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#20 不良クリスチャン、愛を語る

なぜそのタイミングだったのかはわからないけれど
あとでも先でもなく、そのタイミングだった。
と、思うようなことってないだろうか。

わたしは、ある。

例えば・・・
わたしはクリスチャンなのだけれど
洗礼を受けたタイミングなんかはまさにそれだ。

カトリックの女子校・女子大を出ているが
クリスチャンではなかった。
弟も保育園からカトリックの学校だったので
自分のと弟のとを含めると、もう何回
イエスさまが飼い葉桶で生まれる劇を観たかわからない。
羊飼役が激的にかわいかった弟も
今や二児の父。

そんなわたしが洗礼を受けたのは30歳を過ぎてからだ。
何故かと問われるとうまく説明が出来ないが
人生において、そのタイミングだった。
それまで日常で「洗礼受けようかな」なんて
考えたことはなかったし、
カトリック校出身なことなんて、聞かれて
あぁ確かに、くらいの意識で生きている
いたって普通の無宗教の人だった。
年末年始は神社に参拝に行き、お盆は祖父母を想い
クリスマスは聖歌がかかっているとウキウキする。
そんな人生なのに。
なんで、また。

こういうことになる前って
だいたいいつも同じようなことが起こる。
急に目に入り出すというか、集まってくるというか。
例えば、
ご縁あって知り合う人がやたらクリスチャンだったり
感銘を受けた作品の作者を調べたらクリスチャンだったり
お手本にしたい、と思うような人がクリスチャンだったり・・・。
もちろんそれが全てではないが
わたしはこういうことが続くと
「これはノックされているな」と受け取る節がある。
わたしの扉を「コンコン」とノックしてくれる。
昔からそうだ。
で、その感覚はいつだって間違っていない。


教会により様々らしいが1年程通う日曜学校も
高校・大学と7年間宗教の授業を受け
おそらく理解が深い、という理由から
わたしは約半年通った後
すぐに洗礼式というスピードコースだった。
しかも、週末が忙しい仕事をしていたので
当然のように週末のミサにも行けない。
スタート早々、いわば不良クリスチャン。
そんなわたしでも、洗礼式ではなんと言うか
初めて経験する不思議な気持ちになった。
わたしがわたしひとりものでなくなったような
ぴったり言い表せることばが見つからないのだけれど
そんな感覚になる瞬間があり
ぼわん、と、強く優しくなれたような気がした。
横に並ぶ人たちは皆一様に涙していた。

そんなことがあった後(にも関わらず!)
わたしは何度となく「もう死んでしまいたい」
と思うような厳しい出来事と遭遇する。
記憶が曖昧な時期があるくらいの。強烈な。
他人のことを信じられないこともきつかったが、
自分自身のことを信じられなくなった時が
何より一番きつかった。

ボロボロのわたしはある日ふらりと教会に行った。
誰にも会わず、話すこともなく
ただ、ひとり聖堂に座って静かに前を見るだけの時間。
座っているだけなのに
「いいんだよ〜」と言われている気がしてきた。
どんなわたしでも受け容れられているような。
嬉しかった。
だから、どんなこともわたしは受け容れようと
そう決心した。
いつだって条件付きで受け容れてきたわたしの人生は
ここを境にもっと深く広いものに変わって行った。

わたしの人生にやってくる全てのことは
実はどれもがわたしの為に選ばれた  "ギフト" 
だからちゃんと感謝して受け取れるようになるまで
それは何度だってやってくる。
必ず受け取れるという信頼があるからこそ
どれだけ厳しくても、簡単に死なせてはくれない。
ものすごい極端だが、本気でそう思って生き延びた。

あとでも先でもなく、そのタイミングだった。
今も時々ふと思い出す。

東京に引っ越したタイミングで、教会も転籍になった。
歩いて行ける今のわたしの教会は
強く、優しく、凛としていて、美しい。
わたしが大学生の時に
こんな大人になりたい、と思った人間像が
まるでそのまま教会になったような。

人って、結局ひとりでは生きていけないのだと思う。
今まで生きてきたのだって、誰かの愛情によって
生かされてもらえた証。
わたしは両親からの愛情を感じられないまま生きてきたが
でも、それは間違いなく存在している。
自分の思う120%の愛だけが、愛ではない。
全てのものに愛があると思えば
どの瞬間も実はとんでもない愛に溢れていると気がつく。
それは仕事のシーンでもおんなじ。

どうせ生きるのなら、わたしは
1%であっても愛を感じられる人生を送りたい。
生き方は、みんな自分で選べるのだ。



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