ラテン語について(導入編)
ラティウムの大地から
古代、ヨーロッパにはローマ帝国という国があった。
イタリア中部・ラティウム地方の小邑に始まり、最盛期(前1-後2世紀頃)には地中海世界の大半を治めて繁栄した超大国である。
ラテン語(Latīna)はそんな古代ローマの言語であり、その名はローマ(Rōma)を含むラティウム(Latium)圏の諸都市で使われていたことに由来する。
そしてローマの覇権拡大と共に地中海各地―—特に西方に広まっていった歴史が存在するのである。
ヨーロッパの歴史は古代ローマを抜きにしては語れないが、そこで使われていたラテン語の存在感もまた遠く現代にまで及んでいる。
英語はラテン語から外来語を大量に導入しており、数でいえば語彙全体の約45%に及ぶといわれる(水谷2011, ixなど)。
そのため日本語話者の大半も日常的にラテン語系の語彙に接している。
(意味は古代からシフトしているものもある)。
たとえば「アニメ」は英語のanimationから来ているが、これは英語にとっても外来語で、ラテン語のanima(アニマ)「命,魂」の派生語animātiō(アニマーティオー)「命を吹き込むこと」に由来する(EtymOnline)。
現行太陽暦の月名もすべてローマ暦起源で、例としてJanuary「1月」はJānuārius(ヤーヌアーリウス)「ヤーヌス(始まりの男神)の月」に由来する(EtymOnline; 水谷2011, p.735など)。
今回はそんなラテン語に親しんでもらうための歴史導入・概説としたい(次回以降で本格的な語学要素を扱う)。
ラテン語がどのような言語かについてはアニマのラテン語紹介動画も参照してほしい。
(この記事の中で出典がオリジナルとなっている図表はこのアニマの動画のために制作されたものである)。
古代の文例
ラテン語といってもイメージがわかない人もいるだろう。
ヨーロッパの言葉だから英語に似ているのかも、噂では難しいと聞いた、といった人もいるかもしれない。
よって手始めに古代の文献から"意外に思えそうな"例を3つ引用する。
特に発音と語順に注目してほしい。
原文は『The Latin Library』『Perseus Digital Library』を参照にしつつ私訳した(各作家については文学史記事で説明する)。
3例とも表現に続きがあるがここが一区切りなので問題はない。
発音がほぼローマ字読みで、語順も日本語に近いことに気づくだろう。
ラテン語はどのような言葉か
1.発音
上で示したように、ラテン語の発音はローマ字読みに極めて近い。
これはローマ字が元々ラテン語のために整備された文字体系だからである。
加えて基本母音は日本語と同じ/a, e, i, o, u/の5つで(他に長短の区別が存在)、子音も/l/と/r/の区別はあるが、それ以外は簡単なものが多い。
(日本語より子音終わりの音節が多い点には注意)。
綴りと発音は次回説明するが、日本語のローマ字表記と習慣が違う点を簡単に挙げておく。
しかし規則性はかなり高い(主に紀元前50年頃の発音、水谷2011; x参照)。
古代には元々大文字のみが使われた。
J, U, Wも独立の字としては未確立で、母音/i/と子音/j/はどちらもI、母音/u/と子音/w/は共にVと書かれ、Wもなかった。
小文字は後代に筆記体から生じ、現代の出版物では併用される。
長母音もā, ē, ī, ō, ūなどのマクロン付き文字で示されることが少なくない。
古代の句読点や長音記号については文字・碑文特集で触れる。
日本語ではヤ行子音にyが当てられているが、ドイツ語などではjがその役割を果たす。
言語学の国際音声記号(IPA)でもjが当てられている(ラディフォギッド1999, etc.)。
ラテン語の‹y›の用途も次回記す。
2.形態法(語の形成や変化)
ラテン語の名詞は文中での役割に応じて形が変わる。
簡単にいえばラテン語の語尾変化は日本語の「~を」「~の」「~に」といった助詞の役割を果たすのである。
(多少違いもあるが語形変化のパターン解説の際に述べる)。
たいていの名詞には複数形の変化もあるが、とりあえず単数形だけ一例を挙げよう(水谷2011参照)。-isやmなどの意味も文法解説の際に説明する。
Caesar「カエサル」もこのパターンに属し(そのため対格はCaesar-em「カエサルを」)、victōr-em「勝利者を」などもこの変化をしている。
主格はØ(語尾なし)より(*duc-s>)dux「指導者」のように-s付きになる語のほうが目立つが、詳細は他の記事で説明する。
(簡単にいえば語幹がs, n, l, rなどで終わる語には基本的に-sがつかないか、ついた後で消えた歴史がある)。
動詞も現在形や完了形などに変化するがそれも別に解説する。
上例中probatやsubdūcitは現在形、cēpitは完了形である。
形態法としてはこうした語形変化の他に派生などの形成法も重要である。
別の機会に特集するが、特に冒頭のanima→animātiōのような接尾辞の付加による派生が多用される(小林2006, 106-115なども参照)。
3.統語法(語の組み合わせ方や配列)
3例とも述語動詞が節末にあるが、このように節の基本語順は日本語と同じ動詞末位型(主語S・目的語O・述語動詞Vの標準相対順序はSOV)である。
(Bennett, 1895, pp.213; 大西2001; ダンジェル2001, pp.157-159; 松本2006, pp.42-43, 124-125, 136-139, 149-150など)。
他の語順も可能だが、一例としてCaesar「カエサル」、cōpiās「軍勢を」、condūcit「導く」ならこの並びが最も普通になる。
(日本語の「は」や「が」についてはいずれ簡単に言及する)。
ラテン語の語順の可変性は日本語よりも大きいがそれも文法の回で解説しよう。
suās cōpiās「自身の軍勢を」と(in) proximum collem「最寄りの丘へ」の相対語順などは別に考察したい。
また英語のaやtheのような不定冠詞や定冠詞はない(大西2001など)。
もっともあらゆる面が日本語に似ているわけではなく、実際にはもっと長く複雑な表現も多いのですぐに読めるわけでもないが、こうした基本説明を聞くと意外な印象を受けるのではないだろうか。
なお言語類型論という分野の話になるが、/a, e, i, o, u/の5母音体系やSOV基本語順は世界的に見て最も標準的なタイプである(母音は松本2006, p.31-33, 165-167、語順は同書pp.160-164参照)。
印欧語族
言語学の推定によれば今から数千年前(一説に約5000-6000年前)、ユーラシア大陸には印欧祖語(インド・ヨーロッパ祖語)という超古代言語があった。
(マルティネ2003, pp.1-13; 松本2011, pp.5-6; アンソニー2018, pp.13-180)。
印欧祖語はやがて数多くの子孫言語に分かれ広大な地域に伝播した。
ラテン語もそうした後裔のひとつで、印欧語族イタリック語派という分枝に属する(マルティネ2003, pp.88-91; 小林2006, pp.39-42など)。
使用年代は長いが主な文献は紀元前3世紀以降のものである。
以下に簡易系統図を挙げる(松本2006, p.26; 吉田育2009, p.51-54; アンソニー2018, p.28を参考に作成)。
印欧祖語に直接の文献はないが、古代ギリシャ語、ラテン語、古英語などには「共通の源」に遡ると思われるほどの共通性があるため、遡及的に存在が想定されている(再建)。
(イタリック祖語、ケルト祖語、ゲルマン祖語などの中間祖語も想定されることが多い)。
言葉の系統や「祖語」「語族」という概念については1/20, 1/23, 2/8, 2/22, 3/1の各記事を読んでほしい。
この表からもわかるようにイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ルーマニア語などはラテン語の末裔に当たる(ロマンス諸語、後述)。
英語はラテン語から直接生じたわけではないが、同じ語族のゲルマン語派に含まれる遠い親戚に当たる(マルティネ2003, pp.92-103など)。
古英語はラテン語よりも記録年代が新しく、主要資料のひとつ、英雄叙事詩『ベーオウルフ』は後8世紀頃に口承として完成し、徐々に文章化されていったといわれる(堀田2013, 01/25など)。
ラテン語の習得は印欧語族を歴史的に総覧する上でも推奨できる。
古代印欧語にもいろいろとあるが、その中でも日本語話者にとって音韻、文法、語源、情報量などの点で最初に習得しやすいからである。
ラテン語と英語
・祖語からの同源継承語
上表の通り英語はラテン語の直系ではないが、同系統だけあって祖語からそれぞれ受け継いだ同源語も多い。いくつか例を挙げよう(PIE.=印欧祖語)。
(祖語の語根形はIEW, EtymOnlineなどを、音韻対応はBeekes, 2011; Fortson, 2004などを参照し、マルティネ2003, pp.335-338; Fortson, 2004, pp.427-431などにより現代説に合わせて表記。今回は祖語での発音の詳細は省略)。
簡単にいえば祖語の*peth₂-という語根はラテン語にはpenna、英語にはfeatherとして直接受け継がれた。
一覧を見ればわかるように、祖語の*s, *m, *n, *l, *rなどはラテン語でも英語でも通例同じ音として反映されている(後に起きた変化は除く)。
一方、*p, *t, *kなどは通常、Lat. /p/⇔Eng. /f/のように違う音として現れる。こうした規則的なズレはpater(パテル)「父」⇔father「父」、tonitrus(トニトルス)「雷鳴」⇔thunder「雷」、canis(カニス)「犬」⇔hound「猟犬」など様々な語に見られる(EtymOnline, こちらも後代の変化は除く)。
この違いは祖語からの分化(特にゲルマン語派の子音推移)によるものだが、詳しくは他の記事(2/22, 3/1など)に譲る(マルティネ2003, pp.92-95; Fortson, 2004, pp.301-304; Beekes, 2011, pp.130-135なども参照)。
・ラテン語から英語へ
一方、それとは別に分派後の語彙借用も起きている。
上に挙げたラテン語の単語にどことなく見覚えがある人も多いと思われるが、英語のpen「ペン」、triangle「三角」、capture「捕獲」、solar「ソーラー」、mental「メンタル」、novel「小説」、library「図書館」、regal「王者の」などはラテン語系の外来語なのである(EtymOnline, 主な導入ルートは後述)。
英語はラテン語の影響を強く受けているので、このように「祖語からの直接継承語(featherなど)」と「ラテン語由来の外来語(penなど)」が同源語として共存する例も頻繁に見られる。
ラテン語の記録年代
印欧祖語がイタリック祖語的な段階を経つつイタリア半島に定着した年代やラテン語の分派期は明確ではない。
イタリック語の所有者は前1000年頃には北方からイタリア半島に達していたらしい(市河・高津1975, p.419)。
ラテン語の記録は古いものでは前7-前6世紀頃に遡る(パトータ2001, p.16; 小林2006, pp.46-48など)。
当初の使用域はイタリア半島中部に限られていたが、ローマの勢力拡大に呼応し広大な地域に広まった(小林2006, pp.87-92など)。
初期のラテン語についても他の機会に言及する。
主な文献は前3世紀以降に集中し(ダンジェル2001, p.18; 小林2006, pp.48-50)、特に前1世紀頃~後1/2世紀頃のものが質量ともに豊富である。
発音や文法もこの時代のものが標準として定着している(古典ラテン語)。
前後の時代にも重要な文献・記録がいろいろとあり、広義には古典ラテン語に含められることもある(あるいは準じて扱われる)。辞書では後2世紀頃までの単語・用例が中心的に収録される(水谷2011, xii)。
古代ローマは建国神話によれば元々王政だったが(実態未詳)、元老院を中心とした共和政に移行したという。
そこから貴族と平民の対立と妥協、数多くの戦い、イタリア半島の統一、超大国化、内乱などを経て、前1世紀後半には史上有名な独裁官カエサルの台頭と暗殺を見た。
カエサルの養子として内乱を収めた後継者アウグストゥスの時代には事実上の帝政に移行し(前27年)、前1世紀から後2世紀に最盛期を迎えた(長谷川・樋脇2004など)。
紀元後も最盛期のローマ人の大半は多神教信仰を持っていた。
その最高神は天と雷の男神Jūpiter「ユーピテル」である(ギリシャ神話のΖεύς「ゼウス」に相当)。この神名は「木星」という意味でも使われ、後に英語にもJupiter(ジュピター)として取り入れられた(EtymOnline)。
古代ローマの文学者たち
ラテン文学では前1世紀から後1世紀頃、散文であればキケローやカエサル、詩ではウェルギリウス、ホラーティウス、オウィディウスなどの著作が特に注目される(小林2006, pp.145-175など)。
今回は作家・作品・文学史について詳しくは触れないが、先に何人か名前を挙げておく(Bennett, 1895, pp.14-16)。
ラテン文学は初期からギリシャ文学の影響を受けているが、やがて独自性も育みつつ発展していった。
(詳細は松本・岡・中務1992などを参照)。
ギリシャとローマ
ラテン語は周辺言語と関わりを持ち、相当数の外来語を取り入れてきた。
最も重要なのは印欧語族の類縁語ギリシャ語との関係である。
西洋の古典古代史はよく「ギリシャ・ローマ時代」などとまとめて扱われるが、実際に両者の繋がりは(文化面でも言語の起源・接触面でも)深い。
ローマは当初、イタリア半島北中部を中心に高度な文明を築いていた系統詰めいのエトルーリア人を通して間接的に、次いで南イタリアのギリシャ系植民都市を通して、さらに後には直接ギリシャ本土(及び関連するマケドニア王国)との接触・交流を深め、時に対立し、次第にそれらを併合していくが、文化的には逆に強い影響を受けていった(小林2006, pp.97-102も参照)。
冒頭の詩人ホラーティウスの言葉はローマ人によるそんな歴史への評価として有名である。
ただしローマ人はギリシャ文化に憧れることも多かったが、独自のアイデンティティや自負もあり、建築や法律など独自性のある分野もあり、文法学などでは影響を受けながらも個性を発揮していた学者もおり、文学面でも文人によっては外来語を好まずラテン語系の語彙を好む気風もあった(外来語の多寡については市河・高津1975, p.447; 小林2006, p.100)。
ある面では日本人が欧米文化を見る目に近いかもしれない。
後にギリシャ側も一部でローマの影響を受けた(暦の併用や外来語など。市河・高津1975, p.342も参照)。
詳しくは外来語史の記事に書くが、ギリシャ人の都市は本土や周辺諸島に限られていたわけではない。それ以外でも南イタリアのギリシャ系諸都市などは豊かさの点でも古期ラテン語の文字・語彙・文学への貢献の点でも注目される(市河・高津1975, p.447-448; 小林2006, pp.129-130など)。
ギリシャ語との関係
ともあれそういった経緯からラテン語にはギリシャ語由来の単語が多い。
ギリシャ語のἥρως(ヘーロース)「英雄」はラテン語にもhērōs(ヘーロース)として輸入され、後に古フランス語を経て英語のheroとなった(EtymOnline)。
(現代西欧語のギリシャ語系語彙はこのようにラテン語経由率が高い)。
神話的にもギリシャのΖεύς「ゼウス」がローマのJūpiter「ユーピテル」に、海の男神Ποσειδῶν「ポセイドーン」がNeptūnus「ネプトゥーヌス」に、知恵の女神Ἀθηνᾶ「アテーナー」がMinerva「ミネルワ」に相当するといった習合・対応解釈が行われた(対応関係については中山2007, p.118; 水谷2011各項目なども参照)。
狩猟と予言の男神Ἀπόλλων「アポッローン」などは元々対応する神がおらず、ほぼそのまま取り入れられた(Lat. Apollō「アポッロー」)。
逆にローマの扉と始まりの男神Jānus「ヤーヌス」などはギリシャの神との対応関係を持たない。
ギリシャ語とラテン語は共通点も多いが少なからず違いもある。
両言語の比較も改めて行いたい。
両者の差異により語の輸入時には形が変わることも多い。
ギリシャ語で-οςで終わる"o幹名詞"は通例ラテン語で-usとして取り入れられる(Ὄλυμπος「オリュンポス」→Olympus「オリュンプス」、水谷2011)など。
この-οςと-usは起源も同じで使用頻度も高い(ラテン語でも古くは-osだった)。
ギリシャ語で「~オス」、ラテン語で「~ウス」で終わる男性名が一般的なのもそうした事情による。
語形の直接輸入以外にも「大きい+魂」を基にしたμεγαλό-ψυχος(メガロプシューコス)「寛大な」と同じ方法でmagn-animus(マグナニムス)「寛大な」を作るといった翻訳借用による造語も行われた。
ラテン語では語句の用法や格言などでもギリシャ語からの影響・翻訳が見られることがある(語法については後述、格言に関しては別の記事で解説)。
古代ギリシャ自体も言語・神話・文化などの点で先行するメソポタミア文明や先住・周辺言語などから影響を受けている(ギリシャ語に入った古い外来語については市河・高津1975, pp.315-319なども参照)。これについても機会を改めて言及しよう。
ラテン語は地中海各地に広まったが、積極的に広められたわけではない。ただ文化・教育・行政などから徐々に浸透していった(小林2006, p.88)。
ギリシャ語も東方の共通語として有力だった。他にもオスク語やガッリア語のように地域によってはかなりの間使われ続けた言葉がいろいろとある。
古代イタリアの周辺言語
イタリア半島は古代から数多の言語がひしめく地帯で(市河・高津1975, pp.419-429など)、ラテン語には他にも様々な接触があった(小林2006, pp.87-97など)。
系統不明のエトルーリア語からはarena「アリーナ」の語源であるarēna(アレーナ)「砂,闘技場」が導入された(EtymOnline)。
エトルーリア人は未だに謎も多い民族だが、独特の文化を持ち、初期ローマに影響を与えたことで知られている。
同系統のイタリック諸語(オスク語やウンブリア語など)からはpopīna(ポピーナ)「飲食店」が導入された。これは本来語のcoquō(コクォー)「料理する」と同源だといわれている(市河・高津1975, p.446など)。これに近いp⇔quの関係を持つ語はいくつかある。
(第一音節のco-は*pe->*que->*quo-に由来し、後舌母音o, uの前で*qu>cを経た形。第二音節の-quōは三人称単数形coquitのような他種の母音が続く変化形からの類推で復元・維持された)。
イタリック語派と近縁なケルト諸語(特にガリア語)からはcarrus(カッルス)「荷車」などを取り入れた(EtymOnline)。英語のcarの語源である。
現代に残るケルト語としてはウェールズ語やアイルランド語などがある。
アフロ・アジア語族セム語派(オリエントのアッカド語、ヘブライ語、アラビア語などが含まれる。古代エジプト語とは遠縁関係)のフェニキア語からはおそらくferrum(フェッルム)「鉄」などを導入した(EtymOnline)。鉄の元素記号Feはここに来源する。
印欧祖語時代からラテン語形成期にかけても当然外来語はあったはずで、ラテン語に残っているといわれるものもあるが、先史時代の話だけに語源・借用方向・導入年代の判断は難易度が高い。
(印欧祖語に入った借用語は風間1993, pp.64-68、印欧祖語側から他語族への影響を中心とした接触考察はアンソニー2018, pp.140-148なども参照)。
fīcus(フィークス)「イチジク」(→Eng. fig)は先史時代の地中海地域にあった未知の言語から来たと思われる(EtymOnline)。
詳細は外来語史に譲るがこの語は語形的にイタリック祖語形成期あたりに借用された可能性が高い。
外来語や周辺諸語についてはいずれ詳しく特集しよう。
とりわけエトルーリア語の関与は重要である。
イタリック語派についてはラテン語の方言絡みでも話題がある(ダンジェル2001, pp.33-34, 86など)。
形成過程もイタリック祖語からの分化説が主流だが、一部には古い印欧語同士の言語連合起源説(マルティネ2003, pp.88-89)もあり、またラテン語、ファリスク語、オスク・ウンブリア諸語以外にも所属語があった可能性があるので、それも機会を見て言及したい。
遥かなるローマの末裔
ラテン語は時と共に少しずつ移り変わっていったが、やがてローマ帝国が滅ぶと、各地に定着していた民衆ラテン語は変化・分派の速度を速めた。
その結果生じたのがイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、プロヴァンス語、ルーマニア語、サルディニア語などで、ロマンス諸語と総称される(マルティネ2003, pp.91-92、堀田2010, 11-06-1など。ダルマティア語のように後世に使用が絶えたロマンス語もある)。
これらはラテン語の末裔に当たる存在といえる。
当然ロマンス諸語には継承語が豊富にある。
イタリア語のmare(マーレ)「海」はラテン語の同義語mare(マレ)に、スペイン語のamigo(アミーゴ)「友達(男性形)」はamīcus(アミークス)に由来する。
ロマンス諸語への変遷過程では音変化、形態法変化、冠詞形成、SVO基本語順の確立などが起きたが(パトータ2007, pp.33-177など)、今回は省略する。
古代、第一言語(いわゆる母語)としてのラテン語の最終年代は研究者ごとに区分が異なり定説がない(元々明確な区切りがあるものでもない)。
文献の扱い的には後6-8世紀頃のどこかだろうか(パトータ2007, p.4では後7, 8世紀頃までを後期ラテン語としている)。
政治史的には後5世紀後半の古代ローマ帝国の終焉(長谷川・樋脇2004など)、文学史的には通例後6世紀初頭(Bennett, 1895, p.16)が西洋古典古代の最終年代とされる。
英語への影響ルート
英語のラテン語系語彙はLat. vīnum(ウィーヌム)→Eng. wine「葡萄酒」のようにローマ時代に入ったものなどもある(EtymOnline; 英語はまだゲルマン祖語段階だったかもしれない)。
しかし、とりわけ目立つのはイングランドにノルマン人王朝ができた1066年頃から古フランス語経由で入ったものである(それ以前からも接触があったがノルマンコンクエストで急加速)。
このことも手伝って古英語と中英語の区切りも通例11-12世紀頃とされることが多い(他に発音や形態の変化などの理由もある)。
ただし実際に古フランス語からの影響が文献上も目立つようになるのはもう少し後の時代である。
現代フランス語は古フランス語の中央方言を基盤としているが、当時の外来語はノルマンフランス語からの輸入率が高い。
またこれらの時代にも学術語としてのラテン語は使われており、当時の古フランス語は(語末を除き)ラテン語と形にあまり差がない語も多かった。
そのためラテン語からの直接導入とも古フランス語経由による導入とも同時参照とも解釈できる外来語も珍しくなく、この時代のラテン語起源の外来語は「ラテン・古フランス語系」としてまとめて扱われることが多い。
一方、後にはより古典ラテン語的な形の直接借用が増加していく(以上、堀田2013, 08/12-1; 2015, 11/07; 2009, 07/13-1; 2013, 06/29-1などを参照)。
古い時代に入った語では語尾の消滅が目立つが、後代の語では全体の定着例も増えていく(Lat. album(アルブム)「白」→Eng. album「アルバム」など。この語の導入はEtymOnlineによれば1650年代頃から確認できる)。
ラテン語由来の語が複数回輸入されたこともある。
ラテン語のrēgālis「王の」は一度古フランス語を経由したroyal「王家の」の形で導入されたが、後によりラテン語形に近いregal「王者の」としても再導入され(EtymOnline)、共に現代語に残っている。
このケースでは別語源の同義本来語のkingly「王者の」も並立している。
いずれのルートにもいえることだが語義はラテン語時代から変化していることもあり、特に二重輸入語は英語内で意味が分化したものも少なくない。
後世への波及
冒頭でも触れたが現代英語の月名はすべてローマ暦起源である(EtymOnline)。
学術用語にもラテン語系のものが多数あり、主な星座名などが該当する。
英語で天秤座をLibraというが、これはラテン語のlībra(リーブラ)「天秤」に遡る(EtymOnline)。
この語には古代から「天秤座」としての用例もあり(水谷2011)、その用法は天文学の輸入経路でもあるギリシャ語ζυγός(ジュゴス)に倣っている(意味借用)。現代では普通名詞としてはすべて小文字、星座名としては頭文字だけ大文字で書かれる。
また、民衆ラテン語はロマンス諸語に変化していったが、それとは別に文語としてのラテン語も人為再生され、西方の知識人の共通語として使われた(小林2006, 241-283など)。
それによってこの言語の影響は引き続き広く波及し、中世以降にも新しい単語や語法が生まれた。
librārium「本箱」は後に「図書館」の意味でも使われるようになり、これが古フランス語経由で英語のlibraryになった(EtymOnline)。
古代のラテン語では「図書館」をbibliothēca(ビブリオテーカ)といったが、これはギリシャ語のβιβλιοθήκη(ビブリオテーケー)「本箱,文庫,図書館」から来ている。
金の元素名aurumと元素記号Auはラテン語のaurum(アウルム)「黄金」から来ている(EtymOnline)。
英語のdata「データ」は近世以降にラテン語のdata(ダタ)「与えられた(もの)」から取り入れられた(EtymOnline)。
なお「ラテン語」と「他の言語に入ったラテン語系の外来語」は厳密には概念として完全に一致するわけではないが、それは機会があれば言及したい。
ギリシャ語要素のラテン語化
ラテン語にはギリシャ語要素を多く輸入してきた歴史があり、なおかつ後世への影響力は古代ローマ帝国という単位のほうが大きかった。
それを反映してか、(古代にも行われたことだが)特に西方では「ギリシャ語要素のラテン語化」もよく行われた(時に現代語にも輸入)。
ティラノサウルスの学名はTyrannosaurus rexというが、属名Tyrannosaurusはギリシャ語のτύραννος(テュランノス)「僭主,専制君主」とσαῦρος(サウロス)「トカゲ」を複合・ラテン語化したものである(EtymOnline, 各形態素の意味は古川1989参照)。
標準ラテン語的には「テュランノサウルス」が最も近い読みになる。
種小名rexはラテン語のrēx(レークス)「王」による(EtymOnline)。
この語はラテン語や古代ギリシャ語と同じ印欧語族に属す古代インドのサンスクリット語のrājā「王」(rājan-)と同源である。
補足として「大きい」を意味するラテン語のmagnus、古代ギリシャ語のμέγας(メガの語源)、サンスクリット語のmahā-(摩訶不思議の摩訶の語源)も同源であることを踏まえると(印欧祖語形*meǵh₂-, *mǵh₂-)、サンスクリット語のmahā-rājā「マハーラージャ」は「大王」という意味であることがよくわかるだろう。
次回はそんなラテン語の発音について解説したい。
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