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古代エジプト語とヒエログリフ

 →解読編

古代エジプトの証人

 古代エジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)をご存じだろうか。
 古代エジプトといえば真っ先に思い浮かべるであろう、ピラミッドや記念碑に刻まれた絵画のような形の文字体系である。

壁面に刻まれたヒエログリフ (PDM)
書字方向は自由度が高い。
右横書き(右→左)が多いが左横書きや縦書き、一行ごとの変更などもある。
ここではフクロウや人が左を向いているため基本的に左横書き。
縦書きの場合は頭側が向いている方の行から読むのが原則となる。
(また位の高い神の図像があると人や鳥はその方向を向く)。

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 一般的に古代エジプト史といえば最古の統一王朝(第一王朝)ができた前3100年頃から最後の王朝・プトレマイオス朝が滅んだ前30年頃、あるいはその前後(第一王朝以前やローマ時代)も含めた長期に及ぶ。

 この文明が生んだヒエログリフは人類が使った最古の文字体系のひとつで、使用年代は第一王朝の出現以前にまで遡る。
 まさに古代エジプト文明の証人といえよう。


失われた文字

 しかし王墓が砂に埋もれていくように、いつしか古代エジプトの宗教や言語は失われていき、ヒエログリフは読めない古代文字として残された。
 元々限られた上流階級のための筆記体系だったこともそれを後押しした。

 そんな神秘の文字の解読がなされたのは19世紀前半のことである。

 しかしなぜ人類は未知の古代文字を解読し得たのだろうか?
 エジプト語とはどのような言語だったのだろうか?

 今回は古代エジプト語がどのような言語で、ヒエログリフがどのような文字だったかを中心に、古代の歴史を訪ねてみたい。
 そして次回には解読のきっかけと方法を扱う。

 そこには数多くの驚きと示唆が含まれていたのである。

 (ヒエログリフについてはアニマの放送も参考にしてほしい)。


古代エジプト史の年代幅

 先に簡単に触れておくが、一口に古代エジプト史といってもその年代は極めて長い。
 たとえば日本で有名なツタンカーメンとクレオパトラー7世の生きた時代は1300年ほど離れているのである。

第4王朝(前2613年頃-前2498年頃)
・クフ 前26世紀
 クフ王の巨大ピラミッドで有名

第18王朝(前1570年頃-前1293年頃)
・ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン) 前1342年頃-前1324年頃
 黄金のマスクで有名

第19王朝(前1293年頃-紀元前1185年)
・ラムセース2世(ラー・メス・シス) 前1314年頃-前1224年
 古代エジプト最大領土を実現した英雄
 アナトリアのヒッタイト王国と平和条約を締結したことでも知られる

プトレマイオス朝(前305年-前30年)
・プトレマイオス1世 前367年-前282年
 古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王の側近

・クレオパトラー7世  前69年-前30年
 プトレマイオス朝最後の王、ローマの将軍アントーニウスの恋人

 ちなみにエジプトといえばピラミッドで有名だが、その建造年代は意外と限られており、ツタンカーメンはすでにピラミッドが作られなくなった時代の人物である。
 ラムセース2世やプトレマイオス朝の時代にも作られていない。

 ピラミッドの始まりは第3王朝(ジェセル王のピラミッド)、建築技術の全盛期は第4王朝(クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドなど)で、第5~第6王朝でも作られ続けたが技術・規模は縮小し、以後は長い建造途絶と散発的な再開を経て作られなくなった(廃れた後も王や有力者が墓にピラミッドを模したミニチュアのような物体を象徴的に添えた記録はある)。
 背景には宗教観の変化や盗掘対策なども指摘される。

 ツタンカーメンのミイラが発見された王家の谷は新王国時代(第18-第20王朝)の諸王の墓地だがピラミッドではない(山の外見は多少似ている)。
 ピラミッドが葬礼と関係しているのは確実だが、一般的にピラミッドとして地上に見えている部分は墓本体ではなく、それに伴う宗教複合体だったとする説もある(地下構造体への埋葬説)。

 そしてプトレマイオス朝の王族は古代ギリシャ系民族の一派、古代マケドニア人の家系である。
 プトレマイオスやクレオパトラーといった名前自体もギリシャ語系となる。
 異民族がエジプトに王朝を建てた事例は他にもあるが(ヒクソス人の第15王朝など)、このギリシャ系民族との関わりは今回の内容的に重要な意味を持つ。
 詳しくは後述しよう。
 (もっとも古代エジプト人という概念自体、長い歴史の中で緩やかに形成されていった漠然としたもので、純粋な血統というものは存在しない)。

 ともあれエジプト史は極めて長い幅を持ち、時代によって文化的背景なども異なり、簡単に全体を見通せるわけではない――ということを前提にしておいてもらえればありがたい。


ヒエログリフ系文字の歴史

 文字史の観点では次のような出来事が特筆される。

前3200年頃
 最古の聖刻文字(ヒエログリフ)文献の登場

前3000年頃
 神官文字(ヒエラティック)の普及開始

中王国時代(前2040年-前1782年頃)
 ヒエログリフ改革(正書法の改訂・文字数の削減)

新王国時代(紀元前1570年頃-前1070年頃)
 交易の活発化・外来語の導入によりヒエログリフの文字数が増加
 この傾向はプトレマイオス朝時代に入っても続く

第26王朝期(前650年頃)
 民衆文字(デモティック)の普及開始

プトレマイオス朝期(前305年~)
 ギリシャ文字の普及開始(前3世紀頃~)
 ギリシャ文字を基盤とするコプト文字の普及開始(後1世紀頃~)

 見た目にも明らかなように聖刻文字(ヒエログリフ)はそれ自体が絵画作品的な性質を持ち、複雑で筆記が難しい。
 そのため古くから神官文字(ヒエラティック)という簡易的な行書体も併用されていた。
 基本的にこうしたヒエログリフ系の文字体系は王や神官などの知識人階級しか学べないものだった。

 かなり後にはヒエラティックをさらに簡略化した草書体・民衆文字(デモティック)も登場した。
 ヒエラティック・デモティックはパピルス紙などに書くために使われることも多かったが、碑文も存在する。

 なおこれらのヒエログリフ系文字は(表音文字としては)基本的に子音しか表さない。
 これについては後でまた触れる。

ヒエラティック→デモティックの変化史 (PDM)
左から右へ年代が進んでいく。
最古の字体はヒエログリフと似ているが、後に抽象的になっていった。


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 翻ってプトレマイオス朝が成立するとギリシャ文字が普及していき、次いでそこにデモティック系文字をいくつか加えたコプト文字が成立した。
 このギリシャ・コプト文字の導入は極めて重要な意味を持つ。
 なぜならこれらの文字により、エジプト語の文献史上、初めて全面的に母音が表記されることになったからである。

コプト文字 (PDM)
母体となったギリシャ文字との類似が顕著である。
右下のϮ  /ti/のようにデモティック起源のものもある。

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 逆にヒエログリフ系の文字は元々上流階級限定の文字だったこともあり(特にヒエログリフ・ヒエラティックはその傾向が顕著)、ギリシャ系の文字に伴い次第に廃れていった。

 最後のデモティック文章は4世紀末の神殿に書かれた日付(後394年8月24日)とされる。

 なお、文字と言語の関係は一対一ではなく、「ヒエログリフ系文字によるエジプト語」「ギリシャ系文字によるエジプト語」「ギリシャ文字によるギリシャ語」などの複数種の文献があった点に注意してほしい。


エジプト語の系統と類型的特徴

 19世紀以降、インドからヨーロッパを中心に分布する多くの言語(ラテン語、ギリシャ語、サンスクリット語など)が印欧祖語に起源を持つ同系言語群、すなわち印欧語族であると知られるようになり、現代的な意味での言語学が誕生してから、他の様々な言語についても系統関係の認定と研究が行われるようになった。

 エジプト語はアフロ・アジア語族に属すことが認められている。
 広く見ればセム諸語(アッカド語、フェニキア語、アラム語、ヘブライ語、アラビア語など)とも同系で、想定上の共通祖先であるアフロ・アジア祖語の子孫同士の関係に当たり、似た特徴も多く見られる。

 アフロ・アジア語族はオモ語派、クシ語派、エジプト語派、チャド語派、セム語派、ベルベル語派の6語派程度に分けられるのが普通で、エジプト語、セム諸語、ベルベル語の一部には古い文献もあるが、表記体系の制約なども大きく未知の情報も多いため印欧祖語に比べても祖語の再建は進んでいない(オモ諸語を別語族とする説もある)。

アフロアジア祖語の*ma’-「水」由来の語の例(オリジナル)
母音は表記されていない言語も多いため推定部分も少なくない
(エジプト語mau, フェニキア語mēmなど)
ヘブライ語のmayimは「マイムマイム」のマイムに相当

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 他にも語彙的に分かりやすいものとしてエジプト語の疑問代名詞(従属形)mı͗「誰, 何」はヘブライ語のmí「誰」(多神教の神を起源としセム系一神教に天使として導入されたといわれるミカエルの名前のmi-)と同源関係にあることが知られている。
 ミカエルの名前の起源には諸説ある。字義的にはmí「誰」+kha-「似ている」+él「神」の組み合わせで、全体として「神に似たる者は誰か」を表し「いや、誰もいない」の意を含意するともいわれるが、疑問代名詞を関係代名詞的に解釈すれば「神のごとき者」とも解釈できる可能性もあるかもしれない。

 アフロ・アジア語族は内部的に違いが多い言語もあるので特徴については一概にはいえない部分もあるが、多次のような傾向を持つことが多い。

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