17. いつの時代にも瑞々しい切り口を見つけたい。創作現場の舞台裏から①
※ たまには人の役にたつものを書いてみようか、と思いました。ごめんなさい。人への指南はあまり得意ではありません
あの時代のコピーライター
わたしがコピーライターという職業を知ったのは、街に繰り出してばかりいた20代のはじめで。大学の掲示板で、「コピーライターのアルバイト募集!」の記事を見て知り、さらに1枚の広告ポスター(もしくは雑誌広告)に、斬新さをみて、衝撃を覚えたからだった。
ただ一度のものが、僕は好きだ。
コピーライターは秋山晶。殺風景な土のグランドに白線を引いている人の背中が、シンとしてまるで映画のように描かれていた。
キャッチコピー。そして次に来る「ボディコピー」の説得力というか、言葉の力に引きこまれて一気に読んだ。
陽が昇り、日が沈むように、青春は訪れ、通りすぎて行く。きょうという日は、ただ一日。いまという時は、ただ一瞬。ただ一度のものに、夏の甲子園大会がある。勝者は1チームだけ。「敗れ去る者たちのドラマ」と言った人がいる。出場する彼らにも、レンズで追うあなたにも、セカンド・チャンスは、まず、無いといっていい。だから、胸をしめつけられるのだ。(省略)
パソコンもインターネットもない時代。
わたしは図書館へ行き、「宣伝会議」という本を知る。そこには、たくさんの面白い広告が掲載されていたし、好奇心のシンクタンクのような活気を覚える。さっそく、「宣伝会議コピーライター養成講座」に申し込みを入れ、1年間通ったのが全ての始まりだったと思う。
80・90年代といえば、コピーライター全盛期。仲畑 貴志、糸井重里、眞木 準、岩崎 俊一。他にもメジャーなコピーライターは沢山いて、有名作家や文化人くらいには社会におよぼす影響力が十分にあったと思う。
例えばこんな感じだ。
「ハンバーガーを焼くのを卒業して、アメリカン・ジゴロになった」
「肌が乾いているのは、生きた野菜が足りないからだ」
「ドライマテニーを2杯飲んでいるうちに、街は雪になった」
キューピーのシリーズ広告だけど、秋山晶のコピーには都市と野菜(自然)という対比がうまい。この例えは適当かどうかわからないが、ミニシアターで観る1本のシネマや、アメリカ的な新しい小説の匂いを感じた。
また、仲畑 貴志のコピーには、言葉の中に体温を感じた。ドラマがあると思った。すべての文字を写生するくらいに憧れた。やはりボディコピーがうまかった。
仲畑 貴志
私は、あなたの、おかげです。(岩田屋)
初めて会ったのに、親友だと思った。(サントリー)
岩崎 俊一
一度、ふられてらっしゃい。(サントリー)
人は、貧しいという理由で死んではいけない。
負けても楽しそうな人には、ずっと勝てない。(セゾン生命)
西村 佳也
なにも足さない、なにも引かない。山崎(サントリー)
その頃(大学3年)、小さな出版社でアルバイトをし始めた。歌手のコンサートや文化欄の記事を時々書かせてもらったのだが、赤ペンを持って誰かの原稿をチェックしているか、本ばかり読んでいる「なまず」の編集長がいて、わたしを机の側まで呼びつけると、
「君なぁ、コラムは今いち。けど、コピーのセンスはなかなかだな。コピーの腕を磨きなさい」。その言葉を信じて、コピーライター養成講座に通いながら、業界のアルバイトを3つ(スタジオ、印刷会社、マーケティング会社)ばかり経験し、広告の道を歩みはじめた。
墓石のコピー、化粧品、食品、お堅い銀行(日本興業銀行)のパンフ、ヤンマーディーゼルの会報誌など、いろいろ経験した。雑誌媒体もいくつか持っている会社で、沖縄から離島へ行く「南西航空」の機内誌や、「Attention」といって空港バス搭載の雑誌の取材原稿を1年生の頃から連載で書かせてもらった。
若い頃によくいわれたのが、「なんか素敵、かっこいい」と思ってはいけないということ。なぜ良いのか? どう工夫したらもっと素敵になれるのかを、自分のあたまで考えなければ「作り手」にはなれない。「受け手」のままだという言葉だ。以来、街を歩いていても、ふと足を止めて仕掛けや意図などを考える癖がついた。
それから10年。世界は一変した。
手書きの原稿用紙から、ワープロ、パソコンへと移り変わっていき、IT化の波が押し寄せる。時代の空気感も「モーレツ」から「ゆとりの時代」、実質主義へと変貌を遂げていった。
広告も、その煽りをうけて、商品にまつわる物語や時代の空気感を語ったものよりは、本質をつく広告。商品の機能性や特徴、いわゆるコンセプトを端的に捉えた広告が流行るようになった。
わたしは、いわゆるメーカーの企画・宣伝に相当する部門を皮切りに、マーケティング会社の老舗企業に入社。結婚して子どもが生まれてから、百貨店を母体とする流通を主にする制作会社に転職した。
「あなたを思うと、あったかい。」
これは大丸百貨店の中元・歳暮を年間を通して書いた時の、わたしのコピーだ。その年のクリスマスシーズンに全国の電飾看板やポスターを彩って、懐かしい。当時のわたしは、可愛い盛りの2歳の娘(N)を母に預けて、携わっている案件にまさに翻弄されていた。毎晩のようにタクシー深夜帰宅、なかなか会えない娘の寝顔をみて、ふと浮かんだせつなさを言葉にしたものだった。
フリーランスになって心がけること
その後。フリーランスになると、自分の仕事の幅を広げてみたくて、編集の学校や古典の講座などにも通う。依頼されたものは、99%喜んでお受けした。自分の体験したこと全てが成果物につながっていく、くらいの刺激があって、制作チームというか仕事仲間もできる。
クライアントが発行する雑誌や媒体のたぐい、新聞の連載、コピーワーク、どんな小さな小さな仕事でも面白さはあった。フリーランスの良さは、仕事の成果がダイレクトに「言葉」で評価がかえってくることだ。褒められたり、感謝されたり、もう一息といわれたり(笑)。だから、大いに鼓舞し、軌道修正する。
そのうち、欲張って案件を持ちすぎないようにし、眼前の仕事に集中できる環境をつくるよう気を配る。理由は、せっかく依頼してくれた人の期待に応えるものを出し続けることが、その後の人脈だけでなく、「自分をつくりあげていく」というのが、肌感覚として、実感できたから。そう個人商店にとって、「1本の仕事が地獄と天国をわける」ほどの怖さがあると知ったからなのだろう。
心がけているのは、自分の戒めとして大きく三つだ。
1 自分がスキ、もしくは本物と思うものにこだわる
たくさんを見て共有しすぎると、混乱し、自分自身を見失う。自分の理想とするもの、よいものに積極的に自分からふれ、軸をつくること。
2 あたり前のことを疑い、課題の情報をしっかりカラダにいれる
知った気にならない。好奇心をもって課題の情報にあたり、とことん腑に落ちるまで知ろうとすること。
3 けしごむで書け。何度でも書き直せ
重要なのは、どう表現するか? ではなく、「何を言うか?」が大切。コンセプト(その課題の到達したい目的)をいちばんに考えるようにすること。誰にいうか? なぜいうか? いつ言うか? 出来上がったものは、何度も推敲。
具体的なやり方はこうだ
コピーを書くやり方としては、ノートを一冊用意して、課題テーマに対する「自分の反応」を次々に書いていく。誰でも気付けるあたり前の反応はカットして、自分の中にあるアイデアを生み出すのではなく「発見する」ように工夫する。そうして絞り出したコピーは1案ずつ書き出して、壁に押しピンで留める。俯瞰し、翌日まで寝かせて、熟成させ、提出するように心がける。
また、雑誌の原稿であるなら取材対象者の口から出た言葉は、その時の想いの1片だと捉えて、言葉の裏側にある心理をすくいとるべく、背景にあるその人の物語やライフスタイル、過去のデータも含めて徹底的に調べ、言葉の裏側にある潜在的な意図にも眼をむけたい。
そのひとは、本当は何がいいたかったのだろう……? 「本当に世の中に効く言葉か。一度書いたコピーや原稿を何度も「時」を替え、「場」を替えて見直してから。フィニッシュ(完了)させること。
いったん提出してからハッと気付けば再度提案も。クライアントは大概、面倒くさがらず、それだけ熱心に課題に向き合ってくれたのだと好意的にみてくださる方が多いのです。
外の空気を吸って、新緑の葉のゆらぎにぼんやり。瞑想をし、お風呂やベッドの中でも、ずっーと考えつづける。そうして、ある時、はっとひらめく!
アイデアは、自分の中の良い連鎖を生む、仕掛けづくり(環境設定)をしないとうまく開いてはくれないのです。毎日地道に考えていると、ある瞬間、奇跡のように、落ちてくる。
それには、人の真似をしないこと。人と違う価値を見つけて、気づいて、それを素直な舟(言葉)に乗せて送り出す。そうして「いつまでも若くのびやかなものを、書いていきたい」。それが、いまのわたしの願いでありテーマである。
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