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【短編小説】君には見えない(前編)

 教室から一歩外に出ると、そこは既に夏休みだった。何となく、だらりとして、ゆるりとして、ひろびろとしている。とてもとてもあたたかい廊下の空気にとぷんと浸かると、体の中心がふにゃふにゃと緩んでいくような気がした。
「ああああっづうー」
 少し遅れて教室から出てきた絢香が、げんなりした声を出す。ちょっとだけ隙間の開いた教室のドアから、冷凍庫みたいなひんやりが廊下に細く漏れてくる。肌の表面で、あついとさむいがうっすら混ざり合う。
「暑いっていうかぬるくない?作りたてのこんにゃくみたい」
「えー、優ちゃんこんにゃく作ったことあんの?」
「うんないけど。なんかヌルヌルぬめぬめぐでぐでしてるじゃん、空気が肌にベタァーみたいな」
「言いたいことは分かるけど!その表現余計暑くなるから!」
 よく通る高い声で、絢香がケラケラと笑う。私も笑いながら、ブラウスの第一ボタンをぷつりと外した。生暖かい風が入り込んで、汗を一瞬、奪っていく。私はリボンを緩めて、スカートも折る。普段は一つ折り、登下校は二つ折り、遊ぶ時は三つ折り。それ以上折るとお腹に浮き輪が出現するからやってはいけない。
 ちなみに、今日は、三つ折り。
 大胆に開け放たれた窓の向こうで、吹奏楽部がドレミファソラシドを繰り返している。と思ったら、サクソフォンが、思いっきり音を外した。ファ#ー。
「ふぁあああああー!」
「何叫んでんの、絢香」
 私は苦笑しながら絢香の頭を軽くはたいた。私より頭一つ分は身長の低い絢香。生まれつきらしいさらさらしたショートボブがふわんと揺れる。小動物みたいでかわいいな、と思う。
「なんか叫びたくなんない?なんかワーって」
「なんか多すぎ」
 でも、すごくよくわかる。窓からは相変わらず、正確さに欠けるドレミが聞こえてくる。野球部の放つ、バッチこーい、うえーいみたいな掛け声とか、ジリジリうるさい蝉の声とか 、そういうのも聞こえてくる。先生がいないのをいいことに、教室の中でゲームをする子たち。ちょっと汗臭い体育館の前。誰かが置きっぱなしにした、炭酸の抜けたファンタの甘ったるい匂い。じっとり滲む汗。短いスカート。だらんと力の抜けた、あたたかい、校舎。今なら何でもできそう、先生の前で校則違反の赤いリップ塗るのだって、なぜだかあんまり怖くない。バカみたいだけどそう思う。青い青い、どこまでも広い、それでいて嫌になるくらい暑いこの空気が、なんでも受け入れてくれそうに見えるから、だから、私たちは無防備に、向こう見ずに夏休みに飛び込んでいく。
「あーや!今帰り?」
 階段を降りたところで、知っている顔に出くわした。二組の、ヨシ子。吉井佳奈子だからヨシ子。ヨシ子は絢香と仲がいい。その繋がりで、私とも仲良くなった。
「うん、帰りー」
「えーじゃあさ、スタバ寄ってこ?優ちゃんも一緒に」
 私の方を振り返った絢香の顔がぱっと輝く。
「今日新作かあ!行きたいーけどお金ないー」
「奢んないよん、あでも私は行くけどね」
「酷いー優ちゃんバイトしてるくせにい」
「夏休みはあんまりシフト入れてないの」
「何で?旅行?」
 ちがうよ、補習。私がそう言うよりも前に、ヨシ子が前のめりになって口を挟んだ。
「あーやは水道水でも飲んでなさい。とりあえず行こ?ってゆーのはさ」
「ひっどお、水道水ってひっどお」
 ぴょんぴょん飛び跳ねて抗議する絢香を、ヨシ子がちょいちょいと制す。百五十五センチあるかないかのヨシ子でさえ、絢香よりは身長が高い。
「夏休み、みんなで旅行行こって計画してて、どこ行くとか今日話し合えたらなーって。今んとこ、マコちゃんとリンリンとあたし。で、あーやも誘お!って話出てさ」
 あ、優ちゃんもね、と、ヨシ子は付け足す。
「いいよー、付け足さなくてもいいんだよー」
 私はわざと意地悪っぽく言ってみる。
「違う違う違う!マジでごめんなさい!違うんですよおー」
「全然気にしてないから大丈夫。全っ然」
「ねえー違うんだって、なんかあーやには優ちゃんが含まれてるっていうかさあ、優ちゃんとあーやはセットっていうかさあー」
「ヨシ子がキモいー」
 私を差し置いて騒ぎだす絢香とヨシ子を、私は呆れ顔で眺める。楽しいなあ、と思う。紛れもなく、今が、楽しい。けど、ここじゃない、とも思う。
 私の夏は、この暑い廊下にも、女子高生だらけのスタバにも、旅行先にも多分ない。あるのは、例えばエアコンの風で不健康に冷えた人気のない教室――
「ごめん、私旅行行けないかも。せっかくなのに残念なんだけど」
 私が放った言葉は、うだるような暑さの中で異質なほどの冷たさをもって、その場に転がる。絢香が、へ?という間抜けな声を出した。
「なんでー?優ちゃんがいないと絢香生きていけないのにー?優ちゃんと絢香でひとつなのにいー?」
「絢香、ヨシ子のキモさうつってる」
 くねくねしながら迫ってくる絢香をかわしながら、口を開こうとする。その時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。知っている音――革靴の底は、とても綺麗な音をたてる。
 曲がり角から、眼鏡をかけた白い顔が、ひょこりと見えた。三崎先生。と、なぜかその後ろを歩く、見慣れた顔。クラスメイトの、金井翼。
「こんにちはー」
「さようならー」
 絢香とヨシ子が同時に、正反対の挨拶をする。三崎先生が吹き出した。先生が足を止めると、翼も足を止める。
「出会いと別れ同時かよ」
「すいません、この子たちアホの子でして」
「ちょ!優ちゃんに至っては挨拶すらしなかったじゃん!」
 絢香が無遠慮に私を指さす。その指につられたように、先生が、私を見た。あ、というような顔になった。
「志田」
「はーい」
「補習。さぼんなよ」
 そのまま上目遣いで私を睨むふりをする。黒目がメガネのふちに被っているせいか、全然怖くない。それでも、なぜか、目をそらせなくなってしまった。
 こじ開けるようにして、声を出した。
「わっかってますー。言われなくても行くよ」
「えー何?優ちゃん補習なのー?」
「もしかしてそれで旅行行けないのー?」
「補習って小論文の?」
 アホの子二人組が飛ばす茶々の合間に、突然低い声が混ざる。先生の後ろで足を止めていた翼が発した声だった。
「そーですけど何か!」
「あのワークみたいなやつ?優……志田、まだ終わってないの」
「だからそうだってば。どうせ翼は終わってるって言いたいんでしょ」
「違うよ、じゃなくて志田は」
「翼にはカンケーない」
 翼は数秒間、私の目を見たまま黙っていた。暑い。何だか、イライラする。
「……ふうん」
 一言、こぼして、それから私たちに背を向けた。もう私たちには興味がなくなったみたいだった。
「ね、優ちゃんの彼氏?」
「違う」
「名前で呼んでたじゃん」
「あー、ただの幼馴染。気にしないで」
「じゃあそろそろ帰れよ、先生もう行くぞ」
 三崎先生はそう言うと、待たせてごめんな、と翼に声をかけてから歩き始めた。それから一度振り返り、何か言う、
「志田、先生には敬語使えよー」
 三崎先生はテニス部の顧問だ。だからもともと白い肌が焼けて、少しだけ赤くなっている。そんなことを考えながら、私は、はーい、と気のない返事をして見せた。
「よっしゃ、スタバ!優ちゃんも行こ、旅行は無理でも」
「うん、行こ」
 のろのろ歩く私を置いて、絢香とヨシ子がバタバタ走り出す。
「あーやばい、なつやすみー」
「めっちゃ解放感ー」
 文法を気持ちよく無視しながら今を消費する二人が、何だか眩しく見えた。誰にも縛られない私たちの言葉は、胸に心地よく染みていく。置いていかれないように足を早めながら、私は思う。
 始まらなきゃいいのに。
 夏休みなんか、始まらなきゃいいのに、って。

✳︎

「しかし君たち、いっそ清々しいほど何にもできてないね、文法から何から」
 即席の教卓にした誰かさんの机に両肘をついて、三崎先生はそう言いながらわざとらしくため息をついた。君たち、という言葉が胸の中でぷちぷちと弾ける。三崎先生が言うと、仰々しい言葉も嫌味に聞こえないのが不思議だ。私は何も聞こえないふりをして、ワークブックのマス目をシャープペンでゆっくり埋めていく。
「あ、ほら、志田」
「何びっくりするじゃん」
 顔を上げると、三崎先生が私のほうへ身を乗り出してきていた。机の上のワークブックを指さす。白くて細い人差し指が、とんとん、と紙を叩いた。
「減少の減の字、違ってる。それじゃ滅少だ、滅びてどうするよ」
「あーもー細かっ!せっかく筆乗ってたのに」
「どの口が言ってんだ。ていうか漢字間違いは何も細かくないぞ」
 三崎先生は呆れたように言うと、髪をかきあげて、それから腕をゆっくり回し、手首の時計にちらりと視線を投げた。先生の、整髪料などをつけていない髪にエアコンの風がかかるたび、ぱさり、ぱさりと毛先が震える。汗なんてどこにも滲んでいない肌は、着慣れたワイシャツみたいにちょうどよく使い古されているように見える。それらの見かけは三崎先生という人にとても良く似合っていて、だから、ああ先生は私たちとは違う、大人なんだなあって、訳もなく感じ入ってしまう。
「やべ」
 ぐうううう、と誰かのお腹が鳴った。だいぶ長く鳴ったのが妙に面白くて、私たちは緩やかに笑った。
「今日はここまでだな、帰るか」
 三崎先生は言った。十二時半だった。不意に、先生はこのあとどこで、誰と、何をするのだろうかと気になった。どこで買った何のお弁当を食べますか。おにぎりですか、サンドイッチですか、それとも誰かの手作りですか。私、別に、お腹もすいていないし家に帰りたいとも思わない。この教室の淀んだ空気、エアコンの冷気にまみれてワークをダラダラと解くこと、割と嫌いじゃない。でも私は家に帰らないと。制服のスカートをまた二つ折りにして、ストレートの黒髪を揺らして下校しなくてはいけない。外は暑い。
「七ページまでは絶対終わらせてこいよー」
 教室を出ようとしながら、三崎先生が言った。気だるげな返事が教室の壁にこだました。
「それと、志田、先生には敬語な」
 先生の空気を多く含んだ声が、肩のあたりを通り抜けるのを感じ終えてから、
「はー、い」
 また気のない返事をしてみたけれど、その時にはもう先生は廊下に出てしまっていて、届くことのないまま生暖かい音だけがその場に落ちた。

 補習組に、私と仲のいい子はいない。だから私は一人で帰ることにした。補習とかダサー、小論文なんてそれっぽいこと書いとけばいいんだよ本番じゃあるまいし!チョコソース追加で頼んだキャラメルフラペチーノをズコズコいわせながら、偉そうな態度でそう言った絢香を思い出した。そんな絢香の隣で、ググれば例文出てくるんじゃね?とスマホをいじり出したヨシ子のことも。それから、あたしは真面目だから手抜きできないの、なんてたわごとを吐いた私のことも。全く、どの口が言ってんだよ、本当にさ。
 ローファーに履き替えて玄関を出る。じりじり、焼けるように暑い。喉の奥に滲みだした苦いものを、まとわりつく熱気で誤魔化すようにして歩いていたら、右足がはたりと誰かの影を踏んだ。私は顔を上げた。
「翼」
「……志田」
 練習着姿の翼が、戸惑ったような顔で立っていた。堂々と日に焼けたたくましい体。ハリのある肌の上を幾筋もの汗が流れ落ちている。
「部活か、お疲れ様」
「そっちは補習だっけ」
「まあ。三崎先生お借りしてます」
 翼は、三崎先生が顧問を務めるテニス部のエースだから。……という理由かどうかは自分でもわからないけれど、何となくそんなことを、私は言ってみた。ふと、翼が私を見る。その視線が思ったよりずっと高いところから降ってくることに動揺して、私は目をそらした。立ち去らなくちゃ、急にそんな衝動に駆られる。
「あんさ、志田」
 翼の低い声が脳天にビリビリと響いた。
「お前さ、中学ん時」
 やっぱり帰ろう。もう急ぐからって言おう。けれどなぜか、動けない。ローファーの底が熱で溶けて、アスファルトにくっついてしまったのかもしれない。
「少年の主張とか何かそういうようなやつでさ、優勝してたよな、全校の前でも発表したりして」
「何言ってんの?いきなり」
 絞り出した声が不格好に震える。焦げそうなほど暑いのに、背筋がすっと冷えていくのを感じる。ばれてる。翼にはばれてる。
「その志田が補習なんだ」
「うん」
「しかも小論文の」
「うん」
「へえ」
 私はうつむいたまま微動だにしない。目線の端で、誰かが捨てた飴の包み紙がきらりと反射する。
「目当ては、先生だろ」
 ふっと全身の力が抜けた。目当て。あまりにも、品のない言葉。
 そうだ、小論文は苦手でもなんでもない。私が補習を受けに来ているのは、ただ三崎先生に会う、そのためだけ。でも、だから、なんだって言うのだ。
「志田、うちの高校で同中俺だけだからな、ここでは国語苦手ってことにしてんだろ。別に言わねえよ誰にも」
 私はゆっくりと視線を上げる。ばれてしまったなら、もう怖いものはなかった。けれど今まで恐る恐る抱えてきた気持ちをこんなふうに、読み捨ての安いコミックみたいにぞんざいに扱った翼が、心から憎たらしいと思った。
「言っとくけど三崎先生は生徒と付き合ったりとかはしないタイプだから。顧問がコートにいないと練習にも影響あるから、正直無駄に補習来られると困るんだよな」
「バカじゃないの」
 私はありったけの力を込めて翼をにらんだ。そうしていないと泣いてしまいそうだった。泣いて喚いて、足を踏み鳴らして暴れてしまいそう。ここ、と私の文字をさした先生の指は、志田、と呼ぶ先生の声は、それを受け止める私の若さは、絶対に絶対に間違ってなんかない。
「翼には関係ない。翼にはわからない」
「関係なくない」
 翼の鋭い目が私をとらえた。
「イライラすんだよ、そういうの」
 気持ちの悪い汗が私の背中を滑り落ちていく。翼の背中でも、たくさんの汗が不快に肌を濡らしているのだろうと思った。けれど職員室で資料をまとめたりなんかしている三崎先生の背中には、少しの汗だって流れていないのだろうと、私は思った。その事を苦しく思い描く、私の気持ちが、翼にわかるわけがない。太陽の下でこんなにもしっかりと立っていられる翼には、わかるわけが、ないのだ。
「わからないよ、絶対」
 私はもう一度言って翼に背を向けた。ローファーの底はもう溶けていなかった。どうしてなのか、ざわつくほど苦い顔をした翼のことが、最後に見えた。

(つづく)

※後編はこちらから。

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