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SDGsと東京五輪 - SDGsへの向き合い方

東京五輪の意義には、SDGsエスディージーズが盛り込まれていない
何故か?
この記事では、東京五輪の意義との対比の中で、SDGsのあり方を考える。

「SDGsへの向き合い方」を問う

SDGsの良い点は、世界が抱える重要な課題を列挙し見える化したことだ。

SDGsに掲げられた課題の解決は極めて困難である。
これには、科学技術の発展を待たねばならないことが多い。
このため、時間はかかるし、関与するのは一部の専門家だけになってしまう。

市民として、SDGsに貢献する簡単で実行可能な振る舞いは、家庭ゴミを適切に処理することだ。
ただし、これは当たり前のことだ。他に、できることは無いのか?

専門的で、困難な課題を解決しよう、と思っても、できるわけが無い

何かの専門を持たない、一般の人々としては、まず「SDGsへの向き合い方」 を考えることが、手始めとなる。

そこで、思考実験をする。
頭の中で考え直し、簡単な課題に変形・分解してみるのだ。
このやり方のひとつとして、「対比させる」がある。

東京五輪への問題提起

極めて困難な課題に向き合う場合には、直接対決をするよりも、正反対の立場にある事例を考える(思考実験する)ことは有益だと思う。

その事例として、私は、東京五輪を挙げる。

東京五輪では、その意義に、(意外なことに)SDGsを掲げていない。
にも関わらず、SDGsっぽい感じがする。何故か?

東京五輪の意義は、「東京2020D&Iアクション -誰もが生きやすい社会を目指して-」(2021年8月18日 東京2020組織委員会)に書かれてある。

主な部分は次のとおり。

東京2020大会は、その大会ビジョン「スポーツには世界と未来を変える力がある。」の基本コンセプトとして「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」を掲げています。「東京2020D&Iアクション -誰もが生きやすい社会を目指して-」も、これらの考えに基づいています。

「多様性と調和」など、SDGsっぽい美辞麗句が並んでいるが、スポーツを前提にしている。(ここ重要)

東大阪市役所が贈呈した感謝状には、「スポーツを通じて国籍、年齢、性別、文化の違いを乗り越えることができるオリンピック精神」と書かれてあり、これもスポーツを前提にしている。次のサイトを参照。

スポーツはSDGsの解決に寄与しない

東京五輪の意義には美辞麗句が並んでいるため、スポーツにはSDGsの課題を乗り越えられるチカラがありそうな錯覚に陥るおちいる

しかし、スポーツは趣味・娯楽であり非日常である。
SDGsは現実世界における課題である。
ゆえに、スポーツは、SDGsを解決できない

このため、東京五輪の意義にはSDGsに関する言及は無いのだ。

東京五輪で意識が高まれば、その勢いで、現実世界を良くできる、という主張があるのかもしれない。
しかし、意識が高まることと、現実世界を良くできることの因果関係を証明することはできない。それは、言ったもん勝ちだ。

朝日新聞の記事

次の記事は、何か勘違いをしている発言が記載されている。

谷は「びっくりした。日本のダイバーシティーはすごく明るいと感じた」と笑顔だった。「色々な人が混ざり合って調和していくのが理想。10年後か20年後、パラをきっかけにこんな社会になったね、と言えるようにしていきたい」

発言の趣旨は、「パラという非日常の世界における多様性を、日常世界に広めたい」ということだろう(推測)。

パラは興業である。演出で盛り上げる。そして、それに、乗り・乗せられる。そんな非日常の世界の中では「明るいと感じ」るのは当たり前だ。
しかも、選手自身は、選ばれし英雄だ。
他の、多くの、日常に生きる障がい者は、置いてきぼりだ。

「パラをきっかけに」する必要性は全く無い。
パラが有ろうが無かろうが、日常世界において、障害は除去されねばならない。
パラで損耗する公的資源を、日常における障害の除去に投資すべきだ。

何故、「パラをきっかけに」と発言したのだろうか?
それは、パラが社会貢献をしているかのように、SDGsをやっているかのように演出したかったのだ。
「混ざり合って調和していくのが理想」と考えるのであれば、人工的に構成されたスポーツの世界ではなく、日常の世界で実践すべきだ。

東大阪市の感謝状

東大阪市の市長が、「国籍、年齢、性別、文化の違いを乗り越えることができる」とSDGsっぽいことが書かれた感謝状を贈呈すれば、スポーツへの権威・ブランドが高められる。

注意して欲しい。
意図的にブランド化を狙う者には、隠された真実があり、それは、必ずしも、市民にとって有益ではない。

この隠された真実を誤魔化すため、東大阪市ではマスコットキャラクターが活躍したりする。小学生や中学生だと、コロッ! である。為政者の立場から見れば「市民はチョロイ!」だろう。
この結果、約50万人も住んでる都市が「ラグビーのまち」にさせられてしまっているのだ。野球やサッカーの方が人気があるにも関わらず。

これを見て、カワイイと感じるよりも、
これの意図は何かを考えるようにしよう

偽物にせもののSDGsを駆逐せよ

SDGsに掲げられた課題の解決は、どれを見ても困難である。
しかし、SDGsであるかのように偽装する問題であれば、その偽装を見破れば良いので、比較的解決が簡単であるように思える。

個々人が、正義面せいぎづらした(可愛く装った)広告・宣伝やプロパガンダに対する意識を高くし、乗せられないようにすれば良い。

ニセSDGsを駆逐くちくすることにより、そこに投入された公的資源を、真にSDGs問題の解決に割り振るようにすれば良い。

このように、SDGsに掲げられている困難な課題への直接対決ではなく、意識を高めれば良い程度の、比較的容易な問題の解決をすれば、一歩ずつ進められる。

東京五輪と向き合う

SDGsにおいて重要なことは、自分で正しく物事を考えることだが、正しく考えるための情報が遮断されることはあり得る。

東京五輪を礼賛する人の記事は、東京五輪の個々のコンテンツに着目している。
意義について考えるにしても、せいぜい、個々のコンテンツに関する意義だ。

非日常の世界を礼賛しても、日常の向上にはならない
そんな、当たり前のことを何にも考えない、考えようとさせない。

市民の立場としては、東京五輪は何のためにあるのか、という問いがあらねばならない。

大量の公的資源を東京五輪につぎ込んで、それを「楽しむ」とし、「楽しむ」ことを肯定・奨励している偉い人がいたりする。

スポーツは、社会的格差を前提にした勝利主義だ。いろんな面で恵まれた人が勝利する。
SDGsに反している。

長期的に見れば、スポーツは衰退し、他のもっと有意義なコンテンツが台頭するだろう。スポーツを奨励することは無駄だ。

東京五輪は、SDGsっぽい偽装をしている。
スポーツは、政治のチカラや税金で延命している。
スポーツ競技そのものが楽しいのではない。演出に乗せられた結果としての感動だ。

東京五輪の問題は、人の平等性や公共機関の公平性のあり方を議論することになる
SDGsの議論と、平等性・公平性の議論とは、着目する観点は異なるが、同じ重みの価値を持つと思う。

東京五輪は、SDGsのような極めて大きな問題では無いという意味で、比較的簡単な問題という位置付けになる。
しかしながら、東京五輪を「崇高なもの」「開催することを決めた以上、変更できない」と思い込んでいる人がかなり多そうなので、これはこれで大きな問題だと言えよう。

東京五輪は国家プロジェクトであるため、権威が発生し、そこから発信される情報には真実性があるかのように感じるかもしれない。
しかし、上記のとおり、よく考えると(普通に考えても)、東京五輪・スポーツはSDGsではない。
誤った盛り上がりに乗せられてしまうことに注意しよう。

市民がSDGsに向き合うには、騙されだまされないように、幅広に学習する必要がある。

以上

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