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ブッダの遺骨 仏舎利の行方 4

■仏舎利発見後 1898年 その一部が当時のサイアム(タイ)にもたらされることとなり、その後、一部が日本にも分骨されることになりました。

 (③続き) 1898年の事です。サイアム(タイ)ラマ3世のひ孫であり、ラマ5世のいとこであったプリスダン王子が出家僧として当時イギリスで教育を受けておりました、そしてこの仏舎利のニュースを耳にします。そして彼は出土品と仏舎利を拝見しにインドに来ることになりました。仏舎利を拝見すると、彼ははその仏舎利の一部をサイアム(タイ)とセイロン(スリランカ)に持ち帰ることを望みました。

Mr.Prisdang(The Prince-Priest)  พระองค์เจ้าปฤษฎางค์ Pra Jinavaravansa

セイロン(現スリランカ)のお寺で出家した

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ラーマ5世

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 その後、イギリスとインド政府は出土品の大部分を当時唯一仏教宗主国であったサイアム王国(タイ)に差し上げる事を決めそれをサイアムに申し出ました。サイアム政府およびラマ5世は非常に喜んだと同時に政府内で大きな議論となりました。それはこの仏舎利が本物と信頼して良いのかどうか、もし偽物であった場合受ける国際的な恥辱を受けなければなりません。また、受け取らない場合でも、これは本物と信じるべきでない理由を世界に示さなければなりません。記録によると、インド政府・イギリス政府から提示されたデータを英語・パーリ語に堪能でブラーフミー文字を分析する能力もあった出家僧のプリスダン王子やサイアム王立裁判所が検証したとあり、最終的にこれは信頼に足るものであるという結論に至り、インド政府からの申し出を受ける事にしました。

 仏舎利の引き渡しは1899年の2月14日(木曜)の事でした、遺跡から約100km離れた都市のゴラクプール(Gorakhpur)で行われました。一行はその足でサイアムに戻り、3月2日に到着したそうです。当時はインド→タイの片道だけでも16日間もかかる長旅であったのですね。その後、5月23日に現在のワット・サケットに安置されることになりました。当時は8名のお坊様が、サムットプラカン市から花で飾られた特別列車に乗り、バンコクのフアランポーン駅からワット・サケットまでは王室の壮大なパレードで奉納されたそうです。

仏舎利を受け取った Mr.Phraya Sukhumnaiwinit (右側) ナコンシータマラート(現:コラート)州知事。

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■ここからはワットサケットに実際行って見ましょう。

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ワット・サケットはバンコクの中心地から少し離れた西側にあります。

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Gold Mount と呼ばれたりもしています。山の周りを登っていきます。

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上まで行くと中心に仏像が祀ってあります。三帰依をしてきました

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これはウィリアム・ペッペが発見した石棺の説明と、5つある骨壷の一つの説明がありました。感慨深いです。

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さらに上に上ります

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ジェーディー(ストゥーパ)があります。ストゥーパの上に仏舎利があるそうです。

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CCDカメラで仏舎利の様子が見れました(肉眼で直接は見られず)しかし感動!

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別な資料の舎利

1899年仏舎利はタイのワット・サケットにもたらされました。

 その後仏舎利の3分の1はインドの博物館、3分の1はウィリアム・ペッペが所有することになりました。

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■1900年(明治33年)日本にも仏舎利がもたらされる 

その後、仏舎利はサイアム王朝のラマ5世より、スリランカ・ミャンマー・ロシア・日本に送られることになるのでした、日本では明治33年の事でした(続く)

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