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ぼくの娘:博士の普通の愛情

休日、妻と娘と買い物に出かけた。ゴールデンウィークのせいか、銀座は人が多い。妻は服を買いにデパートに行くと言ったが娘は玩具が見たいと言うので僕らは別々に行動することにした。3歳になったばかりの娘の「のん」は、新橋に向かう歩行者天国の中央通りを不安そうに見ている。

「ねえ、ここはクルマが通るところでしょ」
「うん、そうだけど今日は人が歩いてもいいんだ」

そう言ったが道の真ん中を歩くのは嫌なようで、歩道を降りた車道の端っこを僕らは手を繋いで歩いた。

「パパ、あんまりそっちに行かないで」
「わかった」

晴れている昼間に親子で散歩するなんていつ以来だろう。とても気持ちがよかった。僕が仕事で使うものを買うために文具店に寄る。

「のんちゃん、これが欲しいの」

娘が手にしていたのはA5サイズくらいのスケッチブックだった。僕が絵を描くのが好きで、ときどき家でもスケッチをしたりしていた。それを見ていたのだろう。幼稚園では画用紙しかもらえないから、自分のスケッチブックが欲しかったのかもしれない。

「よし、じゃあこれとこの色鉛筆を買おう」

僕はまだこの年齢には不釣り合いなドイツ製の色鉛筆セットを買った。
買い物を終えた妻と合流し、食事をした。

「何のおもちゃを買ったの」
「のんはおもちゃ屋さんには行かなかったよ。スケッチブックが欲しかったみたい」
「あらそう」

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家に帰るとさっそく、娘は新しい色鉛筆で絵を描き始めた。僕らは三人で一緒にいることが少ない。僕が娘と話しているとき妻はそこに加わらない。妻とふたりが遊んでいるときは僕は書斎にこもっている。親ではあるが、大人がひとりの時間を持つためにはそれがいいのだと思っていた。でも違った。僕らはもう愛し合っていなかっただけなんだと気づいた。

もしも娘がいなかったら僕らがふたりで隣り合ってソファに座ることはないはずだ。僕は最近それに気づいたが、妻はずっと前から意図的に僕を避けていたんだとわかった。でも、それは特別つらいことでもなかった。中心に娘がいる限り、僕らは太陽の引力に囚われた惑星のようにぐるぐると周りながら生きていける。そう思っていた。

「のん、何を描いているの」

ある日、僕が聞くと娘はパパだという。それは人間のカタチなのかどうかすらわからないぐしゃぐしゃっとした黄色と黒の塊だったが、僕は言った。

「よく描けてるね。本当にパパにそっくりだ」
「そう。じゃあママに見せてくる」

キッチンにいる妻にスケッチブックを持っていく娘の後ろ姿を見て、まあ幸福というのはこれくらいでいいんじゃないかと思う。

「きれいな色だね。よく描けたね」

妻の声が遠くから聞こえている。

それから数ヶ月が経った頃のことだ。

「ねえ、ママ、色鉛筆ないよ」

妻は娘がそう言うのを無視していた。

「ねえ、スケッチブックは」

少し怒り気味な娘に妻は言う。

「他のことをしなさい。スマホでYouTubeを見るって言ってたでしょ」

スマホを渡された娘は子供に人気があるというチャンネルを食い入るように見始める。僕はあまり子供をスマホ漬けにして育てるのが嫌だったから、時間を決めてあまり長い時間は見せないようにと妻に言っていた。

「ねえ、YouTubeなんだけど」

僕がそう言い終わらないうちに、妻は言った。

「あのね、私は朝から晩までのんちゃんの面倒を見てるの。自分のことをしたいときもあるし、ひとりになりたいときもあるの」
「そうか、わかった。でもあまりスマホは見せすぎないようにね」

それには返事がなかった。

数日後にまた同じことが起きた。娘が絵を描きたいというのに妻は色鉛筆やスケッチブックを探そうとせず、黙って背を向け、テレビを見ている。

「ねえ、スケッチブックをくれって言ってるけど」

娘が泣き出し、僕がたまりかねてそう言うと、妻は後ろを向いたまま本棚を指さした。スケッチブックと色鉛筆はそこにあった。

「あったよ、一緒に絵を描こうか」

僕がスケッチブックを開くと、切り取られた跡があるのがわかった。冷蔵庫に貼られているのは花と犬が描かれた一枚だけだが、なくなっているのは数枚のように見えた。娘が絵を描き始めるとしばらくして妻がそれをのぞきにきた。

「何を描いてるの」
「お花とおうち」
「そう」
「ここにパパを描くの」

空いているスペースを娘が指さすと、妻はポケットに入っていたスマホを娘に渡した。

「ピコピコちゃんねる、見るでしょ」
「うん、見る」

娘はスケッチブックなど忘れたかのようにスマホを眺めている。これだ、これがスマホの恐ろしさなのだ。どんなものより中毒性が高い。僕は古い人間だからだと思うけど、子供がスマホを見ている姿があまり好きになれない。それよりも自分の手で絵を描いて欲しいと思う。それまでは容認してきたけど、これはあんまりじゃないかと思って妻にたずねる。

「大人しく絵を描いているんだから、きみがわざわざスマホを渡すことはないだろう」
「私が悪かったですね、どうもすみません」

その声に感情はまったくこもっていなかった。初夏だったが、僕は背中に冷たい汗がつたうのを感じた。僕らは家族なんだろうか。

遅く帰った夜。暗いリビングのソファにひとりで座ってビールを飲んでいた。本棚のスケッチブックが目に入り、それを手に取る。親バカかもしれないが、娘の絵がとても上手になってきている。数枚の絵が増えていたが、なぜかまた破り捨てられた形跡があり、スケッチブックは目に見えて薄くなっていた。これはどうして破られているのか。そのままになっている絵はどれも花やキリンなどが描かれている。娘はよく友だちを描くとかパパを描くと言っているのに、人物の絵は一枚もない。その理由を娘に聞いてはいけないという予感だけはあった。これは妻が破っていると確信したからだ。

妻が親戚から急に呼び出されて出かけていった日曜日の夜。ぼくはスケッチブックを取り出して娘に渡してみた。

「何か描いてみて」
「わかった。パパを描くね」

描き始めると、スケッチブックを買った日からそれほど経っていないのにかなりうまくなっているのがわかった。あのときのぐしゃぐしゃの僕ではない。ちゃんと人間の形をしている。

「パパはテレビを見てるから、描けたら教えてね」

と言ってから数分後、娘は僕の隣にやってきて絵を見せた。そしてそれは僕が決して見てはいけないものだから破られていたのだとわかった。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。