うつ病の母が大っ嫌い
うちにはうつ病の母がいる。
私が小学生の時から母は一日中ふとんのなかで過ごしていた。
父はそんな母を残して、逃げた。
あの日のことは今も鮮明に覚えている。
いつものように小学校から帰ってくると、母が大泣きをしながら暴れていた。それを父が抑え込むようになだめている。
何があったかわからず、あとから帰ってきた兄と、怯えながら、泣きながら、立ち尽くすことしかできなかった。
すると母が大きく鋭い布切りハサミを持ち出してきた。
その刃先を私たちに向けて「この子たちを殺して私も死ぬ!」と言いだした。
父の「やめろ!わかったから!落ち着け!」そんな言葉にも、聞く耳を持たず。母は私たちを人質のように捕まえると、顔にむけて刃物を突き付けた。
ただ小学校から帰ってきただけなのに、まるで地獄にいるようだった。
一秒一秒がすごく長く感じる。
泣いている自分の声が今でも頭のなかで響いてくる。
父が母からハサミを取り上げた隙を狙って、兄と私は家を飛び出した。
どうしていいかわからず、ただ大泣きしながら同じマンションに住む友達の家に助けを求めにいった。
「たすけて、たすけて、みんなしんじゃう」
ただそれしか言えなかった気がする。相手もさぞびっくりしたことだろう。
兄と二人で友達の親の手を引っ張り、家まで連れていったところまでは覚えている。
友達のお母さんが状況を理解すると、「うちで待ってて」そう言って、私たちを玄関の外へと追い出した。
そのあとの記憶は、父が出ていくところまでとんでいる。
こんなことがあったすぐ後に、父は私たちを置いて出て行ったのだ。
「いかないで」
泣きじゃくりながら止める兄と私。
そんな二人を置いて、父は大きな鞄をひとつ持って出て行った。
たぶんもう、この時すでに母親はうつ病だったのだと思う。
何をするにも完璧だった母親が、なにもできなくなっていた。
ご飯もおやつもぜんぶ手作りで、洋服も手作りで、ほんとに完璧なほどのいいママだったと思う。
今思えば、その”いいママ”が母に無理をさせて追い詰めていたんだろう。
その時に住んでいたマンションから引っ越すことになり、新しい家はふた部屋しかないボロボロの平屋。水洗トイレが当たり前の時代に、ボットン便所しかない家だった。
もともと裕福だった我が家は、一気に貧乏になった。
家では母が内職をする。私たちもそれを手伝う。
「お父さんどこ行ったの?」
その質問には「海外でお仕事してるんだよ」そう返ってきた。
実際に父は海外にも行っていた。
たまに会える時は、お土産を買ってきてくれてた。
「お父さんは単身赴任なんだよ」
私が幼かったこともあって、「仕事が忙しいから、離れて暮らしているだけ」そう言われて育った。
私はそれがカッコイイと思ってた。
海外をとびまわり仕事をする父親をいつしか尊敬していた。
「うちのおとうさん、たんしんふにんなんだよ!」
そうやって、友達に自慢までしていたくらい。
カッコイイことだと思ってた。
一方で、父のいない寂しさから母に構ってほしくて私は色々と気をひいた。
でも母は、毎日毎日、私たちよりも自分のことでいっぱい。
家にいるときは祖母とずっと電話をし、声をかければ「うるさい!」と怒鳴られた。
ある日、いつものように母が祖母と電話をしていた。
電話をしながら母は私に「コーヒーいれて」そう言ってきた。
私は言われるがまま、ヤカンでお湯を沸かし、コーヒーをいれる準備をした。
シュンシュンに沸いたヤカン。
コップにお湯をそそごうと思ったら、ヤカンの蓋がズレていたことに気付いた。
こぼれちゃうと思った私は、シュンシュンに沸いたヤカンの蓋を閉め直そうと思って、開けてしまったのだ。
その瞬間、手に大量の湯気がかかった。
熱いを通り越して、痛いしか感覚がない。
当時、小学3年生くらいだったろうか。
電話している母に泣きながら、痛いと訴えた。
でも電話でそれどころではない母は「あとにして!」そう言った。
私は痛くて痛くて、どうしたらいいかわからなくて、一生懸命泣きながら訴え続ける。それでも母は電話をやめることがなく、結局我慢するしかなかった。
次の日になったら、左手の小指がまるまる水ぶくれになっていた。
さすがに母もびっくりしたらしく、「ごめんね」と言いながら急いで病院に連れていってくれた。
その時の火傷の痛さは覚えてないが、無視された心の痛さは今もずっと残ったままだ。
それでも母は毎日、祖母と電話をしているか、寝ているかのどっちかだ。
母の機嫌が悪いと、すぐ「あんたたちを施設にいれて私は死ぬ」そう言われた。
「しせつにいれないで、おねがい、すてないで」
だから私たちは泣きながら、母の機嫌を損ねないよういい子にするしかなかった。
ある日、私が高熱を出したときがある。
保健室で寝ていると、迎えにきたのは祖母だった。
高熱でぐったりするなか、家に帰ると、母の姿がどこにもなかった。
祖母が「ごめんね。美味しいもの買ってくるからね」そう言って、布団を敷き、パジャマに着替えさせ、私に座薬を入れると、慌ただしくでかけていった。
ひとりでポツンと部屋に残された私は、ただただ寂しくて、また泣くしかなかった。
熱が出ているのに、私はなんでひとりぼっちなんだろう。
お母さんはどこに行ったんだろう。
寂しすぎるあまり、母の匂いがするパジャマを握りしめて誰かが帰ってくるのを待った。
夜になって祖母が帰って来るなり「お母さん、これから少し入院することになったから」と言った。
”熱がでたらお母さんが優しく看病してくれる”
そんな淡い期待はどこかへ消え去った。
どうやら母は過呼吸をおこして、救急車で運ばれたようなのだ。
あぁ、私はいつだってひとりなんだ。ひとりで頑張らなきゃいけないんだ。
具合が悪くても我慢しなきゃいけないんだ。
子供ながらに、そんな考えが染みついてしまった。
それからは、具合が悪くても我慢しなきゃと思って、誰にも言えなくなった。
私の子供ときの思い出は、これくらいだ。
いつも思い出のなかの私は、泣いていて、何かに我慢していて、完璧であることしかない。
それもこれも、母がうつ病のせいだ。
ひとつだけ思い出に残っていると言えば、私のお誕生日会だ。
学校の友達を呼んで、お菓子の家のケーキを食べて、部屋に隠されたみんなからのプレゼントを探して。
これが唯一すごく楽しかった思い出だ。
母も、体調がいいときはしっかり私たちのことを考えていてくれたのだとは思う。
でも母の体調はよくなることはなく、起きてこない日が続く。
小学生から中学生にもなれば、私もこの環境を理解しはじめる。
だんだんと父と会う機会も無くなる。
兄は私よりも早い段階で、二人がとっくに離婚していたことを知っていたのだと思う。
ごはんは毎食コンビニ弁当。
流し台にはいつも洗い物が山盛り。部屋のなかもゴミだらけ。
いつしか、我が家はゴミ屋敷と化していた。
洗濯ものに囲まれた、敷きっぱなしの布団の上で生活する毎日。
コンビニのご飯を各々で食べ、とくに会話もなく。
年齢的にも思春期に入った私は、そんな家に帰るのがいやで、いつも親友の家にいた。
周りの大人たちは言う。
「お母さんは病気だから助けてあげてね」
「お母さんは病気だからしょうがないの」
「お母さんは病気だから」
病気だから
病気だから
病気だから
呪文のように言われるその言葉に嫌気がさした。
なんで病気だと許されなくてはいけないのだろう。
なんで病気じゃない私たちが我慢しなきゃいけないんだろう。
じゃあ病気の母親をもった私たちはどうしたらいいのだろう。
友達のお母さんはみんな普通のお母さんなのに、なんでうちだけ違うんだろう。
あんなに母親を求めていた私は、いつしか母を嫌いになっていた。
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