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予流果の土台 ルアンプー•プラモート師

ダンマには二つの段階があるのです

まず初めのダンマは

誤った見解を洗い流さなければなりません

それは

五蘊(ごうん)は私であるという見解です

特に洗い流さなければならない誤った見解は

心は私であるという観え方です

我々が執着する五蘊の中でもっとも高く

執着していることは心に執着することです

そして

誤ったものの見方を洗い流したということは

預流果の土台になっているのです

心の執着を洗い流すことが出来たならば

それは土台が阿羅漢になっているのです

ですから

修習をすることのまず初めに

心を高めること

それは

心を静め

心を定めなければならないのです

その後に

心に本当のことを学ばせていくのです

楽も変化しないことは無い

苦も変化しないことは無い

心に善が生じることも変化しないことは無い

心に不善が生じることも変化しないことは無い

生じたものに応じて観ていくのです

すると次の段階には

「心は私ではない」と

解かってくるのです

心を思い通りにすることは出来ない

心に命令することは出来ないと

そして

五蘊は「わたし」ではないと解るようになるのです

もしも心が「わたし」では無いのであれば

五蘊は私では無いのです

その世界は全て私では無くなるのです

心が「わたし」であるのならば

五蘊も「わたし」になるのです

身体も「わたし」なのです

わたしの家

わたしの家族

わたしの財産

わたしの苦に

わたしの世界

ほとんど「わたしのもの」になってしまうのです

ですから

修習を実践し

「心はわたしではない」と解ったのならば

世界も

宇宙も

五蘊も

ただ「知る対象」に過ぎなくなるのです

「わたしの」では無くなるのです

しかし

わたしのものではないと観えていたとしても

まだ執着はあるのです

これは別の種類の事ですよ

「五蘊はわたしのもの」

「心はわたしのもの」

と観えることは誤った観かたです

見解を正すことは出来るのです

これは預流果です

有身見を洗い流すことはできるのです

自分がいる自分があるという感覚を洗い流すことが出来るのです




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