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新年の法話(仏歴2566年)⑤ルアンポー・プラモート師

(つづき) ですから私たちは原因と結果を信じるのですよ。業の結果を信じるのです。業とは私たちの行なってきたことなのです。 心で行ってきたこと、マノー・ガム。口で行ってきたこと、チー・ガムといいます。身体で行ってきたことは、ガーヤ・ガムと言います。
 自分自身を沢山観察し学ぶのですよ、「煩悩と渇愛の力で生じた思考」は要らないのですよ。煩悩と渇愛の力に因った思考をしない、煩悩と渇愛の力に因った言葉を発しない、煩悩と渇愛の力に因った行いをしない。もしもその行いをすることで、私たちの心が高まるのであれば善い行いなのです。しかしもしもその行いをすること悪事になってしまうのであればそれは悪い行いなのです。
 ですから私たちが「善く考える、善く話す、善く行う」のであれば善い結果になるのです。私たちの苦(ドゥッカ)は徐々に小さくなっていくのです。
 ある人が「あの人が憎い、この人が憎い」と考えるのであれば、イライラするだけなのですよ。幸せは生じないのです。態度を改めて、他人を見る時、友人だと思って観るのです、悲(カルナー)を持って観るのです。すると自分自身の心にサマーディ(集中)が訪れるのです。心が涼しくなり幸せが生じるのです。私たちの心なのですよ。
 ルアンポー・カセーム・ケーマコー師*は以前ルアンポーにダンマを教えて下さった尊敬するお坊様です。師はこのように教えて下さったのです。

「善い思考ならば心が涼しくなる、思考しないと涼しく楽になる」

善い思考ならば心が涼しくなるとは、世間に浸り込まずに考える事です、誰にも危害を加えたりしないこと、原因と結果と共に考えることです、無知で愚かに考えないのです。これが心が涼しいという事なのです心が涼しくなるという事なのです。他の人を考える時にメッター(慈)の心で考えるのです心が涼しくなるのです。静けさが訪れるのです。今いる比丘にも一人メッター教えています。メッターの修習です。心が涼しくなるのです。それからヴィパッサナー修習に進むのです。
 もう一つの「思考しないならば涼しく楽になる」とは高い段階のものなのです「思考しない」には2つの段階があります。考える時に「私が考える」ではないのです。私・自分 というものは無いのです。考えても「私」というものが生じてこないのです。修習していない人には何を考えても「俺が考える」「私が考える」なのです「わたくし(ディチャン;女性)が考える」はあまりありませんね。「俺・俺たち」というのが多いですね。
 考える時、この心「私」ではないと感じてしまうのです、この身体は「私」ではないと感じてしまうのです。このように考えるのであれば、「心は涼しく楽になる」のです。心が涼しく楽になるとは苦(ドゥッカ)が滅している様子が観えているという事です。まずはじめに考える時、自分・私が生じてこないのか観察するのです。考えるとハマりこんで俺の、私の、私たちのではないのです。最後には考える事・思考の肉片だけが残るのです、飾り立てられている思考の本体だけが残るのです。脳はまだ考えることが出来ます。必要な時には考えるのです、しかし考える必要が無い時には、ただそこに在るだけでいいのです。(つづく)

*ルアンポー・カセーム・ケーマコー師(1912-1996) หลวงพ่อเกษม เขมโก

*ディチャン タイ語の女性言葉で「わたし・わたくし」という意味、男性であればポム(私)と言う


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