今だから言える「お父さん大好き」~父その1
父との楽しい思い出がある私は良いほうなのだと思っている。父親との思い出が、消してしまいたい思い出となっている人も現実にいるから。。。
もう亡くなって15年くらいになる。私は父が40の時の子だ。
仕事一本でかまってもらった記憶が少ない幼い頃。でも父が仕事している姿が好きで、自宅にある仕事場へのぞきに行っては連れ出された。
父の買い物について行ったある日、私はトイレに行きたくなったが、なぜか「トイレに行きたい」と父に言えず、下着の中でもらしてしまった。買い物が終わって帰宅前に「トイレに行っておこうか」と言われ、もらしたモノをトイレに流し、下着の汚れをペーパーで拭き取れるだけ拭き取って家に帰った。母が気づいて「なんで言わなかったの?」ときかれたが、自分でもわからないし、今でもなぜだったのか思い出せないでいる。
通った小学校は、働いているお父さんのために、と運動会が体育の日の祝日と決まっていた。今はハッピーマンデーで動くけれど、当時は10月10日。「晴れの特異日」と言われている日なので雨で延びたことが6年間であったかどうか。でも、父は来たことがない。入学式も、卒業式も。
今では家族の人数制限までかかる学校のイベントだが、昔は、下の子どもが小さいとか、父子家庭以外は、ほとんど母親参列で、当たり前のように思っていた。
大学の入学式は、好奇心旺盛な母と祖母がキャンパスなるものを見がてら列席した。文化祭なども、上京して見に来ていたが、父は留守番だったらしい。
父が年1回企画する旅行があり「参加者がたりない」などということで、大学生はヒマだろう、とかりだされることがあった。部屋は一緒。一度、お風呂から出てこない父を見にいったら、寝てしまって顔半分湯舟につかっており、あぶない場面を助けたことがある。父は私のことを「命の恩人」と人にも言うことがあった。
それがきっかけか、大学の休みに帰省すると、父とふたりで晩御飯を食べに出る、なんてこともできるようになっていた。実家にいた頃は躁うつ病で不登校の引きこもりだった私だから、父と話なんてほとんどしてこなかったのに、時間とは不思議なものだ。
そんな父が、「最後だから行っておくか」と、卒業式に仕事を休んで行くと言う。母と祖母は前のりで、私に着物を着せるべく近くのホテルに前泊していたが、父はひとりで卒業式当日に初めての場所までやってきて、なんとか合流できて、一緒に写真を撮った。学生時代の中で初めて二人だけで写した写真。大事にしていたのに、今、すぐに出てこないことが非常にさみしい。
私は、そのまま就職先を決め、独り暮らしが続いていた。好奇心旺盛な母は会社に通うために転居先を決める時に上京したついでに、挨拶とかいって、会社に連れていけという。土日もやっている会社だから恥ずかしかったが連れて行った。わりと古臭い会社だったので、ウエルカム状態で迎えてくれたのは助かった。
1年目のある雨の日、突然会社に父から電話が入った。何事かと電話に出たら「仕事で上京している。今、会社の前の歩道橋下にいるんだが」という。ちょっと抜け出させてもらって会いに行った。上司は「入ってもらってもいいからね」と言ってくれて、父にも伝えたが、「近くまで来たからどんな会社か見てみたくて寄っただけ。元気そうでよかった」といって、おサイフから1万円を出して私に渡してくれた。「傘あるの?」ときいたら、「持ってきていないが、ここでタクシーひろうからいい」と言って、あっという間に去っていった。見送って、なんだか泣きそうになるのを必死でこらえて社内に戻ったら、先輩社員に「いいお父さんだね」と言われて、こらえられなくなって更衣室に逃げ込んだ。
この後、父は年に1回~2回、仕事で上京していた。時間がある時は、買い物に行ったり、ご飯に行ったこともある。帰省するのは盆と正月だけになり、やがて、私は結婚を決める。
父と母に挨拶に行った。「まあ、よろしく頼む」だけだった。母はドレス選びで上京できるのでウキウキのようだったが、父は結婚式の日も、当日きて、当日帰って行った。
私は妊娠した。会社近くで定期健診受けていた病院から「今週中には里帰りしなさい」といわれ、あわてて支度して実家に戻った。運動として毎日数キロ散歩していたので「何かあっては」と携帯電話をもたせたのは父だった。破水してあっという間に生まれたが、自宅に帰ってから、孫は本当にかわいいようで父はおじいちゃんになっていた。産後休暇が終わりに近づき、仕事に戻るため、荷物等と私は夫の車で戻り、娘は父と母がかかえて新幹線で連れてきてくれた。母は、手伝う目的で数日いたが、父は連れてきた日に、部屋でお茶をのんで、すぐに帰って行った。
盆と暮れは娘を連れて帰省した。小学校にあがると、私は定職をもっていなかったので、GWや夏休み、正月と娘と実家で過ごしていた。父は娘の写真をとり、動物園や水族館へつれていってくれたりもした。
父は、だんだんと持病が悪化していた。ある日帰省すると、玄関でなんかもめている。ちょうどその日が父の再入院日だったのだ。父は認知症もあり、入院をとても嫌がっていた。逃げ出そうとしてくくりつけられたり、ベッド回りにセンサーをおかれたこともあるらしい。父のいない実家への帰省はこの1だけだったと思う。
娘も高学年になり、私は派遣で働いていた。カレンダー通りの勤務先だったので、私の帰省は正月に限られる。夏休みの娘はひとり実家にお願いしておく。仕事帰りにちょっと寄り道をして帰ったら、家の留守電にメッセージが何回も入っていた。父が亡くなった。
今から帰れなくもないが、まず会社に電話をいれて、上司に伝えようとしたが誰もでない。よりによってノー残業デーだ。今ほど連絡手段もないし、ガラケーの個人電話番号を知っているわけでもない。お通夜は明日だし、告別式には余裕がある。父には「仕事優先」と言われている気がしたのだ。
退勤時に事情を話したら、上司も先輩社員もすすり泣きしていた。実家に向かう電車、新幹線、ずっと泣きっぱなしだった。
実家について、祖母の偲ぶ会以来の親戚一同がバタバタと手伝いをしている。祖母は父の意向で家から出棺したが、父の棺は病院から会場に運ばれているとのこと。母と兄が交代お線香の番「寝ずの番」をするらしい。明日の集合時間と場所だけきいて、亡くなるちょっと前まで母と娘が父を見舞っていた話を、娘からききながら眠った。
告別式会場はお祭りがあって人出が多いため、通夜も告別式も一日ずれたとのこと。交代制の「寝ずの番」とはいえ、疲れや、これからの不安、悲しみ、母がものすごく小さく見えた。肩がおちてしまってうなだれている姿を初めてみた。ずっと思い出にひたっているようにも見えた。
1年ぶりに見た父は痩せていて別人だった。でも、1年で逝けたのは父の得というものだろう。
出棺して焼き場に娘も連れて行った。お骨上げも一緒にやった。精進落としの途中で、新幹線の最終に乗るため我が家は引き上げた。本当は、兄と兄嫁さんの家族と同席が苦痛なのもあった。
正月にはくる。一人になった母をどうする。いろいろ頭をうずまいていたが、父に「母をよろしくお願いします」と頼るしかなかった。
なにも残していかなかった父。時間が経って、精算されていくらかでも回ってくるかとおもっていたが、ほんとに1円もなかった。家と写真と思い出と経験だけ残して。
こうやって書いていても次からつぎへと思い出すことがあります。いいことも悪いことも。父の嫌だったことも、尊敬することも。ありがとう。
親不孝者の娘より