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ある視点からの意見が意図せず誰かを傷つけることがある

◇ 誰かの放言が真実として受け取られる

これはもう致し方のないこと
ということを前提に思うことを思うままに

コンビニエンスストアや飲食チェーンの商品を
その道では名の通った方が審査をする
というテレビ番組が人気でちょくちょく観ている

審査内容云々を参考にする、ということよりも
商品開発に心血を注いでいる社員の方の気持ちに
感動している

ある商品の評価が低かったことに対して、
「味を変えないで欲しい」というこえが出ている
という報道を見て、思うところがあった

グルメ評価サイトのレビュー等、こえの大きさや
数によってあたかも、それ自体が揺るぎのない
全員のこえ、評価だと捉えられることが多い

「参考にする」ことと、「それを信じる」ことは
似ているようでまるで違う
なぜなら、価値観や判断基準を預けてしまうか否か
なのだから

それはnoteをはじめとするSNSでもそう
先日も決めつけをして、断じている記事を
お見かけした
ある視点から見たらそうなのかもしれないけれど
多面的に見たら全部がそうではないし、
一括りにされて語られてしまったら、それは
あまりにも暴論なのではないかと感じた

また、それについては称賛をされていたから
あぁ、多くの人はそう思うのか、と事実として
受け止めたのだけれど、そうなると先のレビューと
同じで、それこそが真実で、信じたひとの価値感や
考えは書き換えられていくのかと思うと
些か怖さを感じた
だからといって議論をするつもりはないし
矛盾や綻びや、別視点の意見を、だなんて
言うつもりもない
正しいたったひとつを皆で共有して、
それ以外は間違いである、とすること自体が
間違いだと思うからそれはそれで仕方ない

◇ 知らないひとのこえを耳元で聴かされる感覚

そう、たくさんの考えがある
どれもその視点からはある程度正しい
(ことが多い)

しかしながら、
それがある視点からは正しい
という前提に立ったとしても、別の視点で
聞いた時に、それは心ないことばとして
聞こえることもあるということも私たちは
忘れてはいけないのではないだろうか

そのことばは誰のために言っているのだろう

ここまで考えた私はすごいでしょ、と思い
誰かに賞賛されたいからなのか

市井のこえを集めて、世の中や社会のために
代表者然として主張されているのか

あるいは攻撃して、断じて、見下したい
特定の誰かに対する恨みでもあるのだろうか

いや、仮にそれがどんな理由であっても
それは瑣末なことで、中にはそれによって
傷つくひとがいたり、あらぬ偏見や誤解を
助長することもあるということが隠れている
ことをほんの少しでも考えておかないと
いけないということ

それならば読まなければ良い、見なければ良い
というこえが更に出てくるのだろうけれど
インターネット、特にSNSにおいては
のぞまずとも目にしてしまうことがある
最近は減ったけれど、受動喫煙だとかに
たとえたら良いのだろうか

ターゲット、標的(そういう文章からしたら
そういう表現になるのかしら)にされていなくとも
自分ごととして捉えるひともいる
それが書いた方の本意ではなくても

知らない誰かの正義のこえは
耳元で大きく響いてしまうことがある

そう、はじめに戻るけれど
致し方ないことだと分かっている

だから私もある視点のこえとして
自身の考えを捉えているから
正しいことの答え合わせのための議論や
意見の一致や勝ち負けのようなものは
求めたりはしない

ただ、多様性や言論の自由は
そういうことではないとは思う

長々と書いて最終的に思ったのは
怒るという感情はあまりなくて
何だか悲しいなと思ったということ

今、道を歩いていたら
「どんどん酷いことが起きてる」と
女性が電話口で話しているのが聞こえた

どうしてそんなに世の中や誰かを
悪いものとして言い続けるのだろう

そりゃあ思うことはみんなそれなりに
あるのだけれどね


たんなるにっき(その78)

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