祖父の手
手が悴む季節になった。風の冷たさに身を震わせ、もう冬が来るのかと1年を振り返る。
あの日もよく冷えた1日だった。去年の正月のこと、73歳の祖父とお別れした。その日は寒く、午後から雪が降り出していた。
5人の孫の中で一番末子だった私は、幼い頃、兄や年上の従兄弟によく泣かされていた。祖父は泣き虫な私を一段と可愛がってくれていた。
私のお気に入りは、祖父の手を握ることだった。家を作る大工だったその手はゴツゴツと骨張っていて、筋肉のつき方の見本のようであった。手の甲には豆が3つ4つあるあって、昭和の街大工を代表する職人の手は幼心に誇らしさを感じさせた。
若かりし頃の祖父は大工の夢を追いかけ戦後実家から飛び出したそうだ。
貧乏でけして恵まれた環境ではなかったが、弟子として何年も腕を磨いた。ついには家族のために一戸建ての家を買えるほど稼ぐ、街一番の大工になった。
家族を支える『大黒柱』という言葉がよく似合う。
幼稚園や小学生の頃はそんな手を引っ張り、山や海を駆け回った。山にタケノコ堀や銀杏広い。海にシジミやハゼ釣りに行った。自然の楽しさを教えてくれた。
正月には、祖父手作りの木臼で餅をついた。出来立てのお餅の湯気の香りが祖父の家を包む。一緒に食べるお餅はホクホクだった。醤油やらきな粉やらつけずとも、充分なほど美味だった。
中学生になると祖父の部屋で漫画を読むようになった。遺伝だろう、祖父の漫画好きが自分にも移った。北斗の拳やらボクサー漫画やらなんとも中学生にしてはジジイくさい趣味を共有した。
月日は流れ高校に入学したあたりから疎遠になった。
時代柄、中小企業中心だった大工は大手企業に仕事を奪われた。
昔ながらの亭主関白だった祖父は『働かざるもの食うべからず』の頑固ものだ。
家族の生活費を少しでも浮かそうと食が細くなり、みるみる痩せ細っていった。
筋肉は少なくなり、庭で一日何本もタバコを蒸す姿に心痛めた。祖父のたくましさに憧れていた私は、なんだか急に小さくなってしまったように見えた。
手を繋ぐことはもうできなかった。部活に明け暮れ、1駅離れた祖父の家に行くのは年始年末くらいになった。
祖父の手を10年ぶりに握ることになったのは、去年の正月だった。半年間の病院での闘病生活に終止符をうち、自宅のベットで最後の時を待つことになったのだ。我慢強さが仇となり、病に気付くのが遅かった。
1年前の冬、私の成人式の振袖姿に「きれいになってから」と目を細めていたのに。
シワいっぱいの笑顔が思い出される。
幼い頃通いなれた祖父の5畳ほどの部屋は、大きな介護用ベッドに占領されていた。親戚が集まるのだから、その窮屈さは2倍になる。
身体はほっそりしていて、ところどころに水膨れを作っていた。寝たきりになった体は固まってしまい、口を閉ざすことも、話すことも意識を保つことも出来ないそうだ。その姿にチクリと胸を痛めた。
『おじいちゃん、私よ。。あんじゅよ。』
喉から振り絞った声が思うように届かない。
耳元でもう一度呼びかけると、病に犯され朦朧とする中でほんの10秒ほど、うっすらと瞼が上がる。
しかし、焦点が合わない。
虚な目に合わせるように顔を動かした。
やっと目があうと、祖父の綺麗な黒色の目は、ビー玉のような水色の目に変わっていた。
一瞬、もしかしたらもう私のことなど、忘れてしまっているかもしれないという考えが浮かんだ。
しかし、その考えはすぐに打ち消された。
祖父の乾いた口から『おおぉ』とはっきりと声がしたのだ。声を出すことも難しいと祖母から聞いていたのだから、祖父の想いに全身から嬉しさが込み上げた。
すると、自然にこうおねがいをしていた。
「おじいちゃん、、、手繋いでいい?」
祖父は目を閉じていて、返事はなかった。
代わりに祖母が、繋いであげてと声を出す。「またつなぎたいって、何度もいっとったんよ」と伝えられ、なんとも言えない気持ちに胸が締め付けられる。もっと手を繋いでいたかったのかもしれない。痛くないように出来るだけ手をゆっくりと包んだ。
外仕事のため日焼けをしていた祖父の手は、シワが幾重にも入り青白く、少し冷えていて時たま震えていた。別人のようなそれが、あまりにも悲しい。
そのまま手を離すことができず握っていた。これが最後になるかもしれないと思うと名残惜しかった。
そして何も話さぬまま、3時間ほど握っていた。自分の温もりが祖父に移っていくことに安堵した。
祖父の寝顔を見ていると、微かに握り返してくれていることに気づく。
勘違いだろうかと思ったが、たしかに手が握られていた。そうか、今でも祖父は強いのだ。
大好きだったその手を握り返す。骨の感触と微かな温かさに祖父のたくましさを感じた。その後祖父は長い眠りについた。
安らかな寝顔。幸せな人生だっただろうか。気を吸い天を仰ぐと、幼き日の祖父の勇姿が目に浮かんだ。