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先生は主体的で対話的な学びができているか。

学校・行政への発信を一旦やめることにしてみた

ここ数か月、地元の学校・行政に種まきをしてきましたが・・・
学校と教育委員会に行ってみて思いました。
これ以上はメンタルが持たないので一旦停止です。


私はどう伝えるかに時間を使いすぎている

学校・行政に、不登校の親の私が言葉を尽くしても、なんだか伝わらないのは何故だろう?
これまで先輩ママたちも長年同じことをやってこられた。
そんなみなさんもきっと同じ気持ちを・・・

単なる不満やクレームに聞こえるんだろうか?
ひとり熱くなりすぎているんだろうか?

相手が同じ熱量だったらそうは感じないのかもしれない。
ということは温度差が激しいということなんだろう。

私が単にうるさいんだろうか?
いやいや、でも独りよがりでやっているのではない。
ここのところを言語化してみようと思います。

一応は聞いてくれているんだけど

「自分の子どもには間に合わないけど発信しています」
といつも前置きをして、
「この発信は学校にとってもメリットがあることですよ」
とお伝えしている。

熱くもなく、フラットに。

そして、学校・行政の方は

「よく情報収集されてますね」
「よく勉強されてますね」

時々、地元の学校、行政ではこれを言われちゃうんですよね。

普通は喜びたくなる言葉ですが、この場合絶望的な気分になります。
(ここじわじわメンタルやられポイント)

多分この辺で熱くなるのか私は?

でも何でだろう?
この、
「聞いてもらう」「聞いてあげる」
みたいな関係性。

どうにかすると
「スッキリされたみたいで良かったです」
となる。

何この他人事。

学校って人を無気力不安にさせるの上手いなぁ。

今必要なのはまず対話

学校・行政の方で、不登校にコミットしている教員が少なからずいらっしゃると思うから、その方々と親の会の方々、興味関心のある方々で対話ができないものかなと思って動いた訳ですが。

誰がどう感じて、何に困っていて、今までどうしてきたか、今どう過ごしているのか。これからどうしたいのか。
話し合いや議論でなく、そういうことをシェアすることが今一番必要だと思うんですが。

でも、そういうことをするにも、まず
「話し合い」が必要になる訳で
数人でいいんでと思うんだけどもそれもできないそうで
「話し合い」がまず最初にくる。

話し合いだと、また私はどう伝えるかに時間を費やしすぎてしまう。

目の前のこの人を納得させるプレゼンをしなくちゃいけないのか・・・
またそれをここに来てするのかぁ・・・

対話の場を作るために説明・・・
無理じゃん。

そう思うと私はもう頑張れないなーと挫けました。
だって説明で本質がそれで伝わるとは思えないもの。
対話じゃないとなかなか伝わらない。


でもこれを言うと、もしかすると
「自分の意見が全て通ると思わないで」
「できることとできないことがあるんだから」
と言われてしまいそうなのもわかるんですが、ホントにそういうことだろうか・・・?
と思うのです。

不登校にコミットする教員を集めて一緒に雑談という対話をしたい

フラットな対話の場があれば何かが変わるのかな~と思ってきたけど、そういう場を一緒に作るっていう段階ではないのを思い知らされた。
行政に行ってみて、不登校にコミットする教員を見つけられなかった・・・
ご提案していただくことも難しいということで・・・

それで、このやり取りを経て分かった確信部。
それは学校・行政の当事者意識が欠如しているということ。

学校・行政も当事者です。

学校・行政の当事者意識の欠如。
これが分かっただけでも大収穫ということにしよう。
残念なことだけど。

例えばリーフレット作ることを提案・お願いをすると

「お話は聞きます」
「できることとできないことがあります。」

それ言われてるのがなんかね。
上手く言い表せないんだけども。
(ここモヤモヤメンタルやられポイント)

え?
これの何がおかしいの?

と思われるかもしれないし、

あれ?これは
私たちのわがまま?

と思ってしまいそうにもなる。


いやいやいや・・・
違う。

だって、自分事じゃないんだもん。

ここの微妙なところなんだと思う。

このコミュニケーションをリピートするようなことをもう二度としたくない。
これが苦しいんだ。
だからやっぱり対話からじゃないと始まらないなーと痛感しました。

お互いの思ってること言おうって。
自分の言葉で。
先生には鎧を脱いで欲しい。
何を守っているの?

守るのは子ども。

教育機会確保法の官民連携を忘れてる

この当事者意識の欠如っていうか、欠如していることにも気付いておられない。
たまたま担当しても今だけで、前からのことは自分のことじゃないからね~みたいになってしまうのも無理はないのは分かる。
でもそうじゃないんだ。

ここが理解できるまでは
まだ一緒に考えるって段階では無いのだな・・・

ここが理解できるまでは
言葉を尽くしても伝わらない。
対話ならば・・・何か違うんじゃないかな?と。

確かに一緒に考えて欲しいとは言ったけど、
「一緒にかんがえてあげましょう。でも、できることできないことありますよ。」
って角度でくるのは違いますよってこと。

学校・行政は当事者なんです。

だって

本来は学校が提供すべき情報

元々、学校から提供されるべき情報だったんです。

だけど学校・行政が情報不足というのが子どもが不登校になった数ヶ月でわかった。

情報不足を責めたいのではない。

情報不足だから次どうしたらいいかっていうのを一緒に考えられないだろうかという話をしている。

それを「お話聞きますよ」の姿勢のままだと進まない。

最悪の逆転現象

どう伝えるかに時間を費やして・・・
目の前のこの人を納得させるプレゼンをしなくちゃいけなくなる状況・・・
またそれをここに来てするのかぁ・・・

いやいや、ちょっと待ってよ
全部私たちがあなた方から情報提供されたるべきことだったんだよ。
それをすっ飛ばしてる。
でも、学校・行政に情報がない。
だから連携が必要ってなったんじゃない。

情報提供ができていなかったことを反省できるかどうかということ。
自分の言葉でそれが言えるかってこと。
そうしたら内容が一気に変わるはず。

ある地域では、教育委員会の課長さんが涙を流して
「今まで気付かずに本当にすみませんでした。」
と心からの言葉をおっしゃっていただいたという話しを最近仲間から聞いてた。
分かりだしたら
「何という大変なことをしてしまったのか・・・」
という思いになるみたい。

もちろん謝罪を要求してるのではない。
深い気付きを分かち合いたいだけ。
この方のように深い気付きがあると、謝らずにはいられなくなるんだろうな。

気付いてくれたことが励みになり、癒しになる。
そして前へ進める。

対話ならそれができる。

対話の中で見つけてゆく

まぁ、過ぎたことは仕方がない。
ならどうしたらいいか。
対話して、腹落ちして、それぞれがそれぞれの方向性で納得する。
話し合い・議論・説明で分かるようなものなら苦労しないです。
必要なのは対話。

その延長線に、それぞれの方向性に見合った内容のリーフレットができるんだと思う。

例えば、
一方通行のジャッジで作ったものと、対話の果てに作ったもの
仮にどちらも同じ内容のものが出来たとしても、浸透率が絶対に違うと思う。

でも
この様子だともしかして

学校復帰を目標にしないことが曲解されている

「不登校児童生徒への支援は、『学校に登校する』という結果のみを目標にするのではなく、児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて、社会的に自立することを目指す必要があること。また、児童生徒によっては、不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で、学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。」

教育機会確保法

おそらく、学校・行政でこれが曲解されているのではないかと思う。
この言葉で先生は不登校を自分事にしなくなった、またはしなくてもいっか、となった可能性はないだろうか?

確保法でも、無理に学校には、と書いてあるし。
親が子どもの習慣をきちんと管理しないから。
自由にさせるから学校で頑張れないんじゃない?
特性あるからなかなか難しいんでしょう。
サポート教室もできたし無理せずそこに行けば。

先生は、ぼんやりとそんな風に思っておられるのではないかな?

なんだか気が遠くなってくる。

悲しい・・・
私たちの時間を返して欲しい・・・

そんな思いが出てきてしまって、抑えようにも収まらない。

でもこれは私だけに起こってることではないんだなぁ。
全国の自治体で起こってる。

見えにくいけど、この状態で学校・行政と不登校のことをどうにか一緒にってのはメンタルにくること。
この痛みは長年みんなでシェアされてきたこと。
そろそろ大丈夫と思ったんだけどまだ全然だった。
でもこの痛みを一体いつまで・・・

人のエネルギーを奪うコミュニケーション

こんな感じの学校・行政と私たちのやりとりは、一見ごく普通のやり取りに思えるだろうけど、これはかなりメンタルにくるのが分かった。

私は一旦地元の学校・行政への働きかけは止めるけど、違う形で発信していきます。

私が学校・行政に感じたわだかまり。
もしかしたら、これは子どもたちが学校に感じるわだかまりに似ているのかもしれない。

一見自然そうなコミュニケーションなんだけど、保身が混ざると毒になるのかな。悪気無くという要素も強毒化を手伝う。

そう考えると
子どもたちが学校に行けない理由を、先生に「無気力不安」とされてるのも分かる気がする。
歯がゆいことです。

主体的で対話的な学び?

このままの状態で学校はそれを出来るというのだろうか?と思ってしまう。

じわじわと人のエネルギーを奪うコミュニケーションを続けたままで。

子どもの学ぶ権利が奪われてる。
こういうことが長く続いた。
もう終わろう。
もう終われるはず。

まず対話の場を作るだけで違うのに。
ただそれだけなんだけどなぁ。

いつからこうなったんだろう

自分はこう感じてる・・・

それさえ言語化しにくい環境が学校にあるということなんだろうか?

自分はこう感じてる・・・

ああ、◯◯さんも悪気はなかったんだよ。
そこはあなたが我満した方がいいんじゃない?
もうちょっと頑張ってみようか。

自分はこう感じてる・・・

聞いてあげて、できることはしてあげてる。できそうなことを提案したけど無理みたい。
それが無理なら学校や社会でやって行けないね。

いつからこうなってしまったんだろ?

本質について対話する場が必要

これから先、学びの多様化学校やサポート教室を作るのにお金が使われるんだろう。

その前に本質について対話の場が必要。
でもこの様子だと、またしばらくは置き去りになるんだろう。

私は

「自分の子どもには間に合わないかもしれないけど発信しています。
次の親子が同じことで苦しむことがないように」

間に合わないかもしれないけれど発信している。活動している。

そう聞いて自分事に感じて、危機感を持ってくれる先生が地元にいらっしゃらないかな・・・

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