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山口昌男『道化的世界』

山口昌男『道化的世界』(筑摩書房、1986 [初版:1975])
バスター・キートンからピカソ、エリック・サティ、エイゼンシュタイン、能楽、人形劇に至るまで、“道化”を幅広く、多様に論じた一冊。誰もが当たり前だと重っている日常は、「見せかけの現実」に過ぎない。“道化”とは、そうした現実に楔を打ち込む――言い換えれば、慣習化された日常に割れ目を生じさせる――ことで、新たな衝撃を与える行為である。例えば、駄洒落やモジリが笑いを引き起こすのは、それが従来の意味や文脈――秩序――から取り出され、語の意味作用を擾乱するためだ。道化は人を混乱に導き、新たな〈現実〉を生み出す。
山口の提唱する「知的探究」も然り。日常の約束のなかで、人が当たり前だと認めているものの正当性について疑いを持つことで、はじめて〈現実〉への視線は恢復される。これこそが、道化的〈知〉の探求なのである。

ホラーと道化
昨年秋、中田秀夫監督の映画『リング』(1998)を観た。いつも世話になっている、20代前半の男性美容師から薦められたからだ。
「幼稚園のときだったかな、夏休みにおじいちゃんの家で観たんですけど、もう、めちゃくちゃ怖かったです。」
パーマ液を私の髪の毛に塗りたくりながら、彼は笑った。
「きっと来る〜」のインパクトがあまりにも強くて、何だかんだで観たことがなかった。パーマをかけてもらい、渋谷で軽く買い物したあと、早速自宅で観ることにした。あらすじは説明するまでもないだろう。貞子役が「演劇実験室◎万有引力」の女優・伊野尾理枝さんであることに驚きつつ――改めてみると貞子の所作にはアングラや暗黒舞踏に通ずるものがある――、それなりに“楽しい”95分だった。かの有名な井戸の場面も、確かに恐ろしかった。美容師の彼が言うように、あれを「子供時代の夏」に「おじいちゃんの家」で観たら、さぞかし怖いだろうと思った。
ただ、貞子がこちらに向かって迫ってくるとき、私は何故か可笑しみを感じ、笑ってしまった。それは、この場面が何度もパロディ化されているからではない。そこでふと思った。ホラーと笑いは紙一重なのではないか、と。

先に挙げた山口昌男『道化的世界』においては、道化の役割を、日常生活を構成する秩序に楔を打ち込むことで、人々を混沌に導くものと見做している。見世物小屋やサーカスが最も分かりやすい例であろう。ここで主題となっているのは“道化”であるが、ホラーにも同じことが言えるのではないか。つまり、ホラーもまた、ありふれた日常に、“怪異”すなわち秩序から逸脱した“何か”が持ち込まれることによって、人々を混乱させ、新しい〈世界〉を(好むと好まざるとに拘らず)生み出すのだ。
ホラーと道化は一見すると両極に存在するかのように思えるが、本質は同じなのではないか。
そのことに気付いて以来、どのホラー映画を観ても、私は笑ってしまう。怖いなあとは内心思いつつ、私の口からは笑い声が漏れてしまう。


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