家庭内では子どもは何人が適正だと思う?
地球規模と国規模で考えた際、あなたの子どもが不安なく暮らしていくためには、人口がどれぐらいが適正だと思う?

あなたのその考えは、70代の政治家が発した一言、60代の親御さんが吐いたアップデートされていない一言から始まっていないだろうか?



私達は今現在、有史以来はじめて
「子どもが人間である」
時代に生きている。

私が、「子どもを産むということ」について想像する時、考えるのは「子どもに対し、経済的に安定した生活や、十分な教育を与えられるのか」や「周りの環境は子どもにとって心地よいものになり得るのか?」だ。


私は今まで、このままではいずれ消えて無くなるこの国の「少子化」に対し、あまり危機感を持ったことはなかった。

しかしこの本を読んで、

「子どもが減ること」よりも、
「子ども自身や、子どもを産む女性の人権を無視して、子供が増え続けること」の攻撃性や、形は違えどそれぞれの結婚が、子どもを産んで父親に帰属させることで、家父長制を強化し続けている様を目の当たりにして、もうこんなことは終わりにしたい…と強く思った。


私は結婚自体や、出産や育児を否定したいわけではない。

気の合う他人と助け合いながら生活をともにすることや、自分の産んだ子どもを「かわいい!」と思うことにはなんの問題もないと考えている。(私自身は既婚子なしである)

ただ、結婚や出産の結果、男が偉い、女は従うべき、という家父長制的な考え方が強化され、その結果、暴力や不幸せな人生を歩む人間が発生するのは耐えられない。

フラットな夫婦関係や、無理のない計画的かつ子どもの幸福に対し最大限に配慮された妊娠・出産には心からの賛辞を送りたい。

連綿と受け継がれてきたものが良いものとは限らない。

「自分がされて嫌なことは相手にしない」「そのためにシステムを変える、変え続ける」をすべての人が実行できたらどれだけ住みよい世の中のなるだろう。

連綿と形を変えながら受け継がれてきた結婚、そして出産と育児、あなたは現在の婚姻システムと育児を巡る環境に心から満足して、それを後世に残したいと思いますか?




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