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【短編小説】キンモクセイだったころ

 空が青いなあ、と思ってぼんやり上を向いていたら、ふわっと鼻先を風が通り抜けた。

 あっ、キンモクセイ。

「ねえねえ大樹、においかいでみ!キンモクセイ!午前中はしなかったのにね、今季節が変わったね」
大樹は腰掛けたコンクリの土管に目を落としたまま、「ふーん」とつぶやく。右手に、短くちびた白いチョークを持っていた。
「反応うすーい。って言うかそれチョークでしょ、学校の持ってきちゃ駄目だよ」
「ゴミ箱に捨ててあったやつだもん」
「でも駄目。あんたたち所構わず落書きするでしょうが」

 大樹は返事をせず、また俯いて土管に何か書き始めた。じゃこじゃこ、という音が不思議と心地よくて、もうちょっと叱ろうと思っていた口を思わず閉じてしまう。大輝の手元を見る。ひとりマルバツゲームをやっていた。わっかりやすいいじけ方だなあ、私は大樹と並んで座っている土管に手をついて、もう一度空を見上げてみた。やっぱり、青い。

「秋の空って青いよね。夏も青いけど、秋の青の方がやわらかくて広い気がして、先生こっちのが好きだな」
「だから何」
うわ、かわいくなーい。そうこぼすと大樹がすかさず「おれ男だしかわいくないの普通でしょ」と言い返す。嘘だよ大樹、あんたは見ていられないほどかわいいよ。心の中だけでそう返して、それからわたしはそっと姿勢を正した。児童館の、とはいえ、センセイと呼ばれる立場にいるのだ。無駄話をしに来たわけじゃない。

「何しに来たの、マイちゃん先生」
えっ、と声が漏れてしまった。大樹に先を越されたようで、情けなくなる。私は何をしに来たんだろう?もちろん無駄話をしに来たわけじゃないのは本当だ。でもそうじゃなかったらなんだろう?大樹を叱るのは違う気がしていた。かと言ってなだめたり、ましてやもっともらしい説教を垂れたりしたいのではないことくらい、自分でも分かっている。わたしは唇をなめた。微かにキンモクセイの味がした。

「珠奈、泣いてたね」
じゃこ。チョークの音が止まる。大樹の横顔がきゅっと硬くなる。ずき、ずき、大樹のちいさな胸で刻まれているはずの、痛いほど重い鼓動が私にまで伝わってくる気がした。わたしはゆっくり息を吐いた。
「大樹、珠奈の髪の毛引っ張ったね。あと、ちょっと突き飛ばしちゃったよね。珠奈のお気に入りのシュシュ、縁んとこが少し切れちゃったの、知ってるね」
「おれのせいじゃないもん」

 ふてくされたようなそのせりふとは裏腹に、大樹の声は消えてしまいそうに脆い。精一杯の強がりがいじらしくて、私はその声を大事に包んでどこかにしまっておきたくなった。どうかしてる。「大人」と呼ばれることに変な風に慣れてしまった私にとって、体全部で今だけを生きている大樹はあまりに眩しすぎた。

「珠奈がおれのこと馬鹿にするからだよ」
ざっ。大樹が土管に座ったまま、右足で地面を蹴った。乾いた砂が地表で切りになる。砂の匂いが懐かしい。
「珠奈に何て言われたのが嫌だった?」
「……言いたくない」
「そうかあ……じゃあ、しょうがないなあ」
わたしは空に向かって小さく息を吐き、それから口を閉じる。すじ雲っていうんだっけ?ワタを細長く裂いたような雲と青空の間を、トンボがゆらゆら横切っていく。

✳︎

 本当は全部、聞こえていた。大樹こどもっぽい!そういうことしてると嫌われるよ!そう言って珠奈がしっしっと手を振るのが見えていた。

 とは言っても、実はその話には前置きがある。一番最初にちょっかいを出したのはやっぱり大樹の方だった。珠奈はそのとき、読書コーナーで他の女の子たちと輪になって内緒話をしていた。そこに大樹がやってきたのだ。今日はたまたま児童館で遊ぶ男の子が少なかったから、誰かに構って欲しかったのかもしれない。

「何やってんのー女子?っていうか珠奈、今日宝探しやるってやくそくしたじゃん」
宝探しとは、児童館の庭にある木の下や地面や遊具の隙間から、めずらしい「たからもの」を探し出しては見せ合う遊びだ。誰が始めたのか知らないが、ここ最近低学年の間で流行っていた。それを大樹と約束していたらしい珠奈が何か言う前に、女子グループの一人が抗議の声をあげた。
「宝探しつまんないよー、ねえ珠奈?」
「は、なんで?お前らだっていつもやってんじゃん」
「だって宝物って石とかどんぐりとか、安全ピンとかそういうのだよ?うちらもう飽きちゃったんだよねー」

 大樹がみるみる不機嫌な顔になった。その女の子がつい二、三日前、土の中からさび付いたヘアピンを掘り出して喜んでいたのを思い出して私は苦笑した。しょうがないんだよ大樹、女の子はどんどん変わっていくんだから。そう思って見ていると、今度はまた別の女の子が甲高い声で言った。
「分かったー、大樹、珠奈のこと好きなんだ!二人仲良しだもんねー、うさぎ当番も一緒だし」
「はーあー?何言ってんのお前」
「あ、でも大樹は珠奈の弟って感じだよね。ちょっとこどもっぽいから」
きゃははは、と笑い声がはじけた。そろそろ危ないかもしれない、そう思ってわたしが読書コーナーに歩いて行こうとしたときだった。

「調子に乗んなよ!」
大樹が怒鳴った。そしてそのまま輪の中に割り込んで、椅子に置いてあったノートを取り上げる。交換ノート。表紙に散りばめられたピンクのラメがキラキラ光った。女の子たちがいっせいに叫びだす。一番近くにいた珠奈が、大樹に飛びついてノートを取り返そうとした。
「見ないで!返してよバカ!」
「バカって言うやつがバカなんだよ!そっちのが全然こどもだし!」
「こっちのセリフだよ!ノート返せひきょうもの!」

 必死に取り返そうとする珠奈の顔が、大樹のあごにがつん、とぶつかった。大樹が怯む。その隙に、珠奈がノートを奪い取った。
「いてっ、何すんだよ」
あっと思った時にはもう遅かった。大樹が珠奈の髪を引っ張った。正確には、珠奈の綺麗なお団子を留めているシュシュを、力任せに引っ張った。
「やめて!」
「こんなの大人はつけないだろ」
「大樹嫌い!大樹こどもっぽい!そういうことしてると嫌われるよ」
大樹が髪から手を離して、その反動で珠奈が壁際に飛ばされる。壁に激突する前に、私の手が珠奈を抱きとめた。
「大樹!」
私が叫ぶと大樹は一瞬、泣きそうな顔をして、それから外に飛び出して行った。
「あたしのシュシュ」
腕の中で、珠奈がつぶやいた。

✳︎

 じゃ、じゃ、じゃ。持つところがないくらいちいさくなったチョークで、大樹は土管を塗り続ける。マルバツゲームも塗りつぶされて、もう見えなくなってしまった。

「大樹は、珠奈のことが嫌い?」
「別に」
チョークのかけらを手の中でもてあそぶ。きっと大樹の珠奈に対する気持ちは、うまく言葉にできないまま、こうやって心の中であっちに行ったりこっちに行ったり、ころころ揺れている。

「大樹は珠奈のこと嫌いじゃないよ、先生知ってる」
「……嫌いだよ。だいっきらい。あんな生意気なやつ」
そう言って唇を噛む。ほら、傷ついているのは自分だ。
「じゃあ珠奈は、大樹のこと嫌いかな」
「嫌いでしょ。当たり前じゃん。だからこどもっぽいとかいうんだよ」
「そうかあ」
さっきのトンボがふらふら舞い降りてきて、私と大樹の間を通り過ぎていった。ふわあ、と、甘い風が後からついてくる。

「珠奈ってよくわかんない。最近変だよ。自分だってこどものくせに」
「そうだねえ……でも早く大人になりたいんじゃないかな」
「こどもだよ、珠奈は」
こどもだよ。大樹は口の中で繰り返した。

 珠奈は最近、私から見ても大人びてきていた。おしゃれに気を配るし、リーダーシップが取れる。今日つけていたシュシュも、シフォンとチュールが重なった生地にパールが縫い付けられた上品なデザインで、他の女の子たちに羨ましがられていた。

 いつだって変わらない。変わるということは。どんなに抵抗したって無駄で、自分も、周りも、切ないほどに変わっていく。

 大樹の気持ちが分かりかけていた。もどかしさも素直さも、焦りも、優しさも意地悪な気持ちも、好きも嫌いも憧れも妬みも、全部。子供の心に、矛盾はない。相反するものどうしが、当たり前のように混ざり合った感情。そこに嘘はない。どこまでもまっすぐな、とうめいだけでできた心——きっと私だって、そうなのに。大人もこどもも、おんなじなのに。

「大人って、なんだろうね」
「わかんないよ」
「じゃあ、こどもって、何?」
「……知らない」

 大樹がぷいっと横を向く。大人っていうのはね、嫌なことがあっても我慢できて、相手が傷つくことを言わない人のことだよ。センセイとしての私なら、こんなことを言うべきなのだろう。分かっていた。でも私は人間だし、私は女だ。大樹の前で今、センセイであろうとしたら、私は本当に大事なものを見失う気がした。それはできなかった。それができないことが、今の私の唯一の正義で、誇り、なのかもしれなかった。私はゆっくり口を開いた。

「こどもはね、ちいさかったころの、大人のこと。大人は、おおきくなったこどものことだよ」

 大樹は数秒間、ぽかんと口を開けていた。それからボソリと言った。
「マイちゃん先生、変なの」
「ふふ」
 誇らしさがこみ上げた。最大級の褒め言葉のような気がした。いつまでも、おおきくなった、こどもでいたい。そう思った。

「大丈夫だよ、大樹も珠奈も、おんなじように成長してるんだから。そんでおんなじように年取って、おじさんおばさんになっちゃうんだから」
「そんな先のことわかんないよ」
「でも、そんな先、が本当に来たら、珠奈と仲良しでよかったーってきっと思うよ。お友達がいるのは、すごくすごく嬉しいことだよ」
だから髪引っ張っちゃったことは、謝ろうね。小さな声で続けると、大樹の頭がカクン、と揺れた。よかった。私は安堵のため息をついた。風が吹いて、私と大樹の髪の毛がぶわっと膨らむ。すじ雲がちぎれて、空に新しい縞模様ができた。

「ああーいい匂い!私キンモクセイ大好きだな!」
「僕も。でもさ」
一人称が「おれ」から「僕」に変わってる。ふと気づいてこっそり微笑みながら、先を促した。
「金木犀の香りって……なんか悲しいよね。なんだろ。すごいいい香りなのに……忘れそうっていうか、かいでもかいでも逃げてっちゃうっていうか」

 ふ、と体が浮いた、気がした。隣にいるはずの大樹が遠のいて見える。思わず手を伸ばして、大樹の髪をグシャグシャ乱暴にかき混ぜた。
「何すんの、先生」
「あんた心配しなくていいよ。ちゃあんと大人に向かってるから」

 汗で蒸れた髪が、風に吹かれて私の指の隙間からこぼれていく。大樹が、この風に溶け合っていくような気がした。甘やかで切ないキンモクセイの風に、透き通るように溶けていく。私は今、いのちのかがやきを見ているのだなあ、ふわふわした頭でそんなことを思ってみる。

「いっぱいケンカしたらいいよ。いっぱい悩んだり間違ったらいいよ。どうでもいいとか関係ないとかくだらないとか……そんな寂しいこと、大樹が考えない限り、珠奈はいなくならないよ」

 私は第一ボタンを開けたシャツの襟元をぎゅっと握った。だいじな人は、たくさんいる。守りたい人も、愛したい人も。守ってもらいたい人も、愛してもらいたい人も。当たり前になりつつあった、自分のコントロールできない気持ちと、それを適当にあしらって生きてきたこと、それらを考えたら胸が酸っぱいほどに締め付けられた。

 例えば好きだということは、何故こうも単純で、そして何故こうも難しいのか?
例えば何故、こどもたちはきらきら眩しいほど輝いているのか?
目の前の全てが、特別だ、今だけの一瞬だ。昔も今も、何も変わっちゃいない。だけどこんなふうに、ごちゃごちゃ考えていることがすでに「大人」で、頭でっかちな「オトナ」で、

「やっぱマイちゃん先生変だ。先生じゃないみたい」
「いいの。私一生変な大人でいたいなあ」
「えー、何それ」

 だからこれは今しかない。今しかないから、こんなに眩しい。

「あっという間に散っちゃうんだから、いっぱいかいでおこうね、胸いっぱい!」
「マイちゃん先生、鼻の穴膨らんでる!ぶさいく!」
「あ、言ったな」

 大樹が声をあげて笑い出す。秋の日差しを浴びた大樹は今にも光に紛れてしまいそうで、それがなんだか哀しくなって、私はいつまでも鼻の穴を膨らませつづけた。街じゅうを満たすその甘い風を、精一杯吸い込み続けた。


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 古いUSBに眠っていた小説を掘り起こしてきました。今、読み返すと、色々未熟で恥ずかしいです。でも、この季節を逃したら、一生お蔵入りになってしまいそうな気がしたので、こっそり置いていきたいと思います。金木犀の名残りがまだあるうちに。

 読んでいただき、ありがとうございました。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。