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映画『25時』アンナ映画批評#1

 アンナ映画批評、第1回目はエドワード=ノートン主演、スパイク=リー監督の『25時』を取り上げたいと思います。

《あらすじ》

 ニューヨーク市を舞台に麻薬密売で7年間の服役を課せられたモンティ(エドワード=ノートン)が刑務所に収監されるまでの自由に過ごせる最後の24時間を後悔と不安とかつての親友たちと共に過ごす。モンティに残された選択肢は3つ。7年間の服役、逃亡、自殺。

《スパイク=リーの作風》

映画を選ぶ基準

 皆さんは、映画を見る際に何を基準に選ばれるだろうか? 制作国、俳優、それとも予告編の出来の良さ? もちろん映画の好みは個人の主観に依るところが多く、誰かに決められるものではないはずです。ですが、ここでひとつお耳汚し願いたい。実ははずれ映画を引きにくい選び方があるのです。ひと言で言えば映画監督で選んでください
 実力のある映画監督のもとには各分野のエキスパート達が集まります。音楽、編集、脚本といった具合に……。スピルバーグ監督は、監督としての実力があるからすごいのではなく、スピルバーグという名前で世界中の天才たちが集まるからすごいのです。
 よく映画評論家の方々は監督の個性は第1作目に現れると言いますが、各分野のエキスパートと出会う以前ということで、監督の技量そのものが試されているからです。
 では、このスパイク=リー監督は当たり監督なのでしょうか? 「はいそうです」と言いたいところですが当たり外れが激しいです。といっても駄作という意味ではなく毎回尖ったテーマを突き付けるためそのテーマに乗れる時と乗れない時があるという意味です。その振れ幅が作品を名作たらしめる条件でもあるのですが……。

タランティーノ監督との舌戦

 スパイク=リー監督の特徴としては、ニューヨーク市を舞台に人種問題といった社会問題に鋭く切り込むというものです。その問題意識は映画の枠を飛び越えることもあり、クエンティン=タランティーノ監督との論戦は記憶に新しいのではないでしょうか? ここでは論戦内容を掘り下げませんが、タランティーノ監督作品内での差別的なブラックジョークに噛みついたというものです。ここでタランティーノ監督を挙げたのは、スパイク=リー監督の作家性に触れるためだけでなく、出世作『ドゥ・ザ・ライト・シング』がセリフのテンションなどを含めタランティーノ監督の出世作『パルプフィクション』と雰囲気がすごく似ている気がして誰かとシェアしてみたかったからです。

9.11以前の『25時』と9.11以後の『25時』

 『25時』の舞台がニューヨーク市であることは先程もご説明しましたが、ここで忘れてはならないことは原作は2001年1月30日に出版され、映画は2002年に製作されたということです。この1年の間にニューヨーク市で起こった出来事は、ニューヨーク市だけでなく世界中の歴史を大きく変化させたことでしょう。
 この映画を監督するにあたってスパイク=リー監督は「9.11に触れることなくこの映画を作ることはできない」と述べていました。9.11から1年程しか経たないにもかかわらず、誰もがしり込みしてしまう出来事を映画の中に取り込んでしまうスパイク=リー監督の姿勢は、まさに社会問題に切り込み続けた監督だからこそ可能だったのでしょう。
 映画とは2時間という世界の中で、いかにフィクションをもっともらしく観客に信じ込ませるかに心血が注がれます。その方法は大きく分けて2つあります。
 1つ目は、原作が古い場合は時代を現代に持ってくる。2つ目は今作でも取り入れられた現実に起こった出来事を映画に取り込むというものです(映画の中での現実感をリアリティラインと呼びます)。しかし、あまりにも鮮烈な出来事の場合は、製作者の技量不足などから表面的なものとなってしまうことがあります。そうなれば、観客は反発を覚え結果的に映画の嘘くささを強調してしまうのです。そのため、映画に現実を取り込む作業は何よりも慎重かつ実力の伴った人々によって行われる技なのです(もちろん今作で9.11が取り入れられたのはリアリティラインを上げるためでなく追悼のためであることは言うまでもありません)。
 リアリティラインを上げるためのもう一つのテクニックである、舞台を現代に持ってきた作品で記憶に新しいものといえば、内海紘子監督のアニメ版『BANANA FISH』でしょうか。(こちらも原作、アニメ版とも素晴らしい作品でありことは言うまでもありません)。
 アニメ版『BANANA FISH』は70年代ニューヨーク市からスマートフォンの存在する現代へと変更されました。しかし、9.11以降のニューヨークでギャングが銃撃戦を繰り広げたり、香港返還という大きな出来事を無視したストーリーなどを考慮すると、2つのリアリティラインに関するテクニックがいかに難易度の高い技かが伺い知れます(もちろん50年もの時代変更は、現実に起こった出来事を取り入れること以上に難しいことは言うまでもありません)。

《スパイク=リーとその仲間たち》

デイヴィッド=ベニオフ

 次に原作者のデイヴィッド=ベニオフについてご説明したいと思います。今では飛ぶ鳥を落とす勢いの『ゲーム・オブ・スローンズ』のプロデューサーとして活躍中ですが、そんな彼が小説家として第1作目に上梓したのがこの『25時』です。インタビューでは、映画化に当たって「監督はスパイク=リーにしてほしい」と自ら指名したそうです。もちろん原作の舞台がニューヨーク市と言うこともありニューヨーク市を舞台にすれば、マーティン=スコセッシ監督と肩を並べるほどの実力派監督だからでしょう。しかし原作を読んでみるとニューヨーク市というキーワード以上にこの『25時』がスパイク=リー監督でなければいけない必然性が見えてきました。

 先程ご紹介しましたスパイク=リー監督の出世作『ドゥ・ザ・ライト・シング』や、後の作品でもおなじみのカメラに向かって登場人物が独白を始める演出が、なんと原作小説の中にも登場するのです。これはもう、原作者のデイヴィッド=ベニオフがスパイク=リー監督の過去作品から影響を受けて小説に反映させたといっても過言ではないでしょう。

2人の天才撮影監督

 スパイク=リー監督の技術的な作風といえば、社会性を帯びた重々しいテーマとは対照的にスタイリッシュなカメラワーク(役者が台車に乗って移動する)にダブルカット(短い映像を2度繰り返し強調する)など、かなり挑戦的な姿勢を示しております。今作『25時』ではスコセッシ監督の右腕として後に活躍し『アレキサンダー』ではその天才ぶりを余すところなく見せつけた、撮影監督のロドリゴ=プリエトをむかえ上質な人間ドラマに前衛的な表現を加えています。


先程、映画を選ぶ基準にて、監督を1番に挙げましたが、2番目は脚本家、3番目は撮影監督という具合に選ばれてはいかがでしょうか?
これほどまでに素晴らしいカメラワークは数少ないでしょう(1:39~)。『アレキサンダー』は超大作には珍しく歴史に残るべき傑作ですがあまりにも評価が低いです。人々が求めているのは、ゴルディアスの結び目を叩き切る武骨な英雄であり、この映画のような繊細で人間臭い英雄ではないのでしょう。

 恐らくスパイク=リー監督は今作で撮影監督にマシュー=リバティークを迎えたかったのだろうと予想できます。というのもマシュー=リバティークが『レクイエム・フォー・ドリーム』において表現方法を確立したスノーリカムという撮影方法を『25時』で採用していたからです。しかしスケジュールの都合上、撮影監督はロドリゴ=プリエトになったのだと思います。
 以下の映像は、マシュー=リバティークが撮影監督として参加した『レクイエム・フォー・ドリーム』のスノーリカムと『25時』で撮影されたスノーリカムの映像です。

 後に、スパイク=リー監督は『セレブの種』『インサイドマン』『セントアンナの奇跡』でマシュー=リバティークを撮影監督に迎えています。
 結果的には今作『25時』においてはロドリゴ=プリエトで正解だったと思います。マシュー=リバティークのカメラワーク(手持ちカメラを多用)ですとあまりにもインディペンデント感が表に出てしまい重厚な人間ドラマのノイズになったのではないかと思います。ちなみに『25時』ではスノーリカムを使用したシーンは最終的にカットされました。

名優エドワード=ノートン

 そして、今作においては主演俳優の観点からもスパイク=リー監督にとって新たな挑戦でした。これまでスパイク=リー監督作品の主演俳優はデンゼル=ワシントンに代表されるように有色人種で占められておりました。しかし、今作ではスパイク=リー監督の熱烈なファンを公言していたエドワード=ノートンを主演に迎えるという新たな試みが行われました。
 エドワード=ノートンといえば日本通であることに加え様々な名作に出演していますがその中でもサマセット=モーム原作の『ペインテッド・ヴェール ある貴婦人の過ち』は日本未公開ながら隠れた……、というにはあまりにも恐れ多い程の名作といえます。以下の映像は『ペインテッド・ヴェール ある貴婦人の過ち』のオープニングです。

 オープニングだけでも鳥肌ものですが、今作品はストーリーだけを追えば、胸焼けする程のメロドラマです。しかしセリフを多用しない繊細な演出が映画という媒体が持つ可能性をこれでもかというほど引き出しております。48分頃のサラダを食べるシーンは映画史に残る演技合戦でしょう。テーマはメロドラマにふさわしく「失ってはじめて気づく大切な存在」といったものです。

《スパイ作家サマセット=モーム》

 ここで、少しわき道にそれますが『ペインテッド・ヴェール(五彩のヴェール)』の原作者サマセット=モームといえば作家業の傍ら趣味でジェームズ=ボンド張りの情報工作員のバイトをしていたそうです。そんなモームの代表作は『月と六ペンス』や『人間の絆』などがあげられるかと思います。『人間の絆』などは岩波文庫風味溢れるブンガク感のある作品ですが(『人間の条件』と毎回かぶってしまいます)『月と六ペンス』などは、ゴーギャンをモデルに「芸術とお金」といった、こちらもまたベタなテーマのエンターテイメント作品を書いています。

日本を代表する偉大な作家のひとりである開高健はあるエッセイでモームのことを、ベタなエンターテイメント作家だと甘く見ていたが、『昔も今も』を読んで、その偉大さを思い知ったと述べています。


 『月と六ペンス』を読んで感じたことは、お金とは贅沢をするためでもブランド物を買うためでもなく、他人の時間を買うためのツールだということです。もしくは、何者かに吸い上げられる自分の時間を買い戻すための物といえば少しは聞こえがいいでしょうか?。
 あらゆる活動を行う上で一番のコストは、人件費でも材料費でもなく自分の時間だということです。酸素は無ければ生きていけませんが、あまりにもありふれた存在過ぎて、その有限性を忘れてしまいます。それと同様に、時間というものは命と同義であるはずなのに、やはりその有限性を忘れてしまいそのコストの大きさを見誤ってしまいます。Time is moneyでありTime is lifeなのです。

《時間とは?》

 『25時』におけるドラマの大部分が、過去の後悔とこれから待ち受ける7年の刑期の心配事に起因するものです。この映画が意識下に訴えかけてくるテーマは人間の悩みのほとんどの原因は、意識の軸が過去と未来に置かれることに起因するというものでしょう。過去の失敗に思い悩み、さらには老後の生活を思い悩むといったものでしょうか。そしてその悩みはじわじわと現在を侵食していくのです。しかし、時間=命だということを強く自覚すれば意識の軸はおのずと現在に置かれ今を生きるために割かれることになるでしょう。

《まとめ》

『25時』の主人公モンティの意識は過去、現在、未来と目まぐるしく行き来します。しかし、ラストに見せる穏やかなモンティの表情をぜひとも見ていただきたい。自由に過ごせる最後の24時間を通して、今この瞬間に人生の軸を置くことを強く決意した人間の穏やかな表情を見ることができるでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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