作家夫婦:博士の普通の愛情
ある作家の夫婦がいた。
夫はいくつもの連載小説の締め切りに追われて、もがいている。同業者の妻にはその苦労が痛いほどわかるのでどうにかしてあげたいと思っていた。
「環境を変えてみたらどうかしら」
「ああ、それもいいかもしれないな」
数字に強く家計を担当している夫は、ある日の午後、書斎に閉じこもって出てこなかった。夕食の時間、部屋から出てきた夫は妻に表計算ソフトで作ったと思われるプリントアウトを見せた。
「これが去年の僕らの生活費の合計なんだ。重なっているところもあるけど、概算で僕と君が別々に暮らしていくための生活費を試算してみた」
「へえ。これを一日中計算していたのね」
「うん。一年間、南の島で仕事をしてみようかと思う」
「いいじゃない。賛成するわ」
妻はかなり正確に計算されたその結果を眺めていた。銀行にある預金からしても、非現実的な話ではないことがわかった。何より小説が書けないという夫の苦しみがいくらかでも軽減されるのならいい。
「南の島に行ったからと言って、書けるようになるかどうかはわからないんだけどね。とにかく君が言ってくれたように環境を変えてみるよ」
夫はすぐにビザなどの準備を始め、数ヶ月後に南の国に旅立っていった。現地から定期的にメールが届く。向こうでの生活が肌に合ったのか、楽しそうな写真が送られてくるし、連載の原稿も順調なようだ。何より、小説の内容が明るくなった気がする。実は編集者には外国にいることを伝えていない。今までと同じようにメールで原稿を送っているし、会って打ち合わせをする用事もなかったから担当編集者はみんなまったく気づいていないようだった。
一年後、夫は真っ黒に日焼けして別人のようになって帰ってきた。
「なんだか、若返ったような気がするよ。仕事も順調だし、細かいことに悩まなくなって、長年抱えていたストレスが嘘のように消えてしまった」
「それはよかったわね。すごく元気そう」
夫は妻に提案する。
「君も交代で行ってくるといい。素晴らしい体験だったから」
「どうしよう。私はあまり社交的じゃないし、旅行ならいいけど知らない土地に住むのは難しいかもしれない」
「いいじゃないか。仕事じゃないんだし。馴染めなかったら帰ってきたらいいんだ」
しばらくして妻はアメリカのちいさな田舎町に行くことにした。向こうにいる一年間で二冊の小説を書き上げていた。夫はやはり環境を大きく変えることには効果があるのだと確信する。預金を切り崩していた外国滞在ではあったが、ふたりの本の売れ行きがよく、むしろ経済的な心配はなくなっていた。
一年後、妻が帰ってくるはずだった時期にメールが来た。
「しばらく帰れないかもしれません」
とだけ書いてあった。何かトラブルがあったのかと思ってメールを送ったが返信はなかった。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。