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a concept of “anoesis”

2019年度内に刊行を予定している「anoesis」のコンセプト。これはドラフトなので、さらに編集をかけます。コンセプトは「伝えることばから、残したいことばへ」。

anoesisとは

anoesisという言葉を辞書で引くと、”a state of mind consisting of pure sensation or emotion without cognitive content.”とある。アノイシスと読む。思考を伴わない純粋な感覚や感情。伝えるためではなく、ただ言葉を残すための試みと、この言葉をほどきたい。

共感と共有への反抗

共感という言葉が氾濫している。共感はいつからか他動詞になってしまった。自発的なものなのに、強いられるものになった。同調を強いる社会のムードができあがってしまった。本来、善でも悪でもない言葉なのに、とてもポジティブな心的行為として受け入れられるようになった。

分かりやすく伝えること、広く共有できることが善となっている。パブリックインタレストのために共有されるのではなくて、共有という概念が個人の思想や趣味、嗜好、行動規範までを侵食している。開かれていること、透明であること、分かりやすいことが善。陰はあってはならないのだ。そのような不文律がムードとして社会に浸透している。

政権が崩壊しようが、仮に民主主義が正常に機能しようが、自由はやってこない。私たちの首を締めているのは、テクノロジーと暮らしが絡み合っている社会構造そのものである。どこかまったく異なる文明に生きない限り、これは個人の力ではどうすることもできない。戦争を除けば、国家やマスメディアがかつて誇った権力をはるかに凌駕するほど、個人に対して不条理である。

私たちは、他者とつながるため、つまり社会的な生を確保するために、自ら相互監視的な社会を「享受」している。すると、命題は、社会と自己との距離のとり方、社会的な自己をいかに維持していくかということになる。

そして、同調という前提を共有しながらも、コミュニティは多様化、細分化されていて、その価値観とコミュニケーションは一様でなくなっている。すると、それぞれが属するコミュニティにあわせたつながりと価値観の表現が求められる。

社会と自己の距離をはかる

社会が求める価値観に自己同一化しながらも、その過剰な侵食から身を守るために、私たちは自己に多面性と深度を持たせないといけなくなった。

一貫したペルソナをあらゆる状況下で維持することは非常に難しく、コミュニケーションに合わせて、人格は多面的である必要がある。それは社会に対して、アコーディオンのように水平に展開され、接触する情報(コミュニティ、ひと、メディア)の種類にあわせて、適切なアティチュードとして面が選択される。

社会的自己の多面性を減らすと、結果として逸脱する場合がある。一方で、社会に自己同一化しすぎると、当然、自己は埋没して、実存性の危機に陥る。

ちょうど良い具合というのは難しい。特に、面的に展開されるペルソナや、カテゴライズされた情報のチャネルとは異なり、社会と自己の距離はスペクトラムである。スペクトラムの濃淡、社会との距離は、常に変動していて、一定の距離感を維持しつづけるのは困難である。

ペルソナの選択はごく自然に行われるが、社会と自己の距離が適切でないことがある。それがコミュニケーションが破綻する原因であり、社会的には機能不全とみなされてしまう。コミュニティとチャネルが多様化、細分化されたことで、可塑性のあるコミュニティは少なくなり、共感と価値観の共有を求められる。居場所を見つけたように錯覚するものの、社会的な自己を演じることに慣れきっているだけである。社会との距離感、自己とチャネルの合わせ方が器用な人が受け入れられ、共感の触媒になって重宝される。

私たちは、今一度、社会から心的距離を置いてみてもよいと思う。なにか違和感があるのなら、目を瞑り、耳を閉じてしまえばいい。それほどに見なければならないもの、聞かなければならないものが、眼前にあるのだろうか。本当に聞かなければいけないことは、目を瞑った方が聞こえて、本当に見なければいけないものは、耳を閉じた方が見えるのではないだろうか。

伝えるためのことばを捨てて、残したいことばへ

テクストには大きく分けて、記録と伝達の機能がある。共感の時代において、いかにうまく伝えるかばかりが重要視される。他者の視点にさらされているテクストは、解釈されることを前提として記述される。情報は、本来の形から加工され、読み手のアイレベルに合わせる必要がある。場合によっては、正確さよりも、読み手にストレスを与えないことが優先される。共感されること、またそれが奇異なものだった場合は共有できることが重要だから、テクストの本質は軽視される。小説ですら伝えるという機能を持たせるから、テクストは相対的な価値によって判断されてしまう。

それなら、いっそのこと、解釈されることを前提としないテクストがあってもよいと思う。伝えようとする意味なんて、なくてよい。村上龍が言う時代性の反映なんて不要で、個人的な真実のみが述べられていれば、そのテクストの価値は解釈によってではなく、記述されたことそのものであるから、誰にも侵されることはない。

読み手にとっていかなる価値もないかもしれない。しかし、そこには書き手の自由ばかりか、読み手の自由もある。書き手が誘導するプロットに従って解釈する必要なんてない。正しい読み方などなく、一切の解釈は読み手に委ねられる。

あるひとりの男の日記を預言だと思ってもよい。読んだ時間が無駄だったと唾を吐いてもよい。自発的に共感を覚えてもよい。メタメッセージに気づいて、世界で自分だけに向けられた愛の告白だと思ってもよい。

剥離していく自己を留めおく

ひとが生きていくなかの、ほんの些細な感覚的な塵や埃のようなもの、すぐに忘れてしまうようなことを書き留めたら、それはそこに記憶として固定される。共有する意味もない。小説にもならない。でも、なんだかそのまま忘れてしまうと、二度と思い出せないような些細なことが暮らしのなかでたくさんある。指先でしか感じられない、生の感触のようなものは、自己が剥離した薄皮のようなものである。社会との接点はないかもしれないが、剥がれ落ちていくものを、ときに拾わないと、自分が消えてしまうかもしれないような錯覚を覚える。だから、自ら骨を拾うのである。意味がなくても、記述をする。社会における価値から離れて、自分だけにとって大切なものに丁寧に目を向ける営みを試みたい。必然性も計画性もない、私小説のように構築もされていない、テクストを社会に露出するのが、anoesisの試みである。

社会に露出するという仕掛けは、anoesisがメディアである舞台装置としての必然性であるから、無意味や無価値と言いながら、それ自体が意味や価値を生んでいることになってしまうが、意味のないきわめてパーソナルな記録が世にテクストとして残り、読み手の記憶の断片として記憶装置が増殖することもまたおもしろい。

社会的な自己から離れて、少し内面をのぞいてみる。社会のものさしで自分をはかるのではなく、純粋に自分の内面に閉じこもってもよい。感情と向き合い、感覚を観察する。世の価値観やバイアスに染まりきっている、ノイズに満ちた思考から離れて、社会的自己を嘲笑し、忘却する。

ただ感じるということ。思考を伴わない純粋な感覚や感情、「あ、忘れなくないな、この感じ」という感覚の泡沫を凍らせること。

これは、真空の小さな箱のなかで実験をするようなものである。ただ、その箱を道端に捨て置いてみるというだけで、社会にはそよ風すら起こさない。感じたことを記述して燃やしてしまうのはあまりに寂しいから、書き留めた紙片をビルの屋上から風に乗せてみるような、きわめて無意味な試み。

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