人生
―――人間は自由の刑に処せられている
―――正解を求めようとしてしまう
―――逃げ道、自分のホームをいつでも探している
―――どこに行っても"社会"はついて回る
―――人生山あり谷あり、希望を捨ててはいけない
―――極端な世の中、理想の場を見つけづらい
―――"生きづらさ"は少数派という肩身の狭さ・孤独感なのか?
―――どんな人間にも苦しみがある故に幸せを他人に見せつけては己が幸せであると錯覚したい
学校化社会
下記noteにて触れられているが、哲学者イヴァン・イリッチによる脱学校論についてである。現代社会は一般的なものさしとして「~しなければならない」という評価基準が暗に認識されているということである。学校と言うのは、大日本帝国時代の学校教練のような軍事的・競争的な目的が一時期あった場所であり、現在でも社会に出て活躍するための義務教育としての側面は残っており、学歴競争と言う言葉が用いられるように競争的意識は依然として残っているように思える。
価値観として、義務教育後の受験戦争による偏差値の高い大学への進学から大企業就職といった成功のルートとされるものが依然として残っている。レールが敷かれていて道筋が明確なのは良いが、かえって型にはまり過ぎて窮屈さがあり、そこから脱線することで路頭に迷い、生きる道を失ったという考えに陥りやすい。
型にはめられることを窮屈に思い、苦労しながらも恩恵をどこかで求めている状態であることから、そのレールを外れた者を脱落者として認識し、その苦労を通らずに生きるものをならず者として白い目で見るのである。
―――同じフォーマットにあてがわれたとしても先々で起こる出来事が違うことによる個人の異質性
―――模範主義、べき思考に囚われると「なぜ?」という憤りを感じる
―――捉えようで大きく変わる物事は多々ある
―――どんなこともそう上手い話はない
―――見えない屍の上に成り立つ社会
対人関係
―――独りの時間がないとやっていけない
―――「自分だけ…」という不公平感が自身の感情を悩ます
公正世界仮説の考え方であり、完璧主義のもたらすものであるが、不公平感が生じるのは防ぐことが出来ず、気の持ちようで対処するしかない。大富豪の如く、貧弱カードが革命によって覆ることもあれば、ローカルルールで意味を持つカードになり得るケースもある。自分の手札でババを引いてしまったとしても、そのカードが持つ効力に何か良いものはないか利用する必要があるのだ。
―――無理に明るく振るわないといけない風潮
―――人間関係は面倒臭くて辛いが、孤独は寂しくて辛い
煩わしい人間関係から離れるためにフリーランスになっても結局は人間関係に苛まれることはあるだろう。そこを上手く一人で生活していける土壌を作り上げられたところで孤独の寂しさの埋め合わせはできない。経済的に余裕があれば交流を図る手段も豊富だが、結局は社会参画できる能力のある人間力のある己自身が自信のカギとなる。
元来、人間は親しい間柄になって付き合いが長くなると接しやすいように思われるが、長くいる分自分の役割も固まってきてしまって身動きが取れづらくなったり、細かい違和感や疑問が不信感に変わりながらもその間その人のコミュニティにいることに不満を感じて別のコミュニティに理想を抱いたり、孤独を求めやすくなる。一方で、学校や職場と言った癒着剤のないまっさらなコミュニティにおいて、歴史の浅い関係であればかえって自分を出しやすかったり、お互いフラットな状態である分接しやすい利点もある。ただそういったコミュニティは刺激が少なく退屈であることが不満となり、次第にメリットを感じずただ面倒なだけとなって別のコミュニティに理想を抱いたり、孤独を求めやすくなる。そしてこういった背景に自分が対象となることを恐れて、過剰な反応をして素直になれない自分にさえ自己嫌悪を感じるようになるのだ。
―――友達とは?一人でも孤独ではない生き方
下記は、作家、狩猟者として活動されている方の考え方である。巷では「休日に遊びに行く人がいない」「こっちは友達だと思っているが相手が自分をどう思っているのか不安」と言うような不安が巻き起こるのも人間関係の悩ましさである。究極、ネットがある現代はどこにいても人と繋がることはできるし、自身の生活に充実していれば寂しさは感じないのかもしれない。
―――上手くできない…自分の真似が
―――類は友を呼ぶが真なら、心に絹を羽織った人物を目指すべき
―――共感性周知、知ること知っていることによるトラウマや恐怖がトリガーとなる「もし自分だったら…」の恐怖
―――一度こびり付いたトラウマは背負っていかなければならない
―――逃げるが勝ち
―――「なりたくない」人物に自分がなってしまったと感じた時に起こる自己嫌悪と無力感
こういった事象はほぼ自分で気づくことが不可能だろうが、第三者から見てその人が言っていることとやっていることが矛盾していると感じる場面は多い。たとえば「縦割りの社会で若手が苦しむ現状を変えたい」といっている上司がその若手にマウントを取ってはパワハラをしている光景は珍しくないだろう。本人は相手のためを思っていたとしても、他人が見た時にそう映らないのは不信感を抱くだけで、付いていこうだとか頼りにしようとは感じなくなってしまう。ただこういった不満を抱きながらも自分も同じことをしてしまっているんだろうなと我に返ることで、至らない自分を前に他人の不届きに目をつぶっているのが現代社会の大きな仕組みなのだ。
―――表面上だけでも仲良くすることで、お互いの均衡を良好に保つ
―――安易に界隈に溶け込もうとすると身を滅ぼす
―――人当たりの良さと居心地の良さは違う
表面上は面接で評価されやすいような明るくハキハキした雰囲気だが、実際付き合うと精神的に苦しくなるような傾向が出てくるタイプの人はある程度存在する。特徴としては、ただ自身が明るいだけで周囲の気持ちまでも明るく安心感を与えられるようなタイプではないため、周囲の不安や違和感に気が付かずにワンマンで盛り上がってしまう傾向があり、表面上明るいだけに隙が無く、誰も指摘できずにさらに居た堪れない状況となる場合がある。
―――苦手なタイプの人間、接するのは苦痛でもそんな生き方ってアリなんだと面白がる見方
これは2ch創始者のひろゆきも同様の発言をしていたが、苦手な雰囲気のタイプの人も面白がって見ることによって自分にとっても良い方向で解釈できる。嫌だなと思う展開でさえも「この人はこういうとらえ方で乗り切ろうとするんだ」とか「何喰ったらこんな考えに至るんだろう」と珍しい生き物を見る目で観察するとある種インスピレーションを刺激されて良いものだ。皆が良い人で悪口一つも言いませんと言うのは平和だが、当たり障りないというのはそれはそれでつまらない。外れ者がいるおかげで、ヨゴレを演じてもらい、それに付き合うことで自分はこうならない様にしようと鑑にしたり、面白さが生まれて新鮮なのである。
―――一方的な主義主張によって根絶やされる弱者
―――共依存からの腐れ縁、自己の不安から親しい人をサンドバッグに
アイデンティティ
灯台下暗しという言葉があるが、自分自身の内面は自分しかわからないが、外面は自分が一番わかっていない。この際の仮説として、もし自分の周囲の人間がすべて自分のクローンだったらという考え方がある。この仮説に対してさらに、周囲の人間が自分であると"知覚していない"か"知覚しているか"でその周囲の人間(自分のクローン)に対しての態度や印象が変わるだろうと仮説を立てている。周囲の人間が自分だと知覚した際に強く出るか、甘く出るか、でその人が自身で知覚できない死角の部分を見ることが出来るのだろうと思う。
―――気にし過ぎて引きずる
―――人は皆社会の中で複数の役を担っていて、どれも社会性のフィルターを通して認知できる範囲内では普遍的である
―――自信がないのは皆同じ、良い人ばかりでいられないのも皆同じ
結局皮肉なものでこれらは結果論なので、自分で見た理想像とそれを元にやっている自分と、はたから見た自分の姿は同じではなく、真逆にさえ捉えられることが多い。「自信がある」ように見せるために他人にマウントを取り、「良い人」でいるために卑屈にも近い弱さ由来の謙虚さで自信を薄れさせる。八方美人が嫌われるのは、結局どこかに抜けがあり、その行動原理を疑われるからである。自分が汚れずに完璧であろうとするも、皆を納得させられるほどの器量や深みがないのだ。
―――石を投げれば酔っ払いに当たる、悪口を言えばみんなに刺さる
煙草の銘柄で言うと、WinstonはWinstonの木があって葉っぱが取れるわけではないし、それはSevenStarも同様。人も煙草も皆同じ木の元に生まれて味付けは後から行われる。故に、そこで差異を出そうとも同じ人間であることには変わらず、物は言いようで良くも悪くも捉えられる。もどかしさの中でどう応えるかという大喜利を各々が体現しながら社会・人生が成り立っている。ちなみに、このたとえ話は松本紳助で紳助が話していた記憶がある。
―――人は皆自分を使い分け、そしてそれらすべてがその人
―――我思う故に我あり
虚構も現実と同じくらい現実であり、現実も虚構と同じくらい虚構である。この世にはっきりと断定しきれる正しさや真実は皆無であり、各々の正義感や価値観よりこの世の中を見渡しているのであり、同じ世界にいながらそれぞれが平行世界に生きていると言っても過言ではない。
―――既にあるフォーマットに合うように自分を偽る・合わせるという苦痛
自分は普通の人に比べたら自分は劣っているのでは…と感じる場面は多々あるが、それは持病と言うほどでないにしろ花粉症や食品アレルギー、アトピーといった症状を抱えていることによる弊害と同義で、世間の風潮もアップデートするにせよ、その規格に自分が合わないということは多々ある。また依然としてそういったものには対策は打たれており、個人レベルで対策して何とかなる者もいるのだ。
自分に嘘をついて生きるというストレスは並々ならぬものではあるが、下手に高飛車に生きるよりも身の丈に合った方がストレスがないのは当然だ。ただ、同じ土俵に上がろうと、合格基準に合わせるために頭にシリコンを埋め込んで力士として活躍した舞の海がいるように、背伸びをして同じラインに並んで切磋琢磨していくうちに、実際は周囲の人間も自分と変わらず弱さや生きづらさを持った生き物なのだということを実感するようになるのだ。もしかしたらこの世の人の多くは背伸びをしているだけで皆同じ身の丈なのかもしれない。
―――存在意義・承認欲求
自分が存在する理由などそもそも必要はないし、ましてや理由や意義を持って生まれたわけでもないが、何かそれらしい存在意義を持ち出して人間的価値だのを評論する場がある。なんだかんだ言っても人に価値のアリ・ナシは存在しない。この世の多くの業務は程度や進捗の差はあれど、ある程度までいけばほぼほぼ誰でもこなせる手合いのものである。そこに優劣を付けたり誰かを悪者に仕立て上げて我を主張することが生きづらさを形作っており、ひいてはそれ故にありもしない自己の存在意義を見出さなくてはやっていけないような社会が成り立っているのが被害の深刻化と言える。「いらない」と言われるのを恐れてすることが"それ"であるならば"それ"は本当に「いらない」行為なのだ。この世に本当に必要と言えるもの自体少なく、本来「いらない」と言う者も別に「いらない」のだ。
自分の証明書となるものや保証書の類はないため、自分で自分が不安になったり、自分に裏切られることによって自己嫌悪を深めることは負のルートだろうが、これは受け入れる他ないのだ。自分が天才であると思っている場合や可能性を感じている場合はその期待にこたえられない自分に無力感を感じてしまうが、そもそも自分は特別でもなく、なんとなくただ階段を上っていくうちに程よい高さまで来るだろうの感覚だけで過信し過ぎないことが重要。
―――実力と自信は別
下記Tweetは、自身の高さと実際の学力を表した棒グラフである。自信では最下位だった日本が実際の学力では上位の成績である。なんなら自信で最上位だったアメリカは学力では芳しくないことがわかる。
―――理想の姿に自分を代弁してもらう
―――自分が正しいと感じる自負心は自己肯定感を維持し、人生を全うするのに最もシンプルで分かりやすい方法
―――コントロール願望
自分の思い通りにいかないと気分が悪くなるというのは子供から大人まで皆同じである。人生は往々にして何が正しくて正解なのかがわからないため、各々が自身の中に人生哲学を持っている。そしてそれは1つに定まらず、ダブルスタンダードのような形で自己矛盾として現れ、時に自己嫌悪に苛まれる。
何かに期待して行動を起こす以上、そこには自身の想定する展開があり、それに基づく希望や期待が行動原理となり、実際問題は想定しきれていない展開が起こったときに「なぜ?」という怒りや悔しさが沸くことで、自分の思い描く展開へ強引に持っていこうとすることで問題を解消しようとする。他人は自我を持っていて、それは自分でコントロールできない制御不能なものであり、表面上上手く折り合いをつけて何とかフェアな状態で交渉する。他人の運転する車で乗り物酔いを起こすのと同様、他人のペースに流されるのはある種楽でもあるが、付き合わされる側としては動きが予見できないものなのだ。
―――自分は自分で作り上げるもの
罪と罰
―――叩いて埃の出ない人間はいないし、人は皆それぞれの十字架を背負って生きている
―――奪われた悲しみや怒りを部外者が嗜めたところで、その感情は当事者にしかわからず、その穴は埋められない
人を呪わば穴二つと言う言葉があるが、これは北野映画における「拳銃を使った人間は幸せになれない」と同義で、過去に手を汚した者の手は汚れたまま時に刻まれていく。過去の過ちは変えられないため、未来に期待して改心して良い人ぶっても過去は偽りでしか美化できない。呪いと言うのは実体がないが、誰かから呪われている・怨みを抱かれているという事実とそれを身に染みてわかっている悪事を働いた当事者の心理的な不安定が引き起こすプラシーボ効果に過ぎない。どうしても免れなかった理不尽な罪はあるだろうが、その動機が自信の悪心からでは、死ぬまで呪縛は解放されず、誰かに赦しを乞うたり、裁きを受けて罰されることで救われたいと考えるようになる。その十字架を背負って生き、罪を認め、正しい道を模索しながら生きることでしかお互い幸せにはなれないのだ。
理不尽
―――時折理不尽を感じる世の中の不完全なシステム
子供は大人の背中を見て育っていき、それを人間の模範のようにして生きていくため、一番大事で身近な大人である親及び幼少期の影響が今後の人間活動に大きな影響を及ぼしてくる。それと同様に、学校の先生と言う存在は教育者として良き大人、人格者であるような印象を子供は抱き、どんなに面倒と思っていても教えられたことがほとんど正しいものであると錯覚してしまう。大人になればそれが嘘であり、自身を縛り付ける呪縛であることに気が付くが、学校で与えられた価値観は人間的に抱く疑問を度外視して守るべき大切なものと言うように教えられるのが質が悪い。
―――常識を疑え
―――この世の行き場のない不平不満を自分の無力を棚に上げて非難する
―――「何で自分だけ」と言う感情と「自分もちやほやされたい」と言う感情
上記Tweetは下記記事の内容になるが、内容がいたたまれないものであるのもそうだが、ここから派生した「ハブられた腹いせに公正な立場でハブったクラスメイトを教師に密告」という行為に、SNSを始めとする媒体で見かける現代の不和を感じる。”人格や世渡りって、どう教えればいいんだろうな”と言う文が味わい深い。ただ”「友達がやってる打ち上げ会を、誘われようが誘われまいが、チクっちゃいけません」「同僚を売って上司に媚びうるのは評判が悪い行為です」”とあるが、実際これで世渡りできてしまっている人がいるのも事実だし、こういう行為をしながらもある程度の人望ある人間もいる。こういった事実がノイズになって、結局何が正しいのかわからないというのが生きづらさを加速させている。結局自身が正しいと思うことを行うのが一番で、その方が自身の信念に偽りがないので自我は保ちやすいのだろう。
―――世の中の理不尽や不都合を誰かしらのせいにしたがる
―――積年の恨みつらみの気持ちはものの数秒の謝罪の一言では晴れない
―――器用貧乏・馬鹿真面目は割を食う、それ以上に上手い立ち回りが社会においては重要
自由や楽しさから乖離した世界で勉強し、苦労した上で成り上った人は、その苦労があったから今の自分があるんだと主張することが多いが、これは自分の過去を肯定して自分の人生及びその選択が正しかったんだと納得したいが故の主張である。実際同じルートを辿ったものの志半ばで挫折して何も成し得ず、普通の生活は愚か、苦労に見合わない底辺の暮らしをする羽目になった者もいる。この場合は自分の道が正しかったということは受け入れられないため、間違いを誰かの責任として不当を主張するようになる。大きすぎる代償に引き換える生贄もまた大きいのだ。
結果論で考えれば、苦労は博打であり、どっちに転ぶかわからないゆえに躊躇い、普通の道を選択するのが多くである。ただ、道自体自分の意志で選択できず、成り行きでいばらの道を進んで潰れていく者もいる。そのフラストレーションは人間・感情ある生き物である以上発生し、歪みとなる。その地点になってみないとわからない事象に関して、軽はずみに「なんで?」は通用しないのである。
壮絶
―――ちょっとしたことで崩壊する安定
―――落ちていくこと、そして這い上がろうとして上に上がれないこと
―――生きづらさを「死にたい」と思いながらも懸命に生きる人を蔑ろにして発言することの軽率さ
稀にメディアで身投げによる人身事故が報道された際に、その遅延の影響にいら立った人々から「一人で勝手に死ね」「時間・場所をわきまえろ」といった趣旨の投稿が出て、それに対してコメンテーターが「心が弱っている人間にそのような発言をするのは自殺を誘発させて良くない」との趣旨の発言が出る一連の流れがある。この流れに対しては違和感があり、誤解を招かぬよう最後まで読んで欲しいが「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人が、あれほど生きたいと願った明日」という旨の言葉があるように「あなたが空しく死んだ今日は、死にたいと日々苦しみながらも懸命に生きている者の足を引っ張った今日」との言葉もあると個人的には考えている。シビアだが、シビアな世界に生きている故、この世は生きている・生き残った者の世界である。ただ、軽率に自己保身のために他人を悪人に仕立て上げ、思い通りにいかなければそれを何かのせいにして批判しなくては生きていないのであれば他の人の足を引っ張ることになる。ひいては、それを恐れて生きづらさを感じている人もいるため、結果的には同族嫌悪であって自らの言動により首を絞めているに過ぎない。ガンジーが「目には目をでは世界が盲目になるだけだ」と言ったとされるように、誰かからの評価や自分の落ち度を恐れて他人や社会を批判して敵対視するようでは、結果自分の生きづらい環境に従って自らその風潮を推進しているだけであり、この世はより不合理で苦しい世界になる。
―――自然界はピラミッドが成立する、人間界でも同様
この世には、人や環境、時代や文化など、当人の"できなかった"言い訳となり得る要因で溢れている。そういった負の心の拠り所たらしめるものがあるからこそ自我を保てる部分はあるだろう。それと同様に、学校や会社組織の中でも何らかの序列が発生し、スケープゴート的にヒエラルキー構造が生まれる。自分より下がいる安心感、そういった存在によって社会が回っている部分があるのは承知のことだろう。そうして自己を保ち、心の安定の上スキルアップをしていく人は多いと思われる。言うなれば、それだけ社会には人がいて、各々が小さい戦争、戦を繰り広げている。他人を使ったり使われたり、そういう所に生じる違和感さえ何らかの要因を言い訳にして日々やり過ごしているのが現状。多くの人は、自己保身のために何かを犠牲にする修正が見受けられる。これが正直に、素直に生きることの難しさ、自身の持つ信念や「けしからん」と思う所以の根源である。
―――反出生主義に見る人生への責任の重さ
―――人は生まれながらにして罪を背負っているのか?
―――狭い世界に生きて自分に嘘をついて脳死で出過ぎた行動をすると、広い世界では嫌われて制裁を受け「誰もお前を愛さない」状態になり孤立する
狭い環境で生きていて、特に芸もない、そこまで頭も良くない状態であれば、そもそも「何が面白いのか」また「何が悪くて何がいけないのか?みんなそんな感じで悪さをを働いたりするじゃないか?何が違うの?」という点を理解していないため、限度を知らずに「やってみたら結果面白いかもしれない」というぼんやりとした浅はかな考えで行動して、結果どうなるのか、どういったリスクが考えられるのかまでを考慮しない。いざそれによって自分が悪者になると居直って悪態をつくことも考えられるが、それは翻って考えると当本人も生きることに苦戦し、自分の身の振りや社会の本質がわからない状態に悪戦苦闘しているということなのだ。未成年ならまだしも、成人後も身の振り方がわからず、自分の成長にもつながらない罪の上塗りをした上、屁理屈で正当化しながら何とか生きているものもいるが、総じて人から煙たがられ、嫌われるものだ。
希死念慮
―――安楽死の概念
下記記事では安楽死について述べられている。安楽死を掲げる数カ国について、重度障害ではなくうつ病などの精神病による自殺についても安楽死が行われており、イギリスの例では、家族が身内の自殺幇助を行ったとしても罪に問われずに不起訴となる例も見られた。また囚人にも安楽死が設けられ、安楽死後による臓器提供も自己決定権によって進められているようだ。
―――「生まれて来なければ良かったなんて誰だってそう」現在進行形でもどかしく生きる人たちが頭に思い浮かべる希死念慮
「死にたい」という言葉は正確には「楽して幸せに生きたい」である。ある種、こういった悩みが適度であれば新たな道を開くきっかけとなったり、トリガーになる。不便な環境から便利さを求めて人々が新たな製品やシステムを開拓して利用するのと同様である。
―――ふとした思い付きで死に至る
―――ふと我に返る瞬間、自殺1秒、人生一生
―――死ぬことはいつでもできる
―――過去に執着せずに日々更新していく
多くの人は「死にたい」と思っても具体的に実行した人の割合は少なく、もし思考停止に陥るほど精神的に脆弱な状態に陥ったとして、そこでぱっと思いつく考えが「死」である。どんなに心の中で自分は自我を持っていてこれまで生きてきたという自負があったとしても、自分一人の考えや言動ではのっぴきならないのが社会の辛さである。ここまで貧相になると、通行人にもおびえ、些細なショックも致命傷になりかねない状態になるため、さらに内向的で無気力に陥る。ただ「死」以外の選択をして、新たな安定した道を築くことが出来ればそれが自分にとってのベストアンサーとなる。そうして心に余裕が生まれれば、過去の辛さも笑い話にし、受けた与えた罪と罰にも寛容で前向きな行動を取ることが出来る。
―――二兎を追う者は一兎をも得ず
すべてを効率よく手に入れられるだろうという慢心が沸くと、その欲望のまま中途半端な思考と謎の自信で当たって砕けてしまう。塞ぎ込んですべてを引っ込めてしまうのは死と同義で、生きていれば中には時間が解決するような問題もある。銀行預金と同じく、生きているだけで多少は利益が出るような要所はあるのだ。そのためには、周囲の人間と肩を並べた生活をまず行い、その中で安定を図った上で次の手を考え、余裕がないときのために余裕があるときに動くべきなのだ。
―――長く生きていけば思いがけぬことも起こる
下記記事では10年以上引きこもり生活を送っていた男性が介護職を始め、後に結婚にも至るが、最期には一人になってしまう。それでも失った10年以上の経験を得て決して虚しい結果ではないと自負している模様だ。
メンタルヘルス
―――ただ穏やかに暮らしたい
―――肉体と精神の同異
―――答えのない人生を頭を抱えながら生き抜く悩ましさ
何が正しいかを知らないとメンタルに不調をきたす。そういう意味では虚構も現実も同義で、映画を1本見るにしても内容のきついものは観るのに精神力が必要となる。ショックな出来事や焦りや不安は、ある程度メンタルが保たれているときであれば身の回りを改善するためのトリガーになるが、自分に自身が無くなり行く末に不安を感じたら立ち直れなくなる。エアコンはつけると寒いし消すと暑い。人間の感情、欲も同じで、ちょうど良い期間はただ1つに定まらずに過ぎ去ってしまう。
―――癌よりも多い自殺による死亡
―――その時々の気分で思考回路さえも180度変わる脆弱さ
―――支え合っていきましょう
―――メンタルの不調は気づきづらい
―――優しさは余裕、自分に余裕がなくては他人に親切をするにも億劫
―――卑屈になるな自負心のある謙虚であれ
―――ネガティブな発言は控える
―――逃げるは恥だが役に立つ
―――モチベーションの下限を決める
―――1日よもや1秒単位で気分の変化は起こる
ストレス
―――過度なストレスは生活を荒廃させる
―――過度なストレスは人生を停滞させ、やがて停止させる
―――人が壊れる前兆
―――欠落こそ我が哲学
虚言癖
―――現実逃避のうちに虚言癖が加速する
―――堂々と素をさらけ出すことで胸のつかえを取り除く
メンタルケア
―――不安の断捨離が必要
不安で悩んで苦しみ、自分の中でもがいても答えは出ないし、そもそも自ら課題を生み出して勝手に苦戦しているだけで、実際周囲はそれほど事を重んじていないし、解決策を切望している訳でもないことに気付いた方が良い。答えのない問に答えようとしたところで正解は存在せず、一番正解に近いと思われる回答を自分の中に持っていて、余計な問題を増やさニアようにするのが上手くやり抜くコツと言えるだろう。くだらないことに頭を悩ますよりもっと有益なことに思考を割いた方が良い。
―――睡眠剥奪は記憶定着を妨げる
失恋から夜通し酒を飲み明かすなどの話はよく聞く話ではあるが、寝ることが記憶定着であるから貫徹せずに受験生は睡眠をとった方が良いということもよく聞く。ただ一方で軽い出来事程度であれば変に頭を抱えるよりも寝て一度リセットしてしまった方が良さそうだ。
―――思考を整理するには真上を向くのが良い
―――占いはほぼカウンセリング
まず占いに何回か通ったのだが、基本的に良い事しか述べず、不安で来ている人が多い分相手の悩みに対してそれを安心させるためのメンターという要素が強く、未来予知などスピリチュアルでは絶対ないと確信した。技術的な占いの面で言うとこれまたピンキリで、どう考えてもこちらの言い分がわからずに的外れな結果を占う人もいた。
―――趣味や楽しみが人生を助く
酒や煙草は健康に悪く、長生きできないなどと嫌煙されることがしばしばあるが、実際は今日この1日・明日を生き抜くためにそれが必要であれば、いつまで生きるかもわからない未来よりも現時点の方が重要だ。衣食住という必要最低限の無駄のない暮らしの中で、娯楽や嗜好品が何よりも生きること及び人生の豊かさに寄与していると言える。
―――なんとかして元気を出す
精神病
―――心療内科・精神科の良し悪し
新卒で入った仕事によって自信を完全に喪失し、心療内科に行ったことが数回ある。事情を話し、なんとか薬を手に入れたが記憶や行動に関して特に変化はない。別の心療内科でも同じような薬を渡され「ストレスが原因だとは思うのですが…」と、反応も同じ感じであった。脳外科へ行き、CTとMRIを見ても異常なし(海馬の萎縮などもない)。ここで再度「心療内科で見てもらっては?」と訊かれ、ループに陥りそうになった。
結局、無駄に「まだ薬残ってます」「では今回薬出さないので様子見ましょう」といった5分程度の診察で1000いくらか診断料取られたり、根本的な原因を解決しない限り病院にかかっても何も解決されないんだと気が付いた。
―――精神科、心療内科、カウンセリングの違い
不安障害
―――パニック障害とPTSD
パニック障害が何の前触れもなく不安や恐怖心が沸いて精神症状が発作が起こるのに対し、PTSDは過去のトラウマが原因となって発作が起こるという違いがある。どちらも発作が起こるのではないかと言う不安から発作が起きてしまうようだ。ベトナム戦争帰りの米軍はゲリラ戦の経験から、物音に過敏になったり妄想するようになった人(PTSDを発症する人)が多いらしい。
―――PTSDには治療法もある
鬱病
―――みんな、鬱
―――鬱の後には躁が来る、その後にはまた鬱が
―――鬱だけが原因とも思えない辛い人生
下記記事では職場でのパワハラによって鬱と謳って退職後、孤独を感じて居た堪れない独身中年男性の話が綴られている。
メンタル面の回復に孤独を出しようと模索する男性だが、自分に付いてくる人がいないこと、居場所がないことに気が付く。文を読んで感じる印象としては、自身の改善すべき点を治さぬまま過ごしてきたつけが回ってきたように思える。それが原因で鬱々とした展開が待ち受けていたのではないかと思うエピソードが多く、振り回される周囲を意に介せず一方的に自己都合で人と接していると見受けられる言動が目立つ。
実際に鬱と診断されたわけではない男性は交流を求めるが、交流の中で自身の改善すべき点を改めて接していかなければ上手く軌道に乗るのが難しいだろう。自戒を込めて読むと良い、身につまされるエピソードだ。
―――うつ病になると判断力が鈍る
―――うつ病の発症傾向の違い
―――うつ病は目に見えない
下記は実際に深刻なうつ病に陥った方のエピソード、知見である。
長文だが、全文読むことを推奨する。
最終的には、皮肉にも父親の死がきっかけになって寛解し、そこからはどういう経緯かはわからないが、農業に従事しているようだ。
薬やカウンセリングではなく、抜本的に意識的にうつ病から抜け出すきっかけが見つかることが重要。何か行動を起こすことが現状を変えるきっかけにつながるとしているようだ。自発的に動き、改善しなくてはならない。
―――うつ病について明らかになる研究結果
適応障害
―――適応障害でも目標を持てば何とかやり過ごせるかもしれない
パーソナリティ障害
―――特性
―――完璧主義に陥る白黒思考(悉無律思考)
■自己愛性人格障害
統合失調症
特徴として挙げられる、人格の荒廃と言う言葉がひたすらに怖い。
どこかで聞いた話だが、統合失調症は自衛機能でもあり、現実逃避で作り出した架空の設定を自分の人生であると思い込んで幸せに過ごすという例があったらしい。それを見た周囲もその方が本人も幸せだろうと治療をしなかったようだ。
これは別の話になるが、長崎の五島列島では都合失調症の症例が多いとする研究もある。下記は引用だが、リンク先の内容を読むと興味深い。発症者のケースを文面で見ると、決して貧困家庭だとか成績不振などではなく、性格も社交的との文面がある。さらに、当人とその周囲を取り巻く関係者までもが発症しているのだ(当人のみかと思えばその他周囲の人間も同様であった)。
記事ではその地域がATLV(成人T細胞白血病)が多く蔓延しており、遺伝子レベルで発症しやすいとの旨がある。
どこまで情報が正しいか、精度の問題もあるが、遺伝によって広まるかもしれないという危惧は感じざるを得ない。
―――発症したきっかけ
また、下記の芸人2700の八十島の統合失調症発祥のエピソードが興味深い。
自身の中で煮詰まった際(多くの場合は自身の現状や今後の焦り)、身の回りに起こるあらゆる現象が自身に向けて意図的に行われた行為であって、自身はそれに対して応戦しなくてはならないと考えている。対談で千原ジュニアが発した「お前はただ仕事がしたかっただけなのでは?」と言う趣旨の言葉にすべてが詰まっている。そこがもしかしたら当人の潜在的な悩みや不安だったのだろう。
どんな人でもなってしまう可能性があるのが恐ろしいが、鬱になってから統合失調症になったり(併発の場合も含め、躁鬱の躁状態など)、陰謀論にハマって統合失調症になったりと、世の中洗いざらい見渡せばこの病気に当てはまる症状の人は案外少なくないのかもしれない。ある意味、病識を持って素直に現状を見つめて制御できるようになれば回復したと言えるのだろうが、病名が付いているだけで、病名の付かない健常状態であっても同様に不安に取りつかれる日常から解放されるのは難しいだろう。
☟また、統合失調症の際の症状を体験できる
―――症状と状態、行き過ぎた防衛本能だとする説
―――その時代と共に変容する妄想
昔は統合失調症の妄想の中に「天皇陛下」というワードが出てきては、自身を天皇陛下及びその家系の人間であるといった誇大妄想をする患者がいたようだ。よく妄想の種類として「集団ストーカー」「思考盗聴」「電磁波攻撃」などが挙げられる。
―――妄言を逆手にとって悪徳商法を行うビジネスのカモになる
メルカリで投稿される自作の対策グッズやTwitterの陰謀論界隈でもそうだが、こういった層をカモにするビジネスがあるように思える。統合失調症が過度に周囲に対して猜疑心を抱くことから、そのわかりやすい解決策を提示する団体とそれらをありがたがる層を見て、自身の疑念は間違っていなかったと錯覚して安堵する。そのために費用を払うのであれば惜しくもないという需要と供給が、何も生まず何も解決しない不毛なまま状況が悪化しているようで、下記の引用のように腹立たしさも感じてくる。ただ、統合失調症の方々にとっては唯一安堵できる、信頼できる環境として認められるのだろうからやるせない。
―――寛解後の記憶
当人が発症時の記憶は残っており、その時期は何かが憑依していたり、第三者にコントロールされていたような感覚になるようだ。興味深いのが、幸福の科学の大川宏洋が父・大川隆法について、幸福の科学創設の黎明期に隆法が紙に「いい知らせ、いい知らせ…」と書き始めて天からのお言葉を授かるようになったとしているが、宏洋氏から見ると統合失調症のような妄想に取りつかれているようであったという趣旨の発言があった。実際は大川隆法自身も煮詰まっていて(当時サラリーマン時代は仕事が芳しくなかったのではと言う疑念がある)、結果病気の発症と共に宗教法人を設立する流れになったとすれば、氏の言動に納得ができる。
―――どんな人間でも健常でも不安は常に付きまとう
―――ところがどっこい夢じゃありません、これが現実
発達障害
ある時自身に何か障害があるのでは?と心理検査を受けに心療内科に行ったことがある。トータルで2~3万程したと思うが、行ったのは適性診断と性格診断だ。いわゆるWAISといわれる性格診断を受けた。結果はいずれも、企業での適性診断のような「あなたは~タイプ」といった簡素なもので診断名は特になかった。
総合的に捉えると、のっぴきならない異常な状態でない限りは診断はしない方が良いのでは?というのが答えではあるが、いくつかの精神科を受診して見て自己分析してみるのもまた答えだと言える。結局は自分が変わらなければどうにもならないのが現状だ。
また、発達障害(もしくはグレーゾーンか自認している)の人はどんな仕事をしているのか?というのが気になり、交流会へ向かったことがある。就労支援でオープン就労している人よりもクローズドで就労している人が多い印象だった。また、中でも面接時に障害のことを述べた上で採用されて働いている人もいた。度合いもあるだろうが、ほとんどの人は人と関わらないリモートワークメインの仕事(チャットのみ)や倉庫作業などの裏方作業。また人事や経理などの事務仕事などがあった。中には建築関係の仕事や営業をしている人も見受けられた。
また遅刻が多い人がいれば逆に朝型で遅刻しない人もいた。またASDとADHDではタイプが極端に違うと思ったのが、同じコミュ障でも無口なタイプと周りを気にせず一方的に話しまくってしまう人という点でズレていた。
友人関係においては、普通に友人がいるが少ないという人が多かったり、常識を兼ね備えていて話し方や挙動も一見普通だがADHD・ASDの両方を診断されたという人もいた。
また手帳は持つことで収入が少なくなるため持っていない人がほとんどだった。
―――外面的特徴だけでなく内面的特徴までも遺伝する
―――"普通じゃない"を自覚する瞬間
―――「生きづらさ」を挙げるとそれは発達障害や何かしらの影響を考える
―――「発達障害」は保険に入れない、住宅ローンも組めない
下記記事によって、精神科や心療内科に通院した履歴があると保険の加入や住宅ローンが断られるという旨が記載されている。
1度でも精神科に通うと住宅ローンや生命保険に入るのが難しくなるというのは、生命・医療保険の加入には健康状態や病歴の告知が必要であるからである。厳密には通院ではなく診断に基づくもので、病気が完治されていれば組める場合があるらしい。
―――発達障害の有無に問わず社会が生きづらいという事実は変わらない
抜本的な考えで、発達障害であるかどうかは診断をしなければわからず、その診断さえカウンセリングに基づく問答ややり取りに基づいたあみだくじの結果であり、医師の判断によっても左右される。結果、発達障害であるから生きづらいのではなく、障害の有無によらず自身の不届きや社会の不完全さによるしわ寄せの結果である。
巷では就活の人事採用において、発達障害者を見分けるための「不適正検査」なるものが存在しているようだ。
―――"生きづらい"という現状を何かのせいにしようとする傾向
―――大人になってから好転する場合もある
―――自虐できる発達障害は社会適応しやすい
―――健常者エミュレーター
下記記事内にも出てくるが、健常者と同様に装うために模倣し、そこに労力を掛けているさまが受けて取れる。それを"健常者エミュレーター"と称しているが、これは発達障害に関わらず健常者でも常に発動させている社会的なフィルターだろう。ただ発動する労力は人並み以上に掛かることが予測される。
下記は健常者エミュレーターを具現化したWikiである。「路上で排便してはいけない」など、危険予知トレーニングのようにリスクと対処法が述べられている。
☟下記は上記Wikiを作成した著者による見解が述べられた記事である。
―――都合よくレッテル貼りとして「障害」という言葉を用いる
―――障害を障害と認めない点にも生きづらさがある
―――病気も法律のように新たに作り出される
―――発達障害の方に向けた適切な指南
ADHD
―――昔はその気質が役立っていた可能性、昔以上に浮き彫りになる発達障害の概念
―――ADHDは加齢によって顕在化する
―――メリット・デメリット、対外的か内在的かで出てくる問題
ASD(自閉症スペクトラム)
―――アスペルガーを定義したアスペルガー氏もまたアスペルガー
―――世界の正確性を確認したいのがASD、自分の正しさを確認したいのがADHD
―――言葉の裏を理解できないASD
下記にはその例となるエピソードが記載されているが、本当に意味を理解できていないというよりは、1人を好むASDの建前の受け答えのようにも捉えられる。一人でいたい言い訳にわからなかったとしているだけで、一緒に食べることによって発生するコミュニケーションの壁を避けているように思える。
―――特徴を理解し、適材適所で動けば強みになる
―――腸内細菌が作用しているという研究も
下記が『腸内細菌と自閉症スペクトラム障害』と題された論文である。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsbpjjpp/30/2/30_55/_pdf
―――障害も見方を変えれば癖が味になる
これから
―――悩んだらまず生きる選択肢を考える
「死にたい」と心の中で思ったことは幾度とあるだろうが、実際に実行しようとしたことがある人はそう多くはないだろう。昔、学校で先生が道徳の授業か何かで自殺未遂をした過去を述べ「首をくくろうと思った時、家族の顔が思い浮かんで、悲しむだろうと思った。」と語っていた。生きる選択肢を取ることは、未来はわからないものの死よりは良い選択だと思われる。
下記記事では、希死念慮は視野狭窄が引き起こすものだと述べていた。死にたいと思う状態の際、身近なことが億劫になることで生活習慣が悪化し、悪循環に陥り、思考が「死」で埋め尽くされる。「死」によってすべてが無になり、苦しみから解放されるという結論だけで埋め尽くされ、生きていく際の次のステップが踏み出せない・思い浮かばないままぼんやり息をしている状態になる。個人的な持論としては、気分が安定している時に身近な面倒ごとを片付け、将来を見据えて努力することで、万が一ダメになったときの生きる上での選択肢が浮かびやすいので、先延ばし癖を辞めてとりあえず何かしらに手を付けて夢中になるということが重要だと思われる。
参考・関連文献