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秋を感じる風にあたった体は少し冷たかった

◇ 平日に本屋さんに行けると幸せな気持ちになる

在宅でも出社でもお仕事が終わる頃には
お店屋さんのほとんどが終わっているから
なかなか平日に本屋さんに行くことができない

それでも土日のおやすみには必ず行くので
行けなくとも困るわけではない
今日は何となく気持ちが切れてしまい
早めにお仕事を切り上げて少し興味のある
アーティストのエッセイを見に出かける

買おうと思えば時間を問わず、Amazonで
注文が出来てしまう便利さはあるけれど
本屋さんは行く、という行為自体にきっと
私は価値を見出したのだと思う
事実、何回か頁を往復してほとんど内容を
理解して結局買うことはなかったのだから

◇ 自分のなかに感じる危うさ、立ち枯れ

身の回りで起きるさまざまなことは
何故だか自分自身に置き換えてしまいがちで
更には感受性が強いときたものだから
自分のことながら何と扱いづらいのだろう、
生き辛い生態なのだろうと思う
恐竜やメキシコハジシロキツツキが
どうして絶滅したのかは門外漢の私には
分からないことだけれど何だかいつも
危険水域のライン上をスラックラインの
ように歩いている、ように思える

不意に狂死ということばを思い出す

ずっと前の私は狂死のクライシスと
戦っていたのだろうなあ
ここのところの私も危ういなあと自覚がある
それはメンタル不調だとか落ち込んでいる
ということではないし、狂死を危惧している
わけではまるでなくて
緩やかに浸潤する絶望や閉塞感のようなもので
分かりやすく狂死や迫り来る希死念慮に
向き合っていたあの頃よりも実は危険なのだろう
と漠と思う

◇ 世界観とは閉じたものなのか

何度となく言っているけれど私は
クリエイターではないわけで
気にしていることではないけれど
世界観とは何だろうと思うことがある

北野武さんのキタノブルーだとか
新海誠さんの雨と電車とモノローグだとか
チャーリー・カウフマンの人間を異化した
表現だとか
その人にしか出せないもの、いや単なる傾向や
癖に近いと思うのだけれど
そういうものをひとは世界観と言うのかなあ

成功したり有名になれば世界観なのか
こういう商業化していない市井のなかでも
同じなのか推し量れていない
私に世界観があると言われたいのではなくて
それを求めたり、認めてもらいたいと思うまで
皆さん突き詰めて創作しておられるのかと
考えると些か自戒と気後れをしてしまう

自分のために書き遺しているだけの私は
誰の目にも留まることなくスタンドアローンで
あるべきなのだろうなあと紙に滲んだ
色水のように少しずつ拡がっていく

それについて誰かと議論したいわけでも
結論づけたいわけでもまるでないけれど
感じたことを忘れないために遺しておく


◇ 夜のバスの操車場のように蓄積する

上層階から見下ろすとバスの操車場が見える
遠目でもひっそりとした感じは伝わってくる
ほんの少し見つめたことが何時間か続けて
見たような感覚がするのに朝になるまでは
まるで静止画のように動くことはない

一見するとまるで関係のないことをこうして
書き連ねていても、きっと相関があり
そして、忘れてしまったふりをしても
積滞していくのだと思う
それが立ち枯れていくことを予感させる
閉塞感や停滞感につながるわけだけれど
こういうものを世界観だとか孤高だなんて
美化されたいとは思わない

感受性が強いだとか、深く考えるだとかを書くと、承認欲求から共感されたいのだろうかや
辛いのは自分だけはない、と断じられる
仰る通りだと思う
私はそういうものを狙っているわけではない

でも、生きづらさは感じている
それは相対評価でひとと比べているのではなく
絶対評価による感覚だからあれこれ
言われたくはない
分かるわけない、と自分を特別視するわけでもなく
分かってほしい、と寄せ合いたいとも思わない

客観的な視点、そして記録ということと
些かシニカルに自身を見ることで
自分に『生きろ』と檄を飛ばしているにすぎない

私自分自身を変えるのも生かすのも
最終的には私にしか出来ないことなのだから


たんなるにっき(その61)

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