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『スノー・ホワイト』(掌編小説)

窓の外は一面の雪景色。

線路の連結を車輪が越えてゆくリズムが
いつもなら僕を心地よい眠りに誘う。

今日はまったく眠くならなかった。
彼女に会える嬉しさが覚醒させている。

リュックの中をのぞきこむ。
読みかけの文庫本と携帯音楽プレイヤーがあった。
どちらを手にとろうか迷い、どちらも手にとらなかった。
目的地まであと一時間。
リュックを胸に抱えると、また窓の外に目をやる。
絶え間なく雪が降っていた。


改札を出て見慣れた道を歩く。
靴底が冷たい。
厚手の靴下が必要なことを忘れていた。
しばらく坂道を登ると、高台にある公園が見えた。
ブランコに座っているのが
遠目でも彼女だとわかる。

そっと近づき、小さな背中に語りかける。
「今日は遅刻しなかったね」

一呼吸の間があり、彼女は振り向いた。
サングラスをかけている顔を見るのは初めてだった。
「久しぶり」
黒いレンズ越しに彼女が微笑んだ。
いつの間にか雪はやんでいた。

会えなかった日々を二人の言葉が埋めていった。
仕事のこと。習いごとのこと。
読んだ本のこと。最近見たニュース。
いつまででも続くと思ったとりとめのない会話は
いつの間にか終わり、静寂のベールが優しく二人を包んでいた。
気がつくと、彼女も僕も高台から遠くの雪景色を見つめていた。

彼女の黒髪が揺れる。
少し風がふいていた。

先に口を開いたのは彼女だった。

「ねえ」
「なに?」
「キスして」
「できるわけないよ」
「そうだよね」

今、本当に言葉を交わしたのか。
そこに現実感は無かった。

彼女がサングラスを外す。
日の暮れた薄闇の中でも目が赤いとわかった。

「真っ白なんだよ。雪みたいに」
やわらかい吐息のような彼女の声。
「わたしのウェディングドレス姿、見たかった?」
「見――」

頭を介さず、心が直接返そうとした言葉は
また降り始めていた雪に飲み込まれた。

「わたしね」

僕が見た彼女の最後の表情は、笑顔だった。

「わたしね、幸せになりますよ」


列車の座席に座り、リュックの中を見る。
読みかけの文庫本と携帯音楽プレイヤーがあった。
ふたつとも手にとったあと、ふたつとも戻した。

コートのポケットに何か入っていると気づく。
彼女がかけていたサングラスだった。
いつ入れられたのかは気にならなかった。

ベルが鳴り、ゆっくりと動き出す列車。
サングラスをかけて窓の外を見ると
数時間前と同じ景色が違う表情で僕を迎えた。

――幸せになってね。

伝えられなかった言葉は凍りついていた。

しばらく目を伏せたあと
もう一度そっと窓の外に目をやった。

ただ雪だけが、しんしんと降り続いていた。

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