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博士の普通の愛情

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。
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2021年5月の記事一覧

作家夫婦:博士の普通の愛情

ある作家の夫婦がいた。 夫はいくつもの連載小説の締め切りに追われて、もがいている。同業者の妻にはその苦労が痛いほどわかるのでどうにかしてあげたいと思っていた。 「環境を変えてみたらどうかしら」 「ああ、それもいいかもしれないな」 数字に強く家計を担当している夫は、ある日の午後、書斎に閉じこもって出てこなかった。夕食の時間、部屋から出てきた夫は妻に表計算ソフトで作ったと思われるプリントアウトを見せた。 「これが去年の僕らの生活費の合計なんだ。重なっているところもあるけど

天体と彼女:博士の普通の愛情

友人の女性からメッセージが来ていた。 「今夜は皆既月食ですよ」 とだけ書かれている。僕は昔から彼女が天体や自然を好きだったことを懐かしく思い出す。仲間とハワイのマウナケア天文台に行ったことがあると話してくれた。天体に関して僕はまったく無知なので、彼女のそういう話を聞くのが好きだった。 5年くらい前に偶然会ってカフェで話をした。 「ワイメアに、皆で泊まった井上くんの別荘があるでしょ。この前あそこからマウナケアに行ったの。途中にオニズカ・ビジターセンターっていうのがあって

帝王切開:博士の普通の愛情

10年近く会っていない女性からメールが来た。彼女はある大きな企業の営業社員として、僕が撮影する仕事のスタジオにあらわれた。その会社の広告撮影の立ち会いで来たのだが、僕らはあまり現場に大勢のクライアントが来るのを好まない。撮影現場は工事現場や厨房のように専門職だけがいるべき場所だと思っているからだ。 スタジオには高圧の電気設備もあれば、不安定で危険な機材もたくさんある。訓練された我々はそれを知っているが、初めてやって来る部外者がうろうろ歩き回るのを見ていると気が気ではない。1

裏話を書きます:博士の普通の愛情(無料記事)

今日はTwitterのspacesで嶋津さんと、この「博士の普通の愛情」の話をした。苦手な恋愛の話が書けるのかを試すために始めたんだけど、やはり苦戦する。出会い、別れ、再会、どんな題材でも古今東西にすでに膨大な名作があり、何を書いても「どこかで聞いたことある展開だな」と思われてしまう。 時代によって様変わりしている部分もある。『ロミオとジュリエット』は家同士の確執だし、『ローマの休日』は身分の違い、『モーリス』は1900年初頭には認められていなかった同性愛を扱っている。その

スーパーのマグロ:博士の普通の愛情

金曜日の朝なので、どうでもいい話を書く。 さっき悪夢を見た。「文章の中で一番つまらないのが夢の話だ」という言葉があるけど、金曜日なのでお許しいただきたい。夢は脈絡のない無意識の結合なので飛躍が面白く感じられることもあるが、それは単なる本の落丁や乱丁のようにきわめて無価値なものだ。 夢の中で何かの集まりで薄暗い店にいるようだった。俺はいつものように写真を撮っていたが、そこにひとりの女性が近づいてきて、「あんた、さっきから私の友だちのAさんばかり撮ってるけど、本人が迷惑してい

ぼくの娘:博士の普通の愛情

休日、妻と娘と買い物に出かけた。ゴールデンウィークのせいか、銀座は人が多い。妻は服を買いにデパートに行くと言ったが娘は玩具が見たいと言うので僕らは別々に行動することにした。3歳になったばかりの娘の「のん」は、新橋に向かう歩行者天国の中央通りを不安そうに見ている。 「ねえ、ここはクルマが通るところでしょ」 「うん、そうだけど今日は人が歩いてもいいんだ」 そう言ったが道の真ん中を歩くのは嫌なようで、歩道を降りた車道の端っこを僕らは手を繋いで歩いた。 「パパ、あんまりそっちに