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帝王切開:博士の普通の愛情

10年近く会っていない女性からメールが来た。彼女はある大きな企業の営業社員として、僕が撮影する仕事のスタジオにあらわれた。その会社の広告撮影の立ち会いで来たのだが、僕らはあまり現場に大勢のクライアントが来るのを好まない。撮影現場は工事現場や厨房のように専門職だけがいるべき場所だと思っているからだ。

スタジオには高圧の電気設備もあれば、不安定で危険な機材もたくさんある。訓練された我々はそれを知っているが、初めてやって来る部外者がうろうろ歩き回るのを見ていると気が気ではない。10人ほどの人々が大きなスタジオの入口付近にたまっていた。撮影するタレント、スタイリスト、ヘアメイクや僕はちょっとうんざりした顔を見合わせることになる。

「よくあんなにたくさん来るよね」「暇なんだろうな」

必要なのはいつもミーティングをする宣伝部の担当者くらいのはずだが、撮影になるとタレントの顔を見に、ほぼ無関係と言っていい社員たちがぞろぞろとくっついてくる。「部長の娘さんがファンなので、サインをください」とか言いながら。僕らは毎度のことだがそれを苦々しく思う。その中でひとりだけスタジオのセットや機材を興味深そうに眺めている女性がいた。それが彼女だった。

彼女はコンパクトカメラを持って僕の方に来た。社内報に載せる写真を撮れと上司に言われたのだが素人の私が撮ってもいいか、それが失礼であれば撮影で使った本番のカットを流用した方がいいか、と聞かれた。その言い方がとても誠実に聞こえて好感を持った。僕はどちらでもいいですよと答え、ただフラッシュを使うと撮影用のストロボが反応するからやめて欲しいと伝えた。

スタジオに置かれた複数のストロボはどれかひとつが光るとセンサーで全部が一斉に発光する仕組みになっている。時々、それを知らない人がフラッシュをたくと、思いも寄らぬタイミングで発光してしまいスタジオマンやアシスタントが危険にさらされる。ストロボの角度などを目の前で調節していたら大変なことになる。彼女は、「センサーが反応するから」と言っただけでシンクロの仕組みを理解したようだ。俺は理解の早い人が好きだ。

レギュラーでやっていたその仕事の二度目の撮影は半年後だったが、あの彼女も来ていた。ご無沙汰しています。憶えていらっしゃらないと思いますが、と言う。僕は、「憶えていますよ。今日も社内報ですか」と答えた。彼女は広報部に異動になったのだという。宣伝部に出入りして他の撮影現場にも行くようになり、短期間でかなりの経験を積んだようだ。撮影前、アートディレクターと僕が撮影の説明をすると、宣伝部の若い男性社員がとんちんかんなことを言った。するとすかさずこちらの意図を汲み取った彼女が適切な説明を男性社員にしてみせた。あの子は出世するはずだ、と、撮影が終わったときにアートディレクターが言った。

それが僕らの初対面と二度目の対面だった。数年でその企業との仕事が終わったので会うことはなくなったが、知人の写真展でたまたま再会し、オープニングパーティのあとの二次会で初めて個人的な話をした。仕事を離れて話す彼女はとても魅力的だったので、僕は近いうちにふたりで会おうと約束をした。

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勉強熱心な彼女とは、広告の参考になる展覧会や音楽のライブなどに行くことが多かった。僕は何でも熱心に質問してくる彼女に答え続ける教師のような立場だったが、あるとき彼女がフランス人写真家の写真集を持って来た。カフェで開くにはややはばかられるモノクロのヌード写真が並んでいた。

「こういうのはどう撮るんですか」と聞かれた。どう撮るかと言われても、服を着ているか着ていないかの違いだけで、普通と同じだよ、と僕は答える。そう言ってから自分でもあまり考えていなかったことに気づく。本当に服を着ているときと同じように、僕は撮っているのかな。

「いつか私もこういうの、撮って欲しい」

だいたいの女性は実際に撮ることはなくてもそう言う。じゃあ撮ろうかと言うと、ジムで鍛えてからねとか、人に見せられるカラダじゃないからなどと言うのだ。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。