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28. 差し歯を失くして


 

このところ、大阪の谷町六町目に毎週のように行く機会があり、空堀商店街をはいったところにある「こんぶ土居」の商品を時々買う。ここは、創業一〇〇年を超える老舗。いつ訪れても、そこそこ混み合っている人気の店で、「柱こんぶ」(貝柱入りのこんぶ)、「とろろ」や、「こんぶ豆」、「十倍だし」などを買い求めるのだが、この日は「こんぶ飴」を発見した! 
お、なつかしい〜と即、購入。

 
年末で仕事がたてこんでくると食事がままならない時もあり、この時も小腹が空いたので、さっそく一つ摘まんで、口に放り込んだのだ。

(先週の日曜日昼一時のことである)

ほーぅ昆布がとろーんとして。やわらかく、昆布味のキャラメルみたい。
甘みも、ほんのり。これまで食べた中で一番うまかった。ほくほくと、ニヤけながら。机に戻って、原稿の続きをはじめようとしたその時だ。

 にぶーい感じで歯に粘りを感じ、スローモーション的に口を開けたら。あらま、歯に飴がくっついて……。

しまった ! と思ったが。遅かった。とほほ。差し歯がーー。口の中に親指と人差し指を突っ込んで、こんぶ飴を取り出すと。差し歯が自動的にくっついてきた。

鏡をのぞいてみる。右下の、糸切り歯(犬歯)であった。

口の中がスースーする。舌の先で往復させて、抜歯のあとを確かめる。苦いエナメル質な、味がした。

 師走もはじまったばかり。2021年のラストスパートはまだまだ長い。

なんだか、突然ふんばりが効かなくなったようで、げっそりする。たかが差し歯が一本とれたくらい、大げさな。思い直してまた仕事をした。

それでも人の体調というのは不思議なもので、日ごと腹に力が入らないような気になってくる。くいしばれないのだ。どれだけ、からだの随所、無駄に力をいれ歯をくいしばっていたのだろうか。と知った。

 心なし気分が落ちたまま、月曜日、歯医者に電話した。

「土曜日のお昼でも大丈夫ですかぁ?」と、受付嬢はえらくかわいい声で言った。
差し歯がとれてから6日後……か。えらく時間が空くではないか。

おいしいものを食べる、楽しみを返してーーっ叫んでも仕方なく。左側の歯だけで咀嚼した。固形物を噛むのも、時間がかかるうえ、今ひとつ味が鈍調になった。突然。胃弱な体質になる(本当に少し胃が痛い)

たかが、犬歯一本で、生活レベルが落ちたことを知り、驚きをもつとともに、健康のありがたみをしみじみと感じたわけだ。

 こんな時、鉄瓶でわかしてつくる朝の葛湯に救われた。ほーっと温かく、なだめられているみたい。素朴で、胃にも気持ちいい。歯ぐきにも優しい味がした。

そして土曜日。歯医者へ。

椅子に背を預けて、口をあけること約15分。抜けた差し歯を先生にわたして、削ったり磨いたりして調整をしてくれ、ようやく歯が入った。バンザイ!

その日は、できるだけ噛みしめられる滋味深いものを食べたいと、羊肉を買ってきて、ジンギスカン鍋にした。ニンジンや、かぼちゃ、もやし、ニラもふんだんに。

普段、夜、原稿を書くので飲まないが、この日は盛大に瓶ビール(少し苦味のあるサッポロビール)を一本飲む。

 夜。お風呂の中で、いい一日だったと満足しながら本を読んだ。

ふと昆虫のことを思う。手足や触覚がもがれて、自然と再生された時のことを。さぞや悲しみ、さぞや、感謝したのだろう。

人間とて。失くしたからこそ、戻ってきた時の喜びに出会えたし、胃と歯と体の深いつながりに想いをめぐらせられたのだ。日常のありがたみを、ここまで来てつくづく考えさせられた、師走のトホホな体験であった。

これから、睦月。干し柿やあの餅の季節がやってくる。皆さまマスクの下に御用心。

 

 

 

 

 

 

 

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