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50. デュラスの映像のなかにいる熱風のような愛の時間に 書評


 マルグリットデュラス。とても刺激的な読書体験だった。モデラートは、クラシック音楽などに用いられる速度の記号で〝中くらいの速さで〟。カンタービレは〝唱うように、なめらかに〟すなわち、普通の速さで唄うように。これが、「モデラート・カンタービレ」表題である。

 この本を読んでいる時、ベランダの片隅に木製のリクライニングチェアを出し、朝の光のなかで読書した。マルグリット・デュラスは、言葉では表現しにくいことを、感覚、熱量で表現する作家だ。

 作品全体を包んでいるのは、夜想曲のようであり、中盤あたりからアダージョにも聴かせる。音階から音階のなかに、水のように言葉が溢れ出し、いっぱいにたまった水は水蒸気になって動きまわり、漂っては人波に激しく打ち寄せ、ゆるやかにまわり、浜辺へ消えていく。そんな音楽のなかにいる感覚だった。人のかたちをした水だ。

 なにも心地よさをいうのではない。美しさだけを唱えるのでもない。押し寄せる、感受性。熱量と同じくらいの孤独、虚無感。渇望も。そうやって読み手の心に入っていく。

 書かれている言葉が、音階となって風景の静けさのなかへ流れている。キツイ花の匂いが鼻孔をくすぐる。木蓮や水蠟樹のしなやかな花蔭が、みえる。日差しはつよい。春の霞がたつ。砂埃でむこうが見えない日もある。波はたえまなく、ざっー、ざざーっと呼吸するみたいに押し寄せる。

 鎔鉱所から出てくる労働者たちにまじって浜辺を歩いていくと、深い庇のある車寄せがついた洋館が建ち、上階の一番端にはクーラーの効いた部屋があり、アンヌ・デパレートが海の音を聴いている。まるで死がたちこめるほどの陰翳で、静かに立っている。そして海岸沿いにカフェの灯がゆれている。強い風の音もきこえてくるよう。

 マルグリット・デュラスの名前を知ったのは、確か、映画「ラマン・愛人」と記憶する。階級を感じさせる古いインドシナが舞台で、メコン川の流れとけだるい熱さが、空気に溶けていた。少女が、金持ちの中国人の愛人になる。その時の観察眼を、記憶として書いている。

 デュラスの作品には、舞台となる造形が物語を見守り続けていることが共通点だ。魅力的な女は、孤独と悲しみの沼を生きている。この物語の鎔鉱所の社長夫人、アンヌ・デパレートの存在感も気高い。

 (ここから、すこしネタバレします)

 まず、冒頭のシーン。ピアノ教師とのレッスンを側でみながら、心は砂をかむようにざわついている。平常心を保ち、息子のピアノレッスンに集中しようとしているところで追い打ちをかけるように、海辺のカフェでの雑然とした混乱ぶりが眼にはいるようになり、非日常へ。アンヌは情痴殺人事件への入口へ向かう。

 ひとりの女が床の上に手足をひろげたまま動かなくなっていた。死体に擦り寄る男の姿。男は狂乱のうちに、死体の上で転がり廻る。のちに、精神がおかしくなるのだ。
 この事件がなければ、アンヌはカフェに通い詰めることはない。この見知らぬ男と女の愛と死が、ラストまでずっと尾をひいている。

 貿易会社と沿岸鎔鉱所を経営する社長夫人。アンヌにとっては、カフェでの情痴殺人事件のなかに、自分を投影し、羨望と渇望を感じるのである。熱情を燃やすのである。なぜか? 愛なしには生きられない。ほかの諸々は彼女にとって不要なのだ。

 アンヌは、雇い主。雇われるものがジョーヴァン。その高い壁を取りはらい、交流を重ねることになる。

「彼女の口には血がついていたわね」「その女に彼は接吻したわね」

「ぼくはあの男が女の心臓をねらったのは、女に頼まれてしたことだろうと思います」

「今度はあの二人がどうやってお互いに口もきかないようになったか聞かせてちょうだい」

 毎夜、同じような会話が繰り返されるのだが、真相は知る由もない。ミステリーを解き明かしたいのではない、アンヌは自分の脳裏のなかに、カフェで繰り広げられた一夜の男と女に陶酔したいのだ。

 会話と会話の間を流れるのは、浜から流れてくる潮風の香と花の香り。息子への愛しい目である。

 わたしが思うのは、殺害された女は、自ら男に殺してほしいと頼んだというが、(それは、一生涯忘れぬ存在となるため)一番愛した瞬間を、永遠に凍結されるのが「死」というかたちであると、わかっていたからではないだろうか。男は自分が愛し、殺した女を死ぬまで抱いて暮らすのだ。いや、男も死ぬのだ。愛する男に殺害されることほど、哀しく、美しい死に方はない。そうやって愛のかたちと、生を開放できたことに対して、アンヌは羨望しているのである。

 最初の事件を起点とし、とりたて語るほどの展開はない。けれど、そこにアンヌの悲しみや孤独、耐えがたい日々はしっかりと読み取れる作品。夫のスキャンダルや怠惰な夫婦の生活、怒りも、屈辱も書かれていないから美しいのである。

 アンヌは拘束された貴族の社会からも、ジョーヴァンは労働者からも、はみだしている。

 転調は、夜会のシーンから。鮭は手から手へ渡されていく。鴨は皿に盛られる。胃袋にいれようとしないアンヌ。こころは、あのカフェにいるからだ。満開の木蓮が、庭の木々が、月の照る光がアンヌを見守っている。作者の筆にこめる熱量はさらに強くなる。最終章までは息つく暇もあたえない。

 アンヌはジョーヴァンの手を握り返し、愛を誓いあったりはしない。そのうち、ラストの場面では息子とも離されてしまう。行き場なく心の拠り所もない。その果てには、何があるのだろうか。破綻した人生の先にはなにが待つのだろう。

 アンヌとジョーヴァン二人の唇は重なり合った。先刻、彼らの冷たい震える手が行ったと同じ儀式にのっとり、触れ合わねばならぬという意志のもとに、儀式は成就された。

「あなたは死んだほうがよかったんだ」

「もう死んでるわ」


 本書には、解説などいらない。ただ言葉がそこに横たわり、私たちはそれを読むだけでデュラスの映像のなかにいられる、それを愉しむだけでいい。素晴らしい古典がある。大人になった、いま、味わったからこそ、わかるものがある。非現実と妄想の旅にのめり込んでみるのも、読書の悦楽!



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