見出し画像

ひとの不思議をじっと見つめる

『ひとのことをじっと見てはいけない』
と幼い頃に何度も言われた

確かにそうだったと思い出すことができる

ひとに興味があったかと言われると
すこしだけ違う
不思議で仕方なかったから見て見つめて
考えていたのだと思う

ひとという分類ではおんなじなのに
ひととひとはそれぞれ違うことが
不思議で、いったい何が違うのだろう
と観察をしていた
情報として捉えていたように思う

小学一年生のときにうさぎの絵を
描いたときも12色のクレヨンの
そのままの色と同じなんて
どの一部にもないから色を重ねては
見比べて、何だか目に見えているものと
描いたものが違うなあと思っていた
動くたびに色が変わるような気がしていたし
目に見えるものを写しとらないことも
不思議だった

どうして声に出さないと
考えていることが聞こえないのかが
とても不思議だったし
どうして同じことをしていても
みんなそれに対して表情や動きが
違うのだろうと思っていた

自分が心のなかで唱える声は
確かに私には聞こえているのに
どうしてだろう
声に出さないまま呼びかけてみたら
聞こえたりしないかしら、と
試してもみたけれど届くことはなかった
(今は聞こえてしまったら困る
心の声ばかりだけれど)

そんなことを思い出したから
この2日ほどはたくさんのひとのことを
ぼんやりと眺め続けた
(ひとに視線を気づかれるようなことはしない)

知り合いではないけれど偶然にもう一度
会ってしまうようなことはないかと考えたり

どんな日常を過ごしているのだろう
家族はいるのかしら
今日はこれから帰るのだろうか
それともこれからどこかに行くのかしら
どんな恋をしてきたのか
ふいに話しかけたら共通の話題が
あったりするのだろうか
と、考えを巡らせることは尽きることがなかった

結局のところ何も分からなかったし
きっと私がそんな風に考えていたことも
誰にも分からなかったと思う

これを読んでくださっているあなたの
すぐ近くでこれを書いていたのかもしれないし
もうどこかでお会いしているのかもしれない

それを楽しみにしているわけではないし
そんな出来事は早々起きることでもないと
分かっている

私の心の声が聞こえているひとが
電車の中にいたかもしれないし
私の存在が見えてすらいないひとが
いるのかもしれない

不思議なことが不思議なまま
分からないままでいることが
どんなにか多いことだろうと思う

誰に教わるともなく知っている本能
誰にいくら教わっても分からない原理
どう分かろうと思っても理解できない誰かの思考
何をどこまで分かれば幸せになれるだろう
自分自身が何たるかを理解するだろう

こたえも果てもあるようでいて
ないことを心の中で唱えつづけている
書き記すだけではたくさんのことがきっと
こぼれ落ちているだろう
考えていることをぜんぶ書き出したら
何だか面白そうね

きっとほとんどのひとからしたら
少しもおもしろくないだろうなあ
と心の声を記して終わろう


たんなるにっき(その83)

この記事が参加している募集

#noteのつづけ方

38,469件

よろしければサポートをお願いします。自費出版(紙の本)の費用に充てたいと思います