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詩を描いていても私は詩のことを何も知らない

◇ ほとんど詩を読んだことがなかった

日頃、詩というかたちで『思考のデッサン』を
しているけれど、ほとんど詩というものを
読んだことがなかった
誰しも一度は本の虫になる時期もあって
御多分に洩れず私もその時期はそこそこ長い
期間あったように思うのだけれど、どうしてか
さほど詩集というものを手に取ることはなかった
それは恐らく、あっという間に読み終わるのにも
関わらず、自分自身のなかに行間を響かせる
のには多くの時間を割かねばならない、と
勝手に決めつけていたからであって、学生時分の
私にとっては至極費用対効果の悪いもの
という捉え方があったからだろうと思う

とは言え、私にとっては詩人は哲学者と同じくらい
高次に生と死を捉えた人間だと思っていて
おおよそ私からは程遠い属性・肩書きなのだろう
と羨望というよりも、ひとつ隔てた者、として
見ていた感はある

そう言いながらも詩を描いているではないか
とご指摘を受けるのは想像に難くないのだけれど
私の場合、表現手段として詩が便利であるから
というだけで、別段優れた詩を描けるわけでも
なければ、こだわっているわけでもない
日記やエッセイというものほど内面を赤裸々に
書くことを望んでいないし、小説というものを
書けるほどに文章も世界観も構築する技術を
持ち合わせていない

文を積み上げる才もなく、私にしか見えないものを
そっと行間に記憶(あるいは記録)を挟み込むこと
が出来るという利便性から選んでいるという
ことだけでしかないのだと思う

だから(しつこいくらい繰り返しているが)
私は詩人でもクリエイターでもない、と
はっきりと自認できるわけなのだけれども

著しく前置きが長くなったのだけれども
詩をあまり読んでこなかった私だけれども
思い立って企画展に足を伸ばした

きっかけは星野由美さんの記事を拝読して
面白そうだなと思ったこと

noteには素晴らしいアンテナを張った方が
いらっしゃっていつもとても刺激や影響を
頂くことができる

星野由美さん事前の許可もなくごめんなさい
そして、ありがとうございました


◇ 辞書を引かずに理解できる感覚

詩というものは個人的な記録だと勝手に思って
いるので、正直何が言いたいのかさっぱり
分からないものもある
もっと素直に打ち明けるならば、大半のものは
あまり分からない(私のもそうだと思うし)

という前提を持ち、半信半疑な気持ちで
見に行ったのだけれど、『あれ?何だか
すごい共感出来るぞ』という予想しない
自身の反応に驚いた

詩というものが何たるか、詩人とはどういった
類なものがについて定義をしていたことに
ついてもとてもとても共感出来た
お叱りを受けそうな表現を使うならば
『感覚が似ている』『似た考えの方がいた』
という感情、シンパシーのようなものを得た
(気がする)

(とは言え、では私は詩人なのかというと
決してそういうわけではないし
才がないことは十分に自覚しているので
至極烏滸がましい発想だということも勿論
承知している)

シニカルさやアイロニーが溢れ出そうなので
多くは語らないけれど、詩人でありながら
それを客観的に定義していることにただ驚き、
そして勝手に孤独を分け合った

◇ 詩に商業的な価値はないのかと悲哀する

翌日になっても余韻は残り続けた

その場だけでなく考え続ける時は
自分自身にとって大きな何かを与える時

どうせならと、作品をきちんと読んでみようと
思い立ち本屋さんに行く…が、どうしてか
売っていないもので3店舗ほど廻るも
ついぞ買うに至らず…何せ在庫がないのだ
そうか、詩集というものは商業的には厳しい
ものなのだな、と改めて感じる
今の今までほとんど読んで来なかった私が
言うこと自体おかしな話ではあるけれども

Amazonで注文したらすぐに読めるの
だろうけれど、明日は古本屋さんに
足を伸ばしてみようと思った
足と目で直に触れるものを大切にしたい
何となくそれを求めていることを確信する

明日これをするぞ、という予定があることは
生きることを肯定しているみたいだから
何だかとても良いことだと思えた


たんなるにっき(その65)

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