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観てない映画レビュー「花束みたいな恋をした」

先に説明しておくと、私は映画『花束みたいな恋をした』を観ていないし、これから先、観る予定も特にない。ただ、おそらくテレビ放送されたら観ないだろうけど、Netflixでの放送が決まったら観るだろうと思う。

2021年1月29日に全国公開された本作は、公開から時を待たずして口コミが話題を呼び、各方面で大盛り上がりを見せた。公開している全国映画館の数は350館。2021年3月16日時点で観客動員数は223万人を超え、興行収入は30億超。公開から約3カ月が経とうとしている現在、映画レビューサービスFilmarksでは、約5万7千を超える人が観賞済みの登録をしており、星評価の平均は4.0を記録している。大ヒット作品だ。

恋愛映画のジャンルに入る本作は、公開直後は本当にただの恋愛映画だったはずだ。そこから映画を好む人々(=サブカルチャーを好む人々ということになろうか)の観賞を経て、本作観賞後の感想は大きく二分される事態となった。

様々な映画レビューを読んだ。映画の感想を長文で筋道立てて文章で説明できる人のレビューだけでなく、Filmarksに「面白かった!」と短文で投稿するような、ライトな気分で映画を楽しむ人のレビューまで。多くのレビューを読むことで、映画を観ていない自身の頭の中で、作品の輪郭が作り上げられていくことを感じていた。

観てない映画をレビューすることは、ずるいことだと承知している。簡単にいえば外野の意見だ。だからこのレビューは、ちょっとした思考実験のような気持ちで読んでほしいと思う。人からの伝聞によって作り上げられる像(イメージ)は、本物からかけ離れたものになるのか、それとも近付くのか、あるいはそのどちらでもないのか。本作を観ていない人は、答え合わせをするようにして、合ってる、ずれてる、と読んでいくのも面白いかもしれない。

は〜、前置き長い。前置きというか、読み違いのないように保険をかけるとどうしても長くなる。ここからが観てない映画レビューになります。

ポップカルチャーか、サブカルチャーか

数多くのレビューを読んで感じたことは、他の作品同様に、本作も簡単にひとつの問いを立てて語ることはできないなということだった。恋愛という一本の軸には、カルチャー、労働、夢追い人の生き方、というものが絡みついて離れない。実際このことは映画作品の中だけでなく、私たちの人生にも絡みついている。人にとっては大きな問題のように映る。まずはカルチャーについて分解していく。

本作はどうやら、マイナーなカルチャーを好む男女が互いに好きなものを通じて出会い、その出会いに運命を感じて付き合い始め、別れるまでの5年間を描いた作品らしい。(伝聞1)

彼らの出会いにカルチャー趣味が欠かせなかったように、本作で扱われる「カルチャー」が指し示す意味、麦と絹それぞれの人生あるいは日常の中でカルチャーが占める割合、付き合い方はきちんと語られなければならない。

彼らが交わすカルチャー談義で、作品名や作家名は単なる記号として扱われていると映画を観た人たちは語る。何が好きかは話せても、その作品や作家の何が良くて好きなのかは全く語られないと言うのだ。(伝聞2)その状況はまるで、小学校でよくやったフルーツバスケットのようだなと思う。知っている言葉が合うことが、私たちが同志であることの証明だ。

脚本家・坂本裕二はなぜ、意地悪くこのような見せ方をしたのか。そこには、令和時代を生きる10代、20代のリアルが反映されているように思う。短文で(あるいは文章すらなしで)誰でも簡単に趣味趣向を発信し、仲間を増やせるようになった時代で、私たちは作品名や作家名を記号として無意識に消費してはいないだろうか。坂本裕二はおそらく、そのような若者に業界で会い続けたはずで、その実感からこのような描き方になったのではないか。

かつ、麦と絹がマイナーだと思っているこれらの作品はサブカルチャーではなく、ポップカルチャーであるとインターネットの中にいるカルチャー屋さんたちは言う。映画を観ていない私は少し前、青山ブックセンターで「花恋の本棚」特集をみたのでどんな作品が扱われているのか多少は知っている。好きな本、読んだことのある本、好きな作家の作品ばかりだった。でもこれをポップカルチャーと言い切るのはどうだろうか。『暇と退屈の倫理学』が一般に広く知られた文化なのか。大衆受けしているか。難しい境界ではあるが、サブカルチャーに属すると私は思っている。扱われている多くの作品がそんな感じで、サブカル好きにとっては教科書レベルのものが多いのは確かに否定できない。

カルチャーを主軸に語るレビューの多くを読んで、坂本裕二の脚本は絶妙なラインで作られたものだと、映画を観ていない私は思った。観る側が身を置いている環境、ポップカルチャーなのかサブカルチャーなのか、サブカルチャーでもどの程度の深度にいるのかで、賛否がわかれてしまうのも仕方がない。

現実と向き合う人を誰も否定できない

書くこと多くて混乱してきた。

次は、夢追い人が現実と向き合い、普通の人の人生を歩むことを決めたことについて綴る。

聞いたところによると、麦も絹も自分の人生を自分の力だけで立たせるために、現実的な手段=就職を選ぶ。一日8時間を超える労働に疲れ果てた麦は次第に、あんなに好きだった趣味から離れ、小説も映画も面白いと思えなくなり、飽いた時間があればスマホアプリでゲームをするようになる。パートナーに対する思いやりもなくなり、何者にもなれなかった過去の自分の亡霊から目をそらし、現実の中に溶け込んでいく。坂本裕二から見た、サラリーマンとして生きる人間、夢を追うことを諦めた人間が、これまた意地悪く描かれているなと感じる。

この部分も大衆から大共感の嵐で(伝聞3)、私としては共感が得られていることに違和感を感じずにはいられない。

夢を諦めた凡人の人生を皮肉った見せ方に、なぜ誰も怒ったりしないのだろうか。冷静に考えてみれば、夢を諦めないために現実と向き合うことは生活をしていくために選択せざるを得ないはずで、現実そうして生きている人たちは多くいる。坂本裕二は現代を反映した脚本を書くことが得意だし、そうした生き方を選択する人たちがいることを考えなかったはずはない。あえてその部分を排除し、サラリーで人生を送っている人たちはこんなもんでしょ、と描くにとどまったのだ。本作に共感するならば、その点はリアルではないとなぜ誰も言わないのか。そして夢を諦めて現実に向き合う人を誰も責めることも、皮肉ることも許されていないと誰も言わないのか。

花束みたいな恋=エモいはなぜなのか

さてこの章が最後です。

最も多かったのは「エモい」の感想だ。「自分にもこんな恋をしたことがあった」「感動した」と言う人の多さよ。感動については人の心が動く瞬間を他者が否定することはできないので何も言わないが、花束みたいな恋ってエモいよね、はいかがなものかと思ってしまう。

まあ本作を観ていないやつが何を言っても……と思うかもしれないが、大衆向けに作られた本作を観て、すんなり受け入れること、すぐにエモいと言葉を使ってしまうことに、私は少しでも疑問を感じてほしいと思っているし、なぜ自分が共感したのか、頭にエモいという言葉が浮かんだのかを少し深ぼってほしいとも思っている。

一般的な恋愛など、どこにもない。誰もが経験したことのある恋愛も存在しない。あるのは個人的な恋愛体験であり、そこから抽象的なエッセンスを抽出し、大衆作品に落とし込んで生まれた作品は、あなたのための恋愛では決してない。

本来、複雑であるはずの個人的な恋愛体験を分かりやすくデフォルメした作品に、まんまと感動してしまう自分の感性をまず紐解くことから始めよう。触れた作品を一言で表せる便利な言葉を使うのではなく、頭で考え、拙くても自分の言葉で表現することが必要だ。そうすることで有名な固有名詞に頼ることなく自分が感じたこと、自分のことを語れるようになるはずだ。

観てない映画レビューの着地

今回初めて観てない映画レビューのレビューを書いたが、書き終わった直後の感想としては、レビューのレビューは難しいということ。東海オンエアで「感想文の感想文を書く」企画を実施していたけれど、実際にやってみるとなると難易度高すぎる。

難しくはあったが、映画の内容としては大きくずれたものになってはいないのではと思っている。また気になっていて観る予定のない映画があれば、レビューのレビューを書きたいと思う。

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